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6章―1

第六章 聖誕祭



 日々は静かに、そして穏やかに流れていった。


 刻々と迫る滅びの運命など微塵も予感させぬまま、一日一日がただ平坦に、変わり映えなく過ぎてゆく。


 嵐の前の静けさ。


 そんな言葉がことあるごとに脳裏にちらつくのは、ミリアが全ての事情を承知しているがゆえにだろう。


 教皇庁(アーク)によって取り繕われた仮初の平穏。

 その裏側では、今この瞬間も聖都は破局への坂道を転がり続けている。


 そのことをミリアは重々に理解していた。


 理解していながら、恐怖に取り乱すこともなく、絶望に打ちひしがれることもなく、これまでどおりの生活を粛々といとなみ続けていた。


 腹ならとうに据わっている。

 レオンと過ごした最後の逢瀬。

 彼と結ばれた、あの瞬間に。


 だから、あの日以来ミリアの心中に燻ぶり続ける懊悩おうのうのしこりは、利己ではなく利他の想いに根ざしたものだった。


 レオンの命運。

 聖都の行く末。

 親しき者たちの未来。


 わけてもミリアの胸を締め上げたのは、このままでいいのかという自問と葛藤。


 本当にこのままでいいのだろうか? 

 このまま、真実をひた隠しにしたままで。


〈怒りの(ディエス・イレ)〉――()の日この街に降りかかるであろう存亡の危機を知っているのは、ごく一握りの人間だけだ。

 聖都に住まう人々のほとんどは、何も知らされぬまま〈反救世主(アンチ・メシア)〉を引きつけるにえとして晩餐ばんさんたくきょうされようとしていた。


 導くべき無辜むこの命を餌とする教皇庁(アーク)の企ては、聖職者としてあるまじき所業だ。

 たとえそれがどうしようもない必要悪だとしても、ミリアはそれをとして口を閉ざすことに強い抵抗と罪の意識を禁じえなかった。


 分かっている。


 仮にミリアが真実を白日の下にぶちまけても、事態は何も変わらない。


 磔刑者(クロイツ)、〈怒りの(ディエス・イレ)〉、〈反救世主(アンチ・メシア)〉――実際に磔刑者(アレ)を目の当たりにしたことのない者たちからすれば、どれもこれも荒唐無稽な与太話だ。

 ましてや何の地位も後ろ盾もない小娘の言ともなれば、信じるほうがどうかしている。だから気に病む必要などどこにもない。

 ミリアの意志動向が事態に干渉し得る余地など、最初からどこにもないのだから。


 分かっている。


 分かってはいるのだ。


 けれど、それでも思わずにはいられない。


 本当にこのままでいいのだろうか?  

 このまま真実をひた隠しにしたままで。


 堂々巡りの逡巡しゅんじゅんは擦り切れるほどに繰り返され、けれど結局答えの出ぬまま、ミリアはなし崩しに口を噤み続けた。

 そして――



      ◆◆◆



 聖都市街。

 

 その一隅にそびえる教会が、聖誕祭に際してミリアに割り当てられた慰問先だった。

 もともとは市外に派遣が決まっていたところを、ラインハルトに頼んで無理やり市内の教会に捻じ込んでもらったのだ。


 すべてはこの街の行く末を見届けるため――そして、彼と命運(みらい)をともにするために。


 聖誕祭前夜。


 厳粛でありながらどこか陽気に浮足立った祭日特有の活気も深夜にさしかかる頃にはすっかりと散逸さんいつし、夜更けの聖都はただただ静かに寝静まるばかりだった。


 肌を切り裂く冷寒な夜気。

 薄らと漂う蝋燭ろうそくの残り香。

 そして耳に迫る深い静寂が、闇に閉ざされた礼拝堂を満たしていた。


 雲が流れ、月が覗く。


 降り注ぐ月光がステンドグラスを透き通り、祈りを捧げるミリアの姿を淡く七色に照らし出す。


 同室の学友たちを起こさないようあてがわれた部屋をそっと抜け出し、礼拝堂に足を踏み入れてからもうずいぶんと時がたつ。


 屋内とはいえ火を落とされて久しいレンガ造りの堂内は、外と同じか、下手をすればそれ以上に冷え込んでいるように思われた。


 制服にカーディガン。


 夜半の酷寒を凌ぐには、ミリアの装いはあまりに軽装に過ぎる。

 真冬の夜気は布地に染み込み、芯から身体を凍えさせた。

 剥き出しの肌は痺れるようにかじかみ、冷たく凝り固まった身体の節々は身動(みじろ)ぐだけで軋んだ痛みを訴える。


 けれど、この程度の苦痛が一体何だというのだろう? 


 今宵彼の身を襲うであろう艱難辛苦に比べれば――否、比べることさえおこがましい、微々たる些事さじに他ならない。


 ゆえにミリアは意にも介さず、ただひたむきに、心静かに祈り続ける。


 彼の無事を。

 その勝利を。



「――ああよかった。やはり礼拝堂(こちら)でしたか」



 不意に響いた蝶番(ちょうつがい)の悲鳴が静謐せいひつをかき破った。


 扉の開く気配にはっと背後を振り返れば、そこには敷居を跨ぎ堂内へと足を踏み入れる長身の人影(かげ)


 ほの暗い薄闇の中。

 影の容姿はにわかには判然としなかったが、最前にかけられた声音からそれが誰かはすぐに分かった。


猊下(げいか)……!」


 思いがけない来訪者にミリアは唖然と目を見開く。

 にこりと微笑みを湛えながら、ラインハルトは真紅の法衣をなびかせ月明りの中へと歩を進めた。


()も更けて久しい。もしもこちらにいないようならそのまま帰るつもりでいましたが、どうやら無駄足を踏まずに済んだようですね」


 どこか冗談っぽさを滲ませながら、ほっと息をつくラインハルト。


「聖都にお残りになられていたのですか?」

「愚問ですね。枢機卿すうききょうたる私が、導くべき民草を残し自分だけ逃げ出すわけがないでしょう。重ねて言えばユーベルシュタインの家は古くから教皇庁(アーク)の要職を担ってきた家柄。

 有事に際し命をなげうつ責務があります」


 ラインハルトは気負いなく告げながら、ミリアに正対し、足をとめた。


「そうですか……ところで猊下(げいか)、こんな夜分になぜここへ?」

「無論、あなたに逢いにですよ」

「私に?」

「はい。本当はもっと早くに訪ねるつもりでいたのですが、色々と立て込んでしまいましてね。

 こんな夜更けに失礼かとは思いましたが、かと言って今宵を逃せば永久に機会を逸することになりかねない。

 ゆえ、非礼を承知でこうして参上つかまつった次第です。

 前置きが長くなってしまいましたね。今宵こうしてあなたのもとを訪れたのは他でもありません。改めて謝意を告げたかったからです」

「謝意?」


 その瞳に沈痛な色をよぎらせ、ラインハルトは頷く。


「はい。レオンハルトから聞きました。知ってしまったそうですね――〈怒りの(ディエス・イレ)〉の詳細を」

「――! も、申し訳ありません!」

「いえ、よいのです。むしろ謝るべきは私のほうだ。

 思えばこの四ヵ月間、あなたにはずいぶんと辛い思いをさせてしまいましたね。〈怒りの(ディエス・イレ)〉のことだけではありません。

 磔刑者(クロイツ)の存在、聖都の情勢、メシア教の真実……どれ一つとっても、一人で抱え込むにはあまりに重たかったことでしょう。

 本来であればあなたは何も知らずに心穏やかな日々を過ごし、そして何も知らぬまま、今頃はこの街を離れていたはずでした。

 それを台無しにしたのは私です。

 私の我儘わがままが、あなたの運命を歪めてしまった。

 謝って許されることでないことは重々に承知しています。

 それでも、もはや私にはあなたに詫びることしかできません。

 本当に申し訳ありません」

猊下(げいか)……」


 慙愧ざんきに眉間を強張らせ、深々と頭を下げる青年の両肩にそっと手を置き、ミリアは屈託無く微笑んだ。


「顔を上げてください、猊下(げいか)

 ええ、そうですね。確かに仰るとおりです。

 独り、恐ろしさに戦慄おののきもしました。

 不安で眠れない夜もありました。けれど後悔はしていません。

 まして、猊下(げいか)のことを恨めしく思ったことなどありません。

 当然です。

 そのおかげで、彼の抱えているものを知ることができたのですから。

 彼の支えとなれたのですから。

 だから、そのような顔をなさらないでください。

 巻きこんでくださったこと、私は心底より感謝しております」

「…………あなたは本当にレオンハルトのことを愛していらっしゃるのですね」

「はい」


 はっきりと頷くミリアの顔を、ラインハルトは眩しげに目を細め、まじまじと見つめる。


 その口元が、不意に寂しげに綻んだ。



「羨ましいですね――そうやってまっすぐに弟を愛せるあなたが」



「――――」


 咄嗟とっさに言葉を失うミリアを見て、ラインハルトは得心の気配を滲ませた。


「驚いている、というわけではなさそうですね。

 なるほど、その様子ではレオンハルトの出自について、すでに詳しい経緯は存じ上げているというわけですか。

 もっとも、私があれに隔意を抱いている理由に関しては、あなたもおそらく思い違いをなされていることでしょうが」

「思い違い?」

「……母親が化け物に辱めを受け、挙句そのたねを身籠った。

 確かに、息子としては心中穏やかでいられる話ではありません。

 それが母をたぶらかした憎き男の所業ともなればなおさらです。

 ですが、それとレオンハルトに対するわだかまりとはまた別の話です。むしろその出生と境遇に関しては、私も心底からの憐れみを禁じ得ません」


 それは思いもかけない告白だった。


 嘘をついている様子はない。

 しかし、


「では、どうして?」


 青年はわらう。

 擦り切れ褪せた、笑みを広げて。


「あの一件を境に、母は心を病みました。壊れてしまった、と言ってもいいでしょう。その目は過去に囚われ、狂気に(めし)いた。

 そして私と父の存在は、母の中から消えたのです」

「? どういう意味ですか?」

「言葉どおりです。

 忘れたのですよ、母は。

 私という息子がいたことを。父という夫がいたことを。

 母にとって私たち父子の存在は、たとえそれが本意でなかったとはいえ、愛した男を裏切った罪の証に他ならない。

 断じて認めがたい汚点であり、消してしまいたい過去だった……つまりはそういうことなのでしょう」


 そこまでが限界だったのだろう。


 淡々と押し殺されていたその口調が、耐えかねたように昏い熱を解き放つ。


「父は母を愛していました……! 

 家同士の打算など関係なく、心から! 

 裏切られても、壊れても、変わることなく母を想い、母を支え、母に尽くし、その挙句に身を持ち崩しこの世を去りました。

 父は母に生涯を捧げたのです! 

 息を引きとるその瞬間まで、残される母のことだけを憂いていた! 

 けれど母は、そんな父を顧みることすらしなかった……! 

 父だけではありません、私のことも! 

 たった一言でいい。ほんのささやかで構わない。

 感謝の言葉を、愛の言葉を囁いてさえくれれば、それだけで私たちは救われたというのに! だから――!」


 アイリーンを愛している。

 レオニスはもういない。


「だからレオンが許せないと?」


 母の愛を一身に受ける、胤違いの弟のことが。


「八つ当たりだというのは分かっています。

 聖職者にあるまじき話だということも。

 ですが、それでも私にはアレをまっすぐに愛することができない……!

 ゆえにあなたが羨ましい。あなただけではない。いっそメシアのように憎しみに全てをゆだねられたなら、どれほど楽か……」


 貴公子然とした端麗な面貌を見る影もなく歪めて、ラインハルトは痛切な苦渋を絞り出す。

 そんな彼に向って、安易に慰めの言葉などかけても空虚で白々しいだけだ。



 だから、ミリアは否定する。

 彼の抱く決定的な思い違いを。



「一つだけよろしいですか?」

「……何でしょう?」

「レオンの名付け親は誰でしょう?」

「母です。当然でしょう?」


 苛立ちもあらわに、声を尖らせるラインハルト。


「そうですか……だと思いました」


 レオンの名付け親に選ばれるような人間が、()の一件にまつわる顛末てんまつを知らないとは考えにくい。

 知っていてなお、そのような名前をつけるとも。


 ただ一人、アイリーンという例外を除いては。


「でしたら、やはり猊下は心得違いをなされています。アイリーン様は、間違いなく猊下のことを愛しておられます」

「――――!? ……なぜそんなことが言い切れるのです?」


 きっぱりと断言するミリアの態度に、当て推量やでまかせではあり得ない、確信の気配を嗅ぎ取ったのだろう。

 こちらを射抜くラインハルトの眼差しには、逆鱗に触れられた怒気よりも戸惑いのほうが色濃くたゆたっていた。


「名前です」

「名前?」

「レオンの名はアイリーン様がおつけになられたと、そう仰いましたね」

「ええ、そうです。母以外に、レオニスを想起するような名をつけるわけがないでしょう? ですから、それが何だというのです?」

「……まだお気づきになられませんか?」

「だから、何を――」



「レオニスだけではありません。レオンハルトという名前は、彼と猊下の名をもとにつけられたものです」



「――――」


 ラインハルトは愕然と息を呑み、呆けきった様子で立ち尽くした。


「私にはアイリーン様の心中など知るよしもありません。

 猊下の父君に対し、どのような思いを抱かれていたのかも。

 けれど、これだけははっきりと言えます。

 アイリーン様の心の中に、猊下はちゃんと生きておられると。

 猊下を愛しておられると。そうでなければ愛した殿方との子どもにかような名前をつけるわけがありません。

 これはあくまで推測でしかありませんが、アイリーン様が猊下のことを忘れてしまわれたのは、罪悪感ゆえにではないでしょうか?」


 どさり、と、礼拝堂の夜気が揺れる。


「……参りましたね」


 ラインハルトは膝をつき、ぐったりと項垂れた。

 溜息まじりのその声は、こらえきれない万感に熱く打ち震えている。


「これでは立場が逆だ。迷える子羊たちを導くはずの私が、一介の神学生に諭されようとは」

「出過ぎたことを申し上げているのは承知しています。ですが――」

「いえ、良いのです」


 苦笑ではない。自嘲とも違う。

 顔を上げたラインハルトの面に浮き出た笑みは、憑き物が落ちたような清々しさに満たされていた。


「おかげでふっきれました。心が軽い。まったく、我ながら現金なものです」


 ラインハルトはおもむろに立ち上がるや、颯爽と法衣を翻し、踵を返した。

「お戻りになられるのですか?」

「ええ。間も無く日が変わります。〈反救世主(アンチ・メシア)〉が目覚めるとしたら、おそらくその瞬間こそがそうでしょう。そうなる前に、母上のもとに戻らねばなりません。レオンハルトが戦地に身を投じようとしている今、母を守れるのは私しかおりませんから。あれの分まで、私がしっかりと母をお守りしなくては」


 肩越しに振り返り、衒いの無い声で、ラインハルト。


 すべてを許したわけではあるまい。

 割りきれない想いも、きっとあるだろう。

 それでも、


「私は母を愛しています。もちろん、レオンハルトもです」


 その言葉には、一片の嘘も、一抹の迷いも無かった。


「ありがとうございます、シスター・ミリア」

「いえ、私は何も――」

「そんなことはありません。あなたのおかげで、私は己の醜いわだかまりを乗り越えることができたのです。それに、はじめに申したでしょう? 今宵は謝意を告げにきたと。今の言葉は、今日までレオンハルトを支えてくださった、そのお礼でもあります」

「猊下……」

「もう行きます。今宵は長々と繰り言に付き合わせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。いけませんね。〈怒りの(ディエス・イレ)〉を目前にして、どうやら自覚している以上に弱気になっていたようだ。けれどもう、何も怖ろしくはありません。また逢いましょう、シスター・ミリア。すべてが終わった、その後に」

「はい」


 別れの言葉と再会の約束を交わし、青年は毅然と歩を踏み出す。


 その後ろ姿が、閉ざされた扉の向こうに消えるのを見届けて、ミリアは再び祭壇へと向き直った。


「……レオン」

 そして、再び祈りを捧げる。

 天にまします、すべての父に。


 彼の無事を。

 その勝利を。




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