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終章―2

 夜の霊園(ゴルゴダ)が掛け値なしの人外魔境であったのは、今はもう過去(むかし)の話だ。


〈怒りの(ディエス・イレ)〉がメシアの死により幕を閉じて以来、霊園(ゴルゴダ)ではその兆候も含め、磔刑者(クロイツ)の出現は完全になりをひそめていた。


 死者が甦らない事例自体は別段珍しいものではない。

 そのための十字架だ。


 だが、これほど長期に渡る完封は、千年におよぶ聖都の歴史を振り返っても他に例を見ない異常事態だった。


 そもそも十字架には死者の磔刑者(クロイツ)化を抑制する効能はあっても現象そのものを根絶するだけの威力はない。

 仮に甦りを防げたとしても磔刑者化(それ)ともない撒き散らされる瘴気の流出までは食いとめようがなく、にも関わらずこの数カ月は瘴気(それ)すらもが観測されていなかった。


 つまるところ、磔刑者(クロイツ)化そのものが起きていないのだ。


反救世主(アンチ・メシア)〉の死と時を同じくしての未曾有みぞうの奇事はこれだけに留まらない。


 聖骸せいがい、そして聖槍の消滅に並行して、教皇庁(アーク)の管理下にあったすべての聖遺物が同様の末路をたどっていた。


反救世主(アンチ・メシア)〉の死。

 甦らない死者。

 聖遺物の消滅。


 それらが意味するところは明らかだった。

 考察を要するまでもなく、状況は一つの事実を指し示している。


 すなわち、〈反救世主(アンチ・メシア)〉の死により聖都を覆う呪いが解けたのだ。


 聖都の暗部に通じた者たちにとって、それはまさに青天の霹靂とも言うべき事態の急変だった。


 当然だ。


 たとえどれほど荒唐無稽な不条理であろうと、彼らにとっては磔刑者(クロイツ)との闘争こそが、この千年間連綿と積み重ね繰り返してきた、聖都の日常であり常識なのだから。


 呪いからの解放。


 それこそを積年の悲願と胸に秘めながらも、その心の深奥には惰性に根ざした確信が――呪縛(いま)が永遠に続くのだという諦観が――無意識の域にて深く焼き刻まれていた。


 それこそ、まるで呪いのように。


 ゆえに戸惑うのも無理はなく、信じ難いのも当然だった。


 だが、そうした彼らの疑念や当惑は、何も感情論のみにもとづいているわけではない。


 腑に落ちないのだ。

 筋が通らないのだ。


〈反救世主〉は過去にも一度死んでいる。


 だがその際の記録には、此度こたびのような事例はもちろん、何かしら特筆すべき異変が生じたとする文言は、明記、示唆の別無く一文たりとて書き残されてはいなかった。

 なればこそ、メシアの打倒が呪いの除去に直結するなど一体誰が夢想しえただろう。


 いずれにせよ死者が甦らなくなってまだほんの数カ月。


 それでなくとも事が事だ。

 真相はどうあれ楽観は禁物。

 ゆえに今後も警戒を怠るべきではないというのが、一部始終を語ってくれたラインハルトの――ひいては教皇庁(アーク)のさだめた方針だった。


 当たり障りのない慎重論。

 聖都の治安を預かる者として、至極まっとうで非の打ちどころのない懸命な判断だ。


 けれどそんな彼らとは異なり、解呪の(くだり)を伝え聞いたミリアがまっさきに抱いたのは、驚きでも不審でもなく、納得と確信。


 呪いは晴れた。

 もう二度と、死者は甦らない。


 メシアの最期に立ち会い、文字通りその散り際を目に焼きつけたミリアだからこそ、その論説は揺るぎない確信を伴い、彼女の胸裏にしっくりと馴染んだ。


 晴れやかな微笑(えがお)

 柔らかな眼差し。


 入滅の刹那、彼が何を想い、なぜ想ったのか。


 それはミリアにも分からない。


 けれど、呪いに繋がる負の情念とは断じて結びつかないその死に際こそが、何よりも雄弁にすべての終わりを物語っているように思えたから。

 あの光景に勝る根拠などないと、固く信じることができたから。


 だからミリアも今宵の企画を承諾し、こうして誘われるままに夜の霊園へと赴いたのだ。

 そうでなければヘレンの誘いに乗ることも、まして彼女たちの訪園を許すはずもなかった。


 久しぶりに足を踏み入れた霊園には、凍えるように冷たい初春の夜気だけが、ただ静かに漂っていた。


 十字の石墓が、なだらかな丘陵地に見渡す限り果てしなく広がっている。


 瘴気。

 鬼気。

 殺気。


 死者の復活を疑わせるような気配は一切ない。


 万が一にも呪詛じゅそ兆候ちょうこうを感じるようなことがあれば即座に引き返すつもりでいたが、どうやらその心配は無さそうだ。


 そのことに、まずはほっと胸を撫で下ろし。



 そして、すぐに懐かしさでいっぱいになった。



 こうして霊園を訪れるのは、聖誕祭以来はじめてのことだった。


 さもあらん。

 ここにはもう、待ち人はいないのだから。

 ここには、あまりに彼との思い出が多すぎたから。


「――――」


 ほのかに滲むランタンの輝きに照らされて。

 味気も色気もない殺風景な景色が、狂おしいほどに胸に迫る。


 必死に塗り固めてきたものがまるで(かさ)(ぶた)のように剥がれ落ち、甘い逢瀬の記憶が、色鮮やかな蜜月の日々が、鈍い痛みを伴い心の芯に溢れ出す。


 目頭は熱を帯び、視界はぼやけ、息ができない。


 失われた幸福がたまらなく愛しくて、その温もりが耐えきれずせつなくて、ミリアは為す術も無く日だまりの追憶(ユメ)へと溺れていく。


 けれど所詮、ユメはユメ。


 どれほど甘美で眩くとも、やがてははかなめるもの。



「にゃあ」



 どうやら、ずいぶん長い間我を忘れていたらしい。


 自失から立ち返ったその時には辺りにヘレンたちの姿はなく、それどころか気配すらも感じられなかった。


(ここは……?)


 分からない。

 見覚えがない。


 通い慣れた霊園の敷地の中で、ミリアが詳細にその地理を把握しているのは実のところごく一部の狭い範囲にすぎない。

 すべてを知悉ちしつし、網羅するには、霊園(ゴルゴダ)はあまりに広大に過ぎた。


 はぐれた。


 そして迷った。


 見渡す限りの闇と墓標のただなかに、一人ぽつんと放り出され、立ち尽くすミリア。


「にゃあ」

 途方に暮れるミリアをよそに、寄り添う黒猫は実に呑気にくつろいでいる。

 学院を抜け出す際にばったりと遭遇して以来、黒猫(ダビデ)は我が物顔でミリアの肩に居座り続けていた。


 呆然と佇むミリアの胸郭を、冷たく薄気味の悪い圧迫感がすりつぶしていく。

 殺風景でしかなかった霊園の景色が、凍えるような静けさが、夜を閉ざす暗黒が、にわかに異界じみた不気味さを帯びてミリアに迫る。

 悪寒が骨の髄まで染み渡り、悲嘆によるものとは別の息苦しさが、きりきりと喉を締めつけた。


 瘴気? 

 違う。

 これはもっと慣れ親しんだ感覚だ。


 暗闇に対する恐怖心。

 過去の心的外傷に端を発する精神(こころ)疾患(やまい)


 なぜ今更になって? 


 原因を突きとめたことで、それはとうに克服したはずだった。

 現に七年前の記憶(しんじつ)を思い出して以来、症状は嘘のようにおさまっていた。


 けれど、それは誤りだった。


 そんな単純な話ではなかった。


 否――そうではない。

 単純な話だったのだ。


 レオンがいれば、彼との思い出に縋っていれば、何も怖くなどなかった。


 あらためて思い知らされる。


 失ったものの大きさを。

 愛したものの尊さを。


「う、ああ……!」

 手から滑り落ちたランタンが、甲高い音を立てて地を跳ねた。

 灯火が、その衝撃で掻き消える。


 震える身体を抱きしめて、ミリアは力無くその場にくず折れた。


 地へと放り出された黒猫が、さめざめとすすり泣くミリアを気遣わしげに見上げる。


 枯れ果てたはずの涙が止まらない。


 むせび声が、冷たく静まり返った死者の園を物悲しく掻きむしる。



 そうしてどれほどの時が流れただろう。



「ダビデ……?」


 ひとしきり泣きはらし、いくばくかの落ち着きを取り戻したミリアは、そこでようやく黒猫の異変に気づいた。

 神妙な物腰で、じっと明後日の方角を見据えるダビデ。


「ダビデ?」


 腫れぼったい目元を拭いながら再度呼びかけるミリアを無視し、ダビデはやおら踵を返した。


 とことこと軽やかに歩を進め、


「にゃあ」


 不意に立ち止まり、肩越しにミリアを振り返る。

 ダビデは何かを促すように一声鳴くと、今度こそ闇の中に姿を消した。


 ミリアは困惑の相を深めながらも、泣き疲れた身体を引きずって、その後を追いかけた。


 立ち並ぶ墓群。

 前を行く黒猫の背中。

 暗闇。

 迷子。

 肝試し。

 夜空に浮かぶ、細く鋭利な三十日月(みそかづき)


 まるですべてが、あの夜の再現だ。


 だからだろう。


 突拍子もない考えが意識の底を浮沈する。


 理にそぐわぬ予感が鼓動を早める。



 この先に何があるというのだろう? 


 誰がいるというのだろう?



 やがて開けた場所へと出た。


 ミリアが迂闊うかつにも黒猫を見失ってしまったのは、思わず辺りに気をとられた、ほんの一瞬のことだった。


 慌てて方々に視線を巡らせる。


 その双眸が、一際小高い丘の上を見据え固まった。


 人影だ。


 夜目のおよぶぎりぎりの範囲。

 それゆえ容姿の詳細までは判然としない。

 見てとれるのはその輪郭と佇まい、あとはそれが後ろ姿であることだけだった。


 けれど、それだけ分かれば十分だった。


 他ならぬミリアが、他ならぬその背中を見誤るはずなどなかったから。



「レオン……?」



 影がおもむろにこちらを振り返る。


 高鳴る期待と昂揚こうようは、けれど次の瞬間には等量の失望へと転落した。


「あ……」


 違う。

 彼ではない。


 闇夜に浮かぶ輪郭は、確かに彼のものと瓜二つだ。

 だが、こちらを振り返った人影には、あるべきものが欠けていた。


 闇に瞬く深紅の眼光。


 彼の最大の特徴とも言えるそれが、眼前に佇む人影のどこにも見当たらなかった。


 別人。

 当然だ。

 彼がこんなところにいるはずがない。


 一体何を期待していたのだろう。


 荒唐無稽もはなはだしい。

 恐怖と心細さが招いた錯乱に、ただただ自嘲の想いしか浮かばない。



「……ミリア?」



 だから夜風に乗って届いたその声色(こえ)も、きっとミリアの願望が生み出した幻聴に違いなかった。


 違いないのだと、そう頭ではわきまえていた。


 なのに、


「――――――」


 駆け出す足をとめられない。

 突き上げる衝動に逆らえない。


 ミリアはまろぶように地を蹴りながら、一心不乱に丘の上を目指した。


 一歩、また一歩。


 互いの距離が縮まるにつれて、人影を覆う闇は薄まっていく。


 その全容があらわとなる。


 驚きに目を瞠る、少年の姿が。


「レオン!」


 叫ぶ。

 彼の名を。


 芝生は夜露に濡れていた。

 地を蹴る足がその上を滑る。


 宙へと投げ出されたミリアの身体を受けとめたのは、冷たく固い地肌ではなく、しなやかで温かい人肌の抱擁だった。


「……ミリア!」


 懐かしく愛おしい、彼の温もりだった。



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