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1章―3

「――にゃあ」


 耳朶じだをくすぐる鳴き声が、ミリアの意識を回想の世界から引き戻した。

 声の主たる黒猫は、暴れるでもなく逃げ出すでもなく、ミリアの腕の中で気持ち良さそうに身を丸めていた。


 夜の闇を溶かしたような艶やかな毛並みに、金と銀の金銀妖瞳(ヘテロクロミア)六芒星(ヘキサグラム)のペンダントをぶら下げた真っ赤な首輪には、蝙蝠のそれをした翼の装飾がちょこんと据えつけられている。

 奇抜というか冒涜的ぼうとくてきというか……とにもかくにも個性的な猫だった。


「まったく呑気なものですね。少しは責任というものを感じて下さい」


 ミリアは腕の中の黒猫を恨めしげに見下ろしながら、憮然と唇を尖らせた。

 だが当の猫はと言えば、己に突き刺さる険悪な視線など意にも介さず、ぺろぺろと前肢(まえあし)を舐めている。

 そのふてぶてしさに、ついつい愚痴があふれでる。


「もう、分かっているのですか? そもそも、あなたがいきなり飛びかかってなんてこなければ、こんなことにはならなかったのですよ。……それはまあ確かに、私もいささか取り乱しすぎたとは思いますが……け、けれど仕方無いではありませんか! こんな時間にこんな場所で、得体の知れない何かがいきなり顔に飛びついてきたのです! そんなの取り乱すなと言うほうが無理な話というものでしょう!? その上あなたときたら、いつまでも人の顔にくっついて離れないものだから、本当に心臓がとまるかと思ったのですよ! 挙句、そのどさくさでヘレンたちとははぐれてしまうし、踏んだり蹴ったりとはこのことです……」


 そうやってひとしきり愚痴を垂れると、ミリアは悄然しょうぜんと肩を落とした。


 猫を相手に長々と口舌をふるうミリアの姿は、傍から見れば残念極まるものだったに違いない。

 しかし、今ばかりはそんなことを気にしている余裕はなかった。


 黙っていたのでは気持ちは竦む一方だ。

 何でもいいから、とにかく喋っていないと落ち着かなかった。


「……それにしても、ヘレンたちは大丈夫でしょうか?」


 自分のようにはぐれたり、迷子になったりしていなければいいが……。


「何にせよ、合流は無理でしょうね……」


 とにかく広い霊園である。

 あてもなくさまよい歩いたところで運良く遭遇できる見込みは無いに等しい。

 灯火(あかり)を頼りに探そうにも、こう起伏が多くては遠目に見つけるのも困難だ。


 それにあれからずいぶん時間もたっている。

 ヘレンたちがミリアを探してくれていたとしても、すでに捜索を打ち切って寮へと戻っている公算はかなり高い。


「やはり自分でどうにかするしかなさそうですね……」


 ミリアは暗澹あんたんとした心地で溜息をついた。

 幸い今は夏である。

 野外(そと)で一晩明かすことになったとしても、凍え死ぬ心配だけはない。

 それに深夜の郊外といっても、聖都の治安はおりがみつきだ。

 身に危険がおよぶ恐れはまずあるまい。


 とはいえ、あまり悠長に構えてはいられない。

 朝の礼拝までに戻らなければ、非常に面倒なことになる。


「ですが、どうすれば……」


 せめてこれが昼間なら、高台から辺りを見渡すなり、日の位置からもと来た方角を割りだすなり、やりようはいくらでもあるのだが……。


 現状思いつく手と言えば、出口に突き当たるまでまっすぐ進むという、安直極まるものだけだ。


 正直妙案とは言いがたい。運が悪ければ霊園から抜け出すのにかなりの時間を要することになるし、よしんばうまく抜け出せたとしても、出た先が帰路と反対方向では骨折り損もいいところだ。


 とはいえ、途方に暮れてただ立ち尽くしていても仕方が無いと、ミリアはやむなく歩を進め続ける。


「……しかし、流石に徒労感は拭えませんね……」


 この際贅沢は言わない。

 せめて、もう少し建設的な策は無いものか。

 ミリアは諦めきれずに思惟をめぐらせる。


 そう言えば――と、ふと天啓が舞い降りた。



 あの時は一体どうやってこの窮地を脱したのだったか……?



「……あれ?」



 あの時? あの時とは一体いつのことだ?



「――――」


 濃密な夜闇。

 一面の墓標。

 視界を塞ぐ異相の巨躯(かげ)

 闇に灯る深紅の双眸。

 鋭く閃く銀灰色(ぎんかいしょく)

 掌を包むざらついた温もり。

 前を行く灰色の背中。


 にわかに込み上げた疑問を呼び水に、不明瞭な記憶の断片が、ぶつ切りにミリアの脳裏を駆け抜けた。

 呆然と、その場に立ち尽くす。


「……そうだ」


 どうして忘れていたのだろう? 



 前にも一度、こんなことがあったではないか。



 ミリアがまだ幼かった時分――両親がこの世を去って間も無い頃、ミリアは今と同じように夜の霊園を訪れたことがあった。

 両親の死を受け入れられずにいたミリアは、親恋しさから密かに孤児院を抜け出し、二人の墓を訪れたのだ。

 そして当然のごとく道に迷い、一人霊園の中をさまよい歩いた。


 思えば、ミリアが極端に暗闇を恐れるようになったのはちょうどその頃のことである。


 無理もない。


 あれから七年が過ぎ、すっかりと成長した今ですら、夜の霊園はこんなにも恐ろしいのだ。

 小さな子どもがこんなところに独り放り出されたら、心に傷の一つや二つ、負って当然だ。

 事ここに至るまで当時のことを忘れていたのも、おそらくあまりに恐ろしい記憶ゆえ、無意識のうちに蓋をしてしまっていたのだろう。


「…………っ!」


 その蓋を、恐る恐るこじ開ける。

 当時の記憶はおぼろげで、その詳細は判然としない。

 だが、あの()、自分の足で無事に孤児院に戻ったことだけは憶えている。幼い自分が抜け出せたぐらいだ。

 その時のことさえ思いだせれば、あるいはこの状況を打開するための何か糸口が見つかるかもしれない。


 ズキリと、一際強く頭の古傷が痛んだ。

 あるいはこの怪我もその時に負ったものなのかもしれない。


 眉間をしかめ、考え込む。

 積もりに積もった分厚い埃を払い落し、七年ぶりに日の目を拝んだ記憶の水晶玉をミリアはつぶさに覗き込む。


 ズン! と突き上げるような衝撃が地面を揺らしたのはその時だった。


「――きゃっ!?」


 不意の衝撃に、たたらを踏んでよろめいた。

 衝撃が、ズン! ズン! と断続的に地面に響く。


「地震……? ――いえ」


 違う。地震のそれとは明らかに様相を異にする揺れ方だ。


「これは一体……?」


 揺れがおさまる。

 ミリアは不安に身を強張らせながら怖々と辺りを見回し、


「にゃあ」

「あっ!」


 突然だった。

 黒猫はするりとミリアの腕から抜け出すと、てくてくと迷いの無い足どりで夜闇の向こうに去って行った。


「待ってください!」


 躊躇ためらったのは一瞬だった。

 こんなところに独りで取り残されるなど冗談ではない。

 ミリアは即座に意を決し、慌ててその後を追い駆けた。


 足元もおぼつかない暗がりの中、激しく揺れるランタンの灯りだけを頼りに、まろぶように突き進む。

 前を行く小柄な体躯を何度となく見失いかけながら、それでも必死に、奇跡的に、その背中に食らいつく。


 そうやって、どれだけの間追いかけっこを続けていただろう。



 幕切れは唐突に訪れた。



 ランタンの灯りがふとかき消え、辺りを一層の暗闇がつつみ込んだ。

 油がついえたのか、それとも火種が激しい振動に耐えかねたのか。


 いずれにせよこうなっては追跡など不可能だった。


「そんな……」


 愕然と立ち竦む。

 猫の姿が闇へと溶ける。


「待って……!」


 息も絶え絶えに呼ばわりながら、ミリアはがくりとその場にへたりこんだ。血の気とともに足腰から力が抜け、代わりに鉛のような絶望がずっしりとミリアの肩にのしかかる。

 全ての拠るべを一度に失い、ミリアは真っ青に青褪あおざ――


「にゃあ」

「!」


 顔を上げる。

 いた。

 正面。

 夜目のおよぶぎりぎりの距離。


 黒猫はさっと身をひるがし、背後にたたずむ影へと飛び乗った。

 その上を軽やかな身のこなしで駆け上がる。


「えっ?」


 影――墓標、ではない。

 闇の帳に覆われたその輪郭は、一見して人のそれだ。



 だが、それは本当に人なのだろうか? 



 猫を追って這い上がったミリアの視線が、影の視線(それ)とぶつかった。

 こちらを見下ろすその双眸は、炯々と赤く輝いていた。


 人のものではあり得ない。


 悪魔――そんな言葉が、驚きに息を呑むミリアの胸にすとんとおさまる。


 黒猫を肩に乗せ、影はおもむろにこちらへと歩を踏み出す。

 闇のとばりをくぐり抜け、影の全容があらわになる。


 くすんだ銀髪。

 死人のごとき青白い肌。

 光輝くその双眸は、宿した光輝に違わぬ美しい赤色を帯びている。


 少年――だった。その、はずだ。


 だが、見れば見るほど自信は揺らぐ。


 死魚を思わせる虚ろな眼光。

 生気を感じさせない幽鬼じみた佇まい。

 月光に浮かぶ肌はところどころが垢と土埃(ほこり)に薄らと黒ずみ、ぼさぼさの頭髪は夜目にも明らかなほどに痛んでいた。

 微かに漂うえた体臭(におい)が、つんと鼻孔びこうにつきささる。


 容姿自体は、少年のそれだ。

 おそらく、ミリアより三つ四つ上といった程度だろう。


 だが、まとう気配はまるで老いさばらえた老人のように、やつれ、擦りへり、枯れ果てていた。


 灰色の外套(ロングコート)

 首元をすっぽりと覆う同色のマフラー。

 そして黒皮の手袋(グローブ)長靴(ブーツ)


 いずれも使い古した雑巾のように、ひどくぼろぼろでみすぼらしい。

 浮浪者じみたその身なりもまた、少年の老いた雰囲気に拍車をかけた。


 お世辞にもまっとうな人間には見えない。

 警戒してしかるべき相手だ。



 なのになぜだろう?



「……立てるか?」

「…………」


 彼ならば大丈夫だという絶対の確信とほのかな安堵……そして得も言われぬ懐かしさが、ミリアの胸郭を温かく満たす。


 先刻までの動転がまるで嘘のように、心は静かに落ち着きを取り戻していく。筋の通らぬ不可解な情動に戸惑いを覚えながらも、ミリアは差し出された手を躊躇いがちに掴んだ。

 えた膝を奮い立たせ、どうにかこうにか立ち上がる。


「……ありがとうございます」


 上目遣いに見上げながら、控えめに礼を言う。

 少年は感情の読めない目で、じっとミリアを見つめていた。


 そこに一瞬、激しい情動のうねりを垣間かいま見た気がしたのは、果たしてミリアの気のせいだろうか。


「あの……」

「……その制服、聖アリシアの神学生か」


 ぼそりと抑揚よくようの失せた声で、少年。


「? あの、そういうあなたは……?」

「……墓守だ」


 なるほど、とミリアは納得した。

 これだけ大きな霊園だ。

 今までろくに意識したこともなかったが、管理する人間がいるのは考えてみれば当然のことだった。


 してみると、彼が肩にかついでいるのはシャベルだろうか? 

 一見すると槍ともシャベルともつかない、銀灰色の長柄物。

 シャベルにしては尖端が鋭すぎ、けれど槍にしては刃の幅が広すぎるためずっと判じかねていたのだが、ここは墓場で、彼は墓守だ。

 ならばシャベルと考えるのが自然だろう。


 しかし、それにしてもだ。


「墓守がこんな真夜中にどうして?」

「……それはこちらの台詞せりふだ。学生がこんな時間に何の用だ?」


 まったくもってその通りだった。

 不審の度合いで言えば、どちらが上かは論じるまでもない。


「……まあいい。それよりもここへは一人で来たのか?」

「いえ、友人たちと一緒だったのですが、途中ではぐれてしまいまして……」

「……分かった。そちらは俺のほうで探しておこう。だから、お前はもう帰れ」


 話はそれで終わりとばかりに踵を返す少年。

 その背中を、ミリアは慌てて呼びとめる。


「待ってください! そうしたいのは山々なのですが、その、道が分からなくて……」


 その声が弱々しくしぼむ。

 少年は足をとめ、肩越しにミリアを振り返った。


「……帰る先は、聖アリシアの寄宿舎でいいんだな?」

「えっ? ……はい」

「……霊園の外までなら案内してやる。行くぞ」

「――! ありがとうございます」


 ミリアはぱっと表情を輝かせ、無愛想に差し出された少年の手を掴んだ。

 手を引かれるまま、夜の霊園をひた進む。

 濃い暗がりの中を、前を行く背中は危うげのない足取りで進んでいく。

 まるで闇の向こうをはっきりと見通しているかのように、その歩みには迷いがない。


 ミリアも遅れずその後に続く。

 少年がさりげなく歩調を合わせてくれていることに、ミリアはすぐに気がついた。


 歩いている間、二人はほとんど無言だった。

 時折、足場の怪しいところや障害物に行き当たった際などに少年が注意をうながす以外は、ただただ静かに時が過ぎる。

 けれど、不思議と居心地の悪さは感じなかった。

 こうして少年に手を引かれ、その背中を追いかけていると、郷愁がどんどん胸の奥から込み上げてくる。


 なぜだろう?



 手袋越しのざらついた温もりが懐かしい。

 前を行く灰色の背中にほっとする。



「――! あっ……!」

「……どうした?」


 突然立ち止まったミリアを少年は訝しげに振り返る。

 ミリアは呆然と黙したまま、まじまじと少年の顔を凝視した。



 ああ、そうだ。どうして今まで忘れていたのだろう。



 自分はこの少年を知っている。

 ずっとずっと会いたくて、けれど、ずっとずっと会えなかった人。



「――レオン……?」



 七年越しに甦った名前が、自然とミリアの口をつく。

 少年――レオンは瞳を揺らし、ぎょっと息を呑んだ。

 みはった(まなこ)に浮かぶのは、名を言い当てられた不審ではなく、ただ純然たる驚愕の輝き。


 それでミリアは確信する。

 ああ、彼もきっと、自分のことを憶えていてくれたのだと。


「お久しぶりです――やっと、会えましたね」


 あの日の記憶がせきを切ってあふれだす。

 万感の思いを頬に添え、ミリアは花咲くように微笑んだ。


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