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2章―4

 肩を並べて笑顔を交わし合いながら、二人は渡り廊下へと出た。


 ひんやりと冷たい風が頬を撫ぜる。

 さんさんと降り注ぐ日差しに、肌を焦がすほどの覇気はない。

 この地方の夏は短い。

 八月の半ばにもなると、空気には秋の気配が漂い始める。


「それはそうと、さっきからずっと気になってたんだけど、ミリアは何で突然レオンくんのことを気にしはじめたわけ? 昨日まではそんな素振り見せてなかったわよね?」

「えっ? いや、それは……」


 何と説明していいものか咄嗟に窮し、口ごもる。

 答えあぐねるミリアを救ったのは、視界をよぎった一匹の猫だった。


「――ダビデ」


 見間違うはずのない特徴的なその黒猫は、渡り廊下の一隅で身を丸め、のんびりと日向ぼっこにいそしんでいた。


 ミリアの隣で、ヘレンが、「きゃっ!」と黄色い歓声を上げた。

 気配に気づいた黒猫が歩み寄る二人に一瞥をくれる。

 が、すぐにどうでもよさげに瞼を閉じ、再びその前肢(うで)の中に顔を埋めた。


「うわー。何この猫、可愛い……! ねえねえ、この子、ひょっとしてミリアの猫?」


 ヘレンはキラキラと目を輝かせながら身をかがめ、黒猫の身体を抱え上げた。

 肩越しにこちらを振り返る彼女の意中からは、すでに直前までのやりとりは完全に吹き飛んでいる様子だった。


 内心の安堵を押し隠しながら、ミリアはそっと頭を振って答える。


「違います。ほら、昨晩霊園で私の顔に跳びかかってきた未確認生物がいたでしょう? この子がそうです。何のつもりかここまでついてきてしまいまして……。幸い部屋にまでは上がりこんでこなかったのですが――」

「あっ! 首輪に何か書いてる!」

「……って、まったく聞いてませんね。話を振っておいてそれですか?」

「ええっと……、Davi(ダビ)Davi(ダビ)――」

David(ダビデ)――おそらくこの子の名前でしょう」

「ダビデ……ダビデか! ダビデダビデ! うーん、ダビデェエエエエエ!」


 甲高い奇声をほとばしらせながら、腕の中の黒猫に、しこたま頬擦りを見舞うヘレン。

 突然の彼女の蛮行に、それまで無関心を貫いていたダビデもついに抵抗の意志を爆発させた。


 「ぶみゃ! ぶみゃ――――っ!」と抗議の苦鳴を撒き散らしながら猫パンチを連打する。

 だがその様子(さま)がかえってヘレンの琴線(きんせん)を刺激したらしく、度を越えた彼女の愛情表現はますます激しさを増していく。


「ダビデたんハァハァ……!」

「……やめなさいヘレン、聖職者見習いの顔ではありませんよ」


 よだれを垂らさんばかりの(とろ)け顔。

 さしものミリアもドン退きである。と、


「ああっ!?」


 頓狂とんきょうなヘレンの悲鳴。

 死に物狂いに身をくねらせていたダビデが、ついにヘレンの魔手から逃れ出たのだ。


 ひらりと渡り廊下に降り立った黒猫は、一目散にその場を駆け去った。


「どうやら、すっかり嫌われてしまったようですね」

「そ、そんな!?」


 ヘレンはこの世の終わりとばかりに愕然と蒼褪めた。


「自業自得です」


 ミリアは冷ややかに言い捨て、


「――何やら楽しそうですね」


 不意に投げかけられた朗らかな声に、二人は揃って顔を上げた。

 見れば一人の青年が、温和な微笑を浮かべながら、渡り廊下の向こうから歩み寄って来る。


「――って猊下(げいか)!?」

枢機卿猊下(すうききょうげいか)!?」


 ヘレンとミリアはぎょっと目を剥き、弾かれたように居住まいを正した。


 明るく透き通った金髪(きん)のオールバックに澄んだ湖面を思わせる淡やかな碧眼。

 縁無しの眼鏡が彫りの深い柔和な容貌を理知的にいろどり、皺一つない深紅の法衣が均整のとれた長躯ちょうくを一分の隙なく固めている。


 二十代とは思えない落ち着きと貫禄を所作しょさのはしばしににじませながら、ラインハルト・ユーベルシュタインは法衣のすそを悠然となびかせ、二人の前で歩みをとめた。


「ごきげんよう二人とも。ああ、そうかしこまらないでください。今日この場における私は、ただの一講師に過ぎません。もっと普段通りにしていただいて構いませんよ」


 鯱張(しゃちほこば)る二人の緊張を解きほぐすように、年若き枢機卿はにこやかに振る舞う。


「まあ、そうは言っても教鞭をとるにはまだまだ至らぬところの多い身です。君たちが私をそういう目で見られないのも無理からぬことではありますが」

「いえ、そのようなことは()して! 猊下(げいか)の授業は、私も毎回楽しく拝聴させていただいております!」


 悪戯っぽく肩を竦めるラインハルトの言葉を、ミリアはきっぱりと否定した。


「そうですか? いや、そう言っていただけると私としても励みになります」


 満更まんざらでもない様子で、ほっと肩を撫で下ろすラインハルト。


「……あのー」


 おずおずと、控えめにヘレンが手を挙げる。


「それで猊下(げいか)。私たちに何か御用でしょうか?」

「! ああ、そうでした!」


 ラインハルトはぽんと手を叩き、


「いけませんね。実にいけません」


 それまでの和やかな態度を一転させ、深刻な面持ちで眉根を曇らせる。


「見ていましたよ、あなたたち。私も神学校の出ですから、君たちの気持ちは良く分かります。慣れない集団生活。厳しい規則。鬼のように出される課題の山、山、山。年若い君たちにはさぞ息苦しいことでしょう。ですが、だからといっていたいけな猫を使って憂さを晴らすとは何事ですか? それもあの悲鳴。あの逃げっぷり。ただごとではありません。何かよほど酷いことをしたのでしょう?」

「うっ……! 違うんです。それは――!」

「それは誤解です猊下(げいか)


 あたふたと釈明を試みるヘレンに代わり、ミリアはきっぱりと告げた。


「猫を絞め落とそうとしていたのは彼女だけです。私はちゃんと止めました」

「ミリア!?」

「何と……! それは(むご)い。懺悔なさい」

「ええっ!?」


 慌てふためくヘレンの姿に、青年は出し抜けに吹き出し、悪戯っぽく相好を崩した。


「ふふ、冗談。冗談ですよ。事の経緯はちゃんと見ていました。もちろん、君に悪気がなかったことも理解しています」

「えっ? じゃあ――」

「声をかけたのは別段意図があってのことではありません。強いて言えば、悪戯心を刺激されてのことです」


 しれっと、悪びれた様子もなく打ち明けるラインハルト。


「げ、猊下(げいか)~っ!」


 ううう……! と涙目になりながら、ヘレンは恨みがましく頬を膨らませた。

 見かねたミリアが苦言を呈する。


「僭越ながら猊下(げいか)。もう少しご自身の立場をご自覚下さい。

 たとえ冗談とはいえ、枢機卿猊下から説教をたまわるなど、一神学生にしてみれば生きた心地のする話ではありません」

「ははは、申し訳ない。少々悪ふざけが過ぎてしまいましたね。それにしても絞め落とすは良かったですね。流石は学年首席。ユーモアのセンスも素晴らしい」

「私のことをご存じなのですか?」


 ミリアは軽く眉を跳ね上げた。


「もちろんです、ミリア・エーレンブルク。週に一度の部外講師でも、学年首席の顔と名前ぐらいは憶えていますよ。それに――」


 と、ラインハルトは続けかけた言葉を引っ込める。


「おっといけない。ほんの少しからかうだけのつもりだったのですが、すっかり話し込んでしまいましたね。察するにあなたがた、食堂に向かう途中だったのではありませんか?」

「あっ!」

「そうでした」


 ヘレンとミリアは、はっと顔を見合わせた。


「引きとめてしまって申し訳ありません。では、私はこれで。午後の講義でお逢いしましょう」


 言葉少なに別れを告げ、ラインハルトは颯爽とした足どりでその場をあとにした。


「ふー」


 立ち去る背中が見えなくなると、ヘレンは胸に手を当てぐったりと肩を落とし、


「ああ、びっくりした。まさか猊下にお声をかけられるなんてねー。いやー、心臓止まるかと思ったわ。でも――」


 ぱっちりとした瞳を熱っぽく潤ませながら、ぽーっと、夢見るような表情で頬に手を添える。


「やっぱりいいよね、ラインハルト猊下(げいか)……。

 恰好いいし、背え高いし、穏やかだし、爽やかだし、気さくだし! 

 って言うか、よくよく考えたらじかにお話したのって初めてじゃない!? 

 うわー! どどどどうしよう!? まだ心臓バクバク言ってるよ! 

 はっ! この出逢いはもしかして運命!? これをきっかけに猊下(げいか)を落とせという神のおぼし!?」


 きゃーっと黄色い嬌声きょうせいを弾けさせながら、誰もいないはずの虚空をばしばしと叩くヘレン。


 のぼせあがって奇態を演じる彼女に、ミリアは冷ややかな流し目を送る。


「何を阿呆なことをのたまっているのですか。身の程をわきまえなさい身の程を。あなたと猊下(げいか)では分不相応もはなはだしい。大体、シスターの結婚は認められていないでしょうが」

「いいのよ私は。どうせ本気で聖職者になる気なんて無いんだから」


 腰に手をあて、えっへんと無駄に偉そうに胸を張るヘレン。


 聖アリシアは、メシア教系の神学校の中でも長い歴史と伝統を誇る由緒ある名門校だ。

 それゆえ卒業生というだけで社交界では一目置かれるらしく、はく付けのためにと、ここには名家の子女が多く籍を置いていた。ヘレンもまた、そうした良家子女の一人である。


「でも差別よねー。神父は妻帯よくて(あま)は駄目なんて。にしても、いいなーミリアは。猊下(げいか)に名前憶えてもらってて……」

「あら? ヘレンだって、今回のことできっと憶えていただいたはずですよ」

「えっ? そうかな!」


 キラキラと目を輝かせるヘレンに、ミリアははっきりと頷いた。


「もちろん。猫を絞め落とそうとする女など、そうそう忘れられるものではありません」

「だから違うってば!」





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