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6章―2

 ゆっくりと、心静かに目を開く。


 聖槍(シャベル)をかつぎ、祭壇のふちに腰掛けるレオンの眼界には、一面の信徒席と白亜の列柱が見渡す限り途方も無く広がっていた。


 ゆるやかに弧を成すアーチ状の天蓋てんがいは気が遠くなるほど天高く、礼拝堂の中は屋内であることが信じられないくらいに広々としている。


 アーク大聖堂。


 その一隅にそびえる礼拝堂こそ、死したメシアを千年に渡り封じ奉ってきた封印の地であり――そして、聖都の命運を賭けた決戦の地であった。


 全身をめぐ磔刑者(クロイツ)の血が、どろどろと熱く煮えうずく。

 肩にかついだ聖槍は日没を機にカタカタとひとりでに震えだし、それは夜が深まるにつれていよいよ激しさを増していった。


 首筋を撫でる。


 喉の傷痕から溢れ出た鮮血が、べっとりとマフラーを濡らしていた。

 首だけではない。

 両手両足。

 それに脇腹。

 全身に散在するすべての傷痕が、鋭い痛みを発しながらしとどに血潮を滴らせている。


 聖痕せいこん


 かつてメシアを死へといたらしめた七つの傷痕。


 そして、古来より数多くの聖者たちが信仰の果てに主より授かったとさる祝福の証を、ある意味ではもっとも磔刑者(メシア)に近しい人間たるレオンもまた、生まれながらに身の内に宿していた。


 その聖痕が、まるで何かに感応しているかのように流血の涙をこぼし続ける。


 それはかつてない事態だった。


 〈怒りの(ディエス・イレ)〉を聖誕祭における〈反救世主(アンチ・メシア)〉の再誕と見る向きは、黙示録の記述をもとに教皇庁(アーク)が導き出した極めて有力な仮説の一つに過ぎない。


 けれど今、〈反救世主(アンチ・メシア)〉の呪詛じゅそをよすがとし、〈怒りの(ディエス・イレ)〉の到来に呼応するかのごとく生じた理外の異変を前にして、確信はついに盤石ばんじゃくを持した。


 今宵、〈反救世主(アンチ・メシア)〉は甦る。


 破局の時が刻々と迫りくるのを肌で感じながら、それでもレオンの面にはいささかの悲壮も浮かんではいなかった。


 穏やかにいだ心中は恐怖や不安といった負の境地からは遠くかけ離れた地平にあり、同時にそれは、世を疎み、己が命を軽んじるがゆえの不感とは対極の情念に根ざしたものだった。


 愛。


 ただその一念のみがレオンを満たすすべてだった。


 そしてそれは、たった一人の少女によってもたらされた想いに他ならない。


 ミリア・エーレンブルク。


 レオンが恋し、守りたいと願った最愛の少女。


 無味透明な家族愛とは似て非なる熱を帯びた情愛は恋慕と呼ばれるものであり、それはかつてない死線を目前に控えたレオンの総身に、揺るぎない覚悟と静かな全能感をみなぎらせた。


 怖いものなど何もなかった。


 たとえ相手がどんな化け物であろうとも。



 ゆえにレオンは微塵も動じなかった。


 その瞬間を迎えても。



 星が墜ちたような激震。


 野太い影が床を突き破り、円形に開けた礼拝堂の中央にそそり立つ。


 それは巨大な腕だった。


 レオンの体躯たいくの、実に三倍の大きさに達しようか。


「………………」


 屹立きつりつする巨腕を隙無く睨み据えながら、祭壇から飛び降りる。

 その間にも地に穿うがたれた穴の奥から新たにもう一本の腕が鎌首をもたげ、がっちりと床を掴み、

 そして――


「……っ!」


 異形の頭が地の底より這い出すや、きとめられていた膨大な瘴気しょうきが一斉に地表へと溢れだした。

 先の激震で崩壊寸前に罅割れていたステンドグラスを突き破り、瞬く間に屋外へと流れ出す。

 泥流でいりゅうのごとく押し寄せるその猛威に目をすがめ、レオンはぐっと息を呑んだ。


 きつく奥歯を噛みしめ、遠のきかけた意識を即座の内に繋ぎとめる。


 一瞬とはいえ、瘴気に対し強固な耐性を宿すレオンの心身をもむしばんだその濃度。そして聖都全土を覆い尽くさんばかりのおびただしさ。


 いずれも尋常の域ではない。


「――――――」


 レオンは聖槍を腰だめに構え、一迅の颶風ぐふうと化した。

 彼我ひがの間合いを瞬く間に走破し、未だ肩から下を地中に(うず)めたままの隙だらけのその首に槍の穂先を突き込む。


 疾走の勢いを余すことなく上乗せした渾身の突貫。


 身体ごとぶつかるような、真っ向からの一撃。


「……っ!?」


 甲高い金属音が耳朶じだをつんざき、眩い火花が暗闇にぜた。


 骨肉を穿つ手ごたえとは断じて異なる硬い衝撃が腕を伝い、レオンの思考に混乱をもたらす。


 意識に生じた刹那の空隙。


 だが幾百幾千の死線を経て培われたレオンの本能は、一分(いちぶ)の遅滞もきたすことなく最善手を遂行する。


 一撃離脱。


 その場にとどまる愚は犯さず、異形の肩を駆け上がり、地を這う背中を飛び越える。


 着地。

 反転。


 痺れの残る両腕に活を入れ、レオンはすかさず槍を構えなおした。


 油断なく注視するその先では、ついに総身をあらわにした異形がのっそりとこちらを振り返った。

 いつでも動けるよう膝を浅くたわませながら、その全貌を素早く値踏みする。


 何よりもまず目をひくのはその巨体。

 獣のような四つん這いの体勢をとっているため一見して全長のほうは定かではないが、四足で佇む限りにおいては一般的な二階建ての家屋よりも一回りは大きい。尾も含めれば、奥行きはさらに倍といったところだろう。

 のっぺりと体毛一つ無い白蝋(はくろう)の体躯。鉤爪。尻尾。乱杭歯。そして、夜闇に灯る深紅の炯眼けいがん


 異形の姿形そのものは、おおよそ通常の磔刑者(クロイツ)と変わりない。


 違いらしい違いと言えば、個性の範疇はんちゅうでは収めきれない圧倒的な体格差と、背中に担いだそれの存在ぐらいだろう。


 それとは身の丈ほどもある巨大な十字架のことだ。


 禍々しさを感じさせる尖鋭的せんえいてきかつ冒涜的ぼうとくてきな意匠の黒い金属塊。

 その随所から伸びた無数の鎖が異形の身体をがんじがらめに絡めとり、でたらめに打ちこまれた数多の鉄杭が、筋骨たくましい胴体を十字の刑具にはりつけている。


「……なるほど。磔刑者(クロイツ)とはよく言ったものだ」


反救世主(アンチ・メシア)〉。

 原初の磔刑者(クロイツ)


 その全身をまんべんなく視野におさめながら、レオンは視線の焦点を悪魔の首筋へと結ぶ。


 まったくの無傷。


 皮一枚を裂くどころか、痛痒を与えた気配すらない。


(……よもやこれほどとはな)


 相手が相手だ。

 レオンとて初手でいきなり仕留められるなどと、そんな都合のいい期待を抱いていたわけではない。

 先の速攻はこちらの攻撃がどの程度通用するかを見極めるための小手調べにすぎない。


 だが、同時に掛け値なしの全力であったことも事実だ。


 仕留めるつもりで放った一撃であり、必殺を自負するに恥じない一突きだった。


 ましてや磔刑者(クロイツ)に対し絶対的な殺傷力を誇るはずの聖槍をもってして手傷の一つも負わせられないというのは、にわかに信じがたく、そして戦意をくじくに十分過ぎる光景だった。


 けれど、赤く輝くレオンの双眸に怖じ気の色はかけらも無い。


 視線がぶつかる。


 そこでようやく向こうも人間(こちら)の存在に気づいたらしい。

 寝起き直後の緩慢な気配がたちどころに一変し、その醜貌がどす黒く歪む。


『―――――――』


 けたたましい咆哮ほうこうが夜気を張り裂いた。


 殺意と憎悪を満身にたぎらせ、〈反救世主(アンチ・メシア)〉が地を蹴立てる。


 速い。


 巨体にそぐわぬ俊敏さに意表を突かれながらも、レオンは臆することなく前へ出た。

 振り下ろされた前肢(うで)を紙一重で(かわ)し、身を低くして敵の股下を駆け抜ける。

反救世主(アンチ・メシア)〉はすかさず巨体を翻し、見失った獲物の所在を追い求めたが、その時にはすでにレオンは次なる死角へと飛び込んでいた。


 床が砕ける。

 椅子が吹き飛ぶ。

 血に餓えた悪魔の爪牙が獲物を求めて荒れ狂う。


 神聖不可侵なる神の御座は、そうして瞬く間に破壊と暴虐の巷と化した。


 峻烈しゅんれつ極まる猛攻に追い立てられながら、レオンはあらかじめ想定しておいた戦術案の中から現状にそくした数通りを選び出し、それを叩き台に今後の対応を模索する。


 速度は伯仲。

 そしてこの体格差だ。

 近づきすぎれば薙ぎ払われ、離れすぎれば轢き殺される。

 となれば、適度な距離をたもちつつ、体格差を逆手に常に相手の死角に回り込むしかない。


 間合いについてはそれでいい。

 守りのほうも回避の一択で決まりだった。

 問題は攻撃だ。

 先ほどから機を見ては何度も仕掛けているのだが、やはり一向に効いている気配がない。


 ぐずぐずに溶け爛れた腐肉の巨躯は見るからに脆弱そうな装いとは裏腹に、鉄壁の堅牢さをもって(やいば)の突入をかたくなに阻む。


 槍の呪いが効いていないわけではない。


 ただ単純に、〈反救世主(アンチ・メシア)〉の強度が呪詛の威力を上回っているのだ。


 巨体にそぐわぬ軽捷けいしょうな身のこなし。

 広域に撒き散らされる致死の熱毒。

 繰り出される攻撃は攻城兵器の破壊力をも超越し、全身を覆う肉壁は聖槍の()すら防いでみせる。


 なるほど、と、苦い思いで得心する。


 黙示録終章。


 世界を滅ぼすというその触れこみに嘘偽りはないということか。


 仮にこの場に居合わせたのが聖堂騎士団の面々であったなら、この時点ですでに百人単位の犠牲がでていることだろう。


 目の前に立ちはだかるのは、まさに絶対的な死の化身。


「――っ!」


 地を薙ぎ払う尾の一撃をすれすれで飛び越え、這いつくばるようにしてその上に着地する。

 勢いが減じたのを見計らい、レオンは全速力で悪魔の体躯を駆け上がった。


 尾をさかのぼり、十字架の端に至る。


 ひた走るレオンを払い落とそうと、〈反救世主(アンチ・メシア)〉は憎々しげな唸り声とともに背中に腕を回す。

 しかし、いかに敵が俊敏といえどこの位置関係だ。


 迫りくる巨腕を掻いくぐるのは造作もない。


『―――――――』


 業を煮やした〈反救世主(アンチ・メシア)〉が地を蹴った。

 半ば直立するように跳び上がり、背後にそびえる柱をめがけて自ら飛び込む。


 押し潰すつもりだ。


 だが悪魔の巨体が柱を打ち砕くよりも一瞬早く、レオンはその背を踏み台に天高く身を躍らせていた。


「はぁあああああ!」


 天井を蹴りつけ、地上に向けて真っ逆さまに加速する。

 レオンは槍を逆手にもちかえながらくるりと前転し、天を仰ぐ〈反救世主(アンチ・メシア)〉の右目にその切っ先を突き下ろした。


『―――――――』


 鼓膜をぶち破るような絶叫が轟く。


 苦悶くもんにのたうつ〈反救世主(アンチ・メシア)〉の顔からすかさず跳びのき、呼吸を整えながら戦果のほどを検分する。


 傷は浅い。


 手ごたえからして、せいぜい目の表面をわずかに抉った程度だろう。

 だが、とにもかくにも〈反救世主(アンチ・メシア)〉に一矢を報いた。

 その意味するところは極めて大きい。

 いかに難攻不落を誇ろうと、亀裂さえ刻んでしまえばこちらのものだ。


 狙うは一点突破。


 右目から血のように腐汁ふじゅう飛沫(しぶ)かせながら、〈反救世主(アンチ・メシア)〉は赫怒かくどに瞳をたけらせる。


 レオンが追撃の姿勢を見せた、その瞬間(とき)だった。


(なっ……!?)


 まるで時が逆巻くように、赤眸せきぼう穿うがつ傷口が見る見るうちに塞がっていく。


 さしものレオンも言葉を失い、棒立ちになって目を瞠る。


 その隙を、〈反救世主(アンチ・メシア)〉は見逃さなかった。


「……ッ!」


反救世主(アンチ・メシア)〉は身体ごと尾を翻し、レオンの胴を今度こそ横薙ぎに跳ね飛ばした。


 爆ぜるような衝撃が脇腹を駆けめぐり、きりもみしながら宙を舞う。


 地に叩きつけられる寸前にどうにか体勢を立て直し、レオンは靴底を削りながら床を滑った。


 追撃はすぐにきた。


 繰り出された拳が、直前までレオンが身を置いていた空間を砕き割る。

 追いすがる凶眼から逃れるように死角から死角へと駆けずりながら、レオンは脇腹をおさえ、怪我の具合を確かめた。

 途端に痛みが鮮明さを増し、思わず眉間に皺が寄る。


 肋骨を多数。

 もしかしたら、内臓もいくつかもっていかれたかもしれない。

 寸でのところで身を退(しりぞ)け、何とか直撃だけは免れたが、それでも受けた被害は甚大だった。


 常人であれば命にかかわるほどの大怪我だろう。

 だが磔刑者(クロイツ)の肉体は、およそあらゆる負傷をたちどころに快癒せしめる強靭な生命力を宿している。

 血が薄い分レオンがあずかれる恩恵は通常の磔刑者(クロイツ)にくらべて幾分少ないが、この程度の手傷なら戦闘の続行は可能だ。

 とはいえ、無論磔刑者(クロイツ)の治癒力とて万能ではない。

 その力をもってしても癒えぬ傷は存在する。聖槍による傷がまさにそれだ。

 なのに、


「…………」


 レオンは厳しく頬を強張らせ、悪魔の右目を一瞥した。

 爛々と輝く瞳はすでに傷痕も無く完治している。


 それはとりもなおさず、〈反救世主(アンチ・メシア)〉の治癒力が強度同様聖槍の呪詛を凌駕していることを意味した。


(……どうする?)


 刻んだ(はし)から傷を塞がれるのでは意味が無い。

 一点突破は不可能。

 いや、回復の(いとま)を与えず一気に畳みかければ……無理だ。

 敵とて案山子ではない。

 防ぎもするし攻めてもくる。


 〈反救世主(アンチ・メシア)〉を相手に防御を度外視して挑むなどあり得ない。

 自殺行為だ。


 攻撃を分散し急所を探る。

 それしかあるまい。

 だが、

「……っ!」


 熱く粘ついた鉄の味が、激痛とともに喉をせり上がる。


 顔をしかめ苦痛を噛み殺すレオンの動きは、先刻よりも明らかに精彩を欠いていた。


 命に別条がないとはいえ深手を負ったことに変わりはない。

 それは精神論だけで誤魔化しきれるほど軽いものではなかった。


 苛烈さを増す攻勢に、レオンは一方的な防戦を余儀なくされる。


 怪我が尾を引いている現状では逃げに徹するのが精一杯で、ろくに反撃を差し挟むこともままならない。

 それでなくとも敵はあの巨体だ。

 どこにあるかも――そもそも本当にあるかどうかも――分からない弱点を探し出すには、圧倒的に手数が足りない。

 あてもなく闇雲に攻めていたのでは到底勝ち目など見込めなかった。


 有効な手立てを見出せぬまま、ただいたずらに体力と神経ばかりが削られていく。


 少しでも弱点(まと)を絞れないものかとメシアの逸話に思惟しいを馳せたが、それは今日にいたるまでに散々やりつくした試みであり、今さら新しい発見など望みようもなかった。

 そもそも最大の鬼門であるはずの聖槍からしてが〈反救世主(アンチ・メシア)〉には通じないのだ。

 過去の逸話に突破口を求めるのはとても現実的とは言えまい。

 

 こちらが攻めあぐねている間にも、吹き荒ぶ暴虐の嵐は床を、椅子を、柱を、次々と破壊の歯牙へとかけていく。


 己自身を餌とし、敵を建物の中心部にひきつけることで被害の拡大をおさえていたレオンだったが、それもいよいよ苦しくなってきた。

 このままでは礼拝堂が崩れ去るのも時間の問題だ。


 焦燥が胸を焦がす。


(ちっ……!)


 聖都炎上。

 その決行に、実のところレオンの生死勝敗は何の関与もしていない。

 発動の狼煙となるのは〈反救世主(アンチ・メシア)〉が礼拝堂を脱したか否かという、ただその一点につきた。


 さもあらん。

 アーク大聖堂の礼拝堂は、鳥瞰ちょうかんすると十字を形作る構造となっている。すなわちこの建物そのものが〈反救世主(アンチ・メシア)〉を封じる巨大な墓標なのだ。

 そして、刑具の縛鎖は今もなお〈反救世主(アンチ・メシア)〉を絡めとり、その力を削りつづけている。

 これだけの大きさ――ましてや十字架にまつわる性質をほとんど受け継いでいない混血児(レオン)と異なり、〈反救世主(アンチ・メシア)〉にとって、十字架(それ)は聖槍とならび自らの死にもっとも縁深くかかわっている呪具である。

 レオンが〈反救世主(アンチ・メシア)〉を相手にまがりなりにも渡りあえてこられたのも、その強大な呪縛があればこそ。

 礼拝堂の崩壊は、すなわちレオンの敗北――そして聖都の滅亡を意味した。


 そうなる前に、何としても決着をつけなくては。


 だが、一体どうすれば……?


 正面。

 横飛びに跳躍し、迫る(あぎと)から身を逃す。

 そのまま敵の背後に回り込むべく、レオンは横手にそびえる柱を蹴りつけ――


「――っ!?」


 その足が、ぬるりと滑り、空をかく。

 べっとりと柱を濡らす液体は、先刻〈反救世主(アンチ・メシア)〉が撒き散らした腐汁(もの)にほかならない。


 レオンの身体はなすすべもなく宙を泳ぎ――そこに、ぬっと磔刑者(クロイツ)の魔手がせまる。


 慌てて身をひねる。

 避けきれない。


「くっ……!」


反救世主(アンチ・メシア)〉はレオンの片足をわしづかみ、大上段に振りかぶった。

 うなるような風圧が全身を打ちすえ、目に映る景色がおそろしい速度で流れていく。


(叩きつける気か……!?)


 木っ端微塵に四散する己の未来を幻視して、レオンは色を無くして息をのむ。

 無駄な足掻きと知りつつも、逆手に持ちかえた槍を敵の手首に突き立――


「かはっ――!?」


 目もくらむような衝撃が、背中から全身を突き抜けた。


 駆けめぐる激痛が知覚の限界を一瞬で振り切り、意識を真っ白に塗り替える。

 レオンは椅子の残骸を跳ね飛ばしながらまるでごみくずのように床を転がり、やがて壁に背をぶつけて、ようやく止まった。


「……ッ!」


 声にならない苦悶が漏れる。


 ほんの微かに身動(みじろ)ぐだけで激痛が神経を蹂躙じゅうりんする。

 まるで身体中の骨という骨、内臓という内臓が粉々に砕け散ってしまったかのようだ。かろうじて一命こそとりとめたものの、もはや続く一撃をかわすだけの余力はない。


 ぐったりと壁に身をあずけながら、ここまでなのかと、無念の想いに打ち震える。


 だが、そんなレオンの絶望をよそに、いつまでたっても追撃はこない。


 徐々に立ち直りつつあるレオンの意識は、その段になってようやく耳を揺さぶる大音声を認識した。


()っ……!」


 脈打つ痛みを黙殺し、よろめきながら立ちあがる。

 朦朧もうろうかすむ視界が焦点を結ぶ。


 目を抉られた時とはくらべものにならないほどの激しさで絶叫をほとばしらせ、狂ったように悶え苦しむ〈反救世主(アンチ・メシア)〉の狂態がレオンの視界に飛び込んだ。


 手首を穿たれた左手は見る見るうちに灰と化し、次の瞬間、びきりと罅割れ弾け散った。


 失われた左手に、再生のきざしは見られない。


(……効いた、のか?)


 そうとしか考えられなかった。

 あの瞬間、苦し紛れに放った槍の一突きが期せずして敵の急所をとらえたのだ。


 僥倖ぎょうこうはそれだけにとどまらなかった。


 手首、聖槍、メシア――天啓が雷のごとく背筋を打ち抜き、すべての言葉が一本の線へと繋がった。



「……聖痕か」



 千年前、まだ人であった頃のメシアを死に追いやった致命の槍傷。


 なるほど。

 急所といえばまさに最大の急所だろう。


 伝承どおりであるとするなら、聖痕(きず)は喉と左右の脇腹に一カ所ずつ――聖釘によって穿たれた手足(ぶん)も含めればその数は合計で七カ所におよんだ。

 どろどろに溶け傷んだ〈反救世主(アンチ・メシア)〉の外観からは聖痕とそれ以外の傷とを区別することは極めて難しい。


 だが問題はない。


 生まれてこのかた自分の身体でさんざん見飽きた傷である。

 おおよその位置であれば見当がつく。


 メシアに死をもたらした槍。

 メシアを死に至らしめた傷。


反救世主(アンチ・メシア)〉を討ち滅ぼすに、これほど相応しい組み合わせはあるまい。


 果ての見えなかった絶望の暗闇に、今ようやく希望の明星がまたたいた。


「……ッ!」


 喉を逆流し、ごぼりと込み上げた塊のような鮮血が、レオンの足元に夥しい血だまりをつくる。

 度重なる〈反救世主(アンチ・メシア)〉の強襲に打ちのめされ、肉体の損壊はとうに限界の域を越えていた。

 血を失いすぎた身体は死相じみた悪寒に震え、四肢からはほとんどの感覚が失せている。


 まさに半死半生――否、もはや虫の息と言っても過言ではない有様だ。

 一縷いちるの勝機をもぎとった今も、依然レオンの劣勢は覆らない。


 だが、知らず萎えかけていた闘志に活を入れるには、それは十分すぎる吉兆だった。


 レオンは余力の限りを振り絞り、縋りつくように掌中の槍を握りしめた。

 その感触をよすがに、ぼんやりと薄らいでいた意識が明瞭さを取り戻す。


 血色の双眸を鋭く研ぎ澄まし――そして、豁然かつぜんまなじりを決する。


「……行くぞ」


 互いの視線が激突する。


 首を振り乱し仰け反る〈反救世主(アンチ・メシア)〉の赤眼に、その時はじめておののきの色が覗き見えた。


 怒りの日。

 終末の夜。


 千年の呪いを巡る運命の死闘は、今ここに終局を迎えようとしていた。




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