5章―4
手を繋ぎながら、目抜き通りの雑踏を停留所に向けてひた進む。
この幸福な一時を永遠に引き延ばしたくて。
さしせまる別離の瞬間をほんの刹那でも遠ざけたくて。
ミリアは名残惜しさに後ろ髪をひかれるまま、ゆるやかに歩を踏みしめる。
二人の間から会話が途絶えてすでに久しい。
けれどそれは、気まずさに繋がる類のよそよそしい沈黙ではなかった。
手袋越しに溶け合う互いの温もり。
時折触れる肩の感触。
地を踏む足音。
微かに漏れる息遣い。
五感のすべては傍らに寄り添う彼の存在を感じ取ることだけに費やされ、そして満たされていた。
穏やかな静寂。
二人だけの世界。
周囲をつつむ喧騒も今は遠く、日だまりのような心地よさに、ただうっとりと耽溺する。
言葉を差し交わす余地などどこにもない。
むしろそんなもの、この場にあっては無粋なだけだ。
「……冬季休暇はどうするつもりだ?」
だからレオンがあっさりとそれを破ってしまったことがミリアにはひどく残念に思えたし、ほんの少し意外でもあった。
あるいはそこで気づくべきだったのかもしれない。
レオンのまとっていた沈黙の質が、己のそれとはまるで異なっていたことに。
「どうするもこうするもいつもどおりです。休みの間はずっと寄宿舎にこもって読書と勉強漬けの毎日を送ることになるでしょうね。あ、もちろん明け方には逢いに行きます。ふふ、そうなったら毎日お逢いできますね」
「……聖都の外に出る予定は?」
「今のところは特に。身寄りも用事もありませんから」
「……学友に地方育ちの一人や二人いるだろ? そいつの家に遊びに行ったらどうだ?」
「そういうお誘いも確かにありますが、あまり人の家に厄介になるのは気が進まなくて……」
「……そう言うな。せっかくのまとまった休みだ。たまには羽を伸ばすのも悪くないだろ」
「いえ、せっかくのまとまった休みだからこそ、その、あなたとの交友を深めたいと言いますか。あの、ご迷惑ですか?」
「……いや、そういうわけではないが、しかし――」
「レオン」
ミリアはぴしゃりとレオンの言葉を遮った。
「一体どうしたのですか?」
執拗に食い下がってくる彼の態度に、流石にミリアも不審感を募らせる。
「何があったのです? いえ、何があるのです?」
「…………」
「レオン」
どちらともなく足を止める。
向かい合うレオンの面には色濃い葛藤が滲んでいた。
思い詰めた様子で頑なに押し黙るレオンを、ミリアは挑むように睨め上げる。
断固として追究の意気を緩めないミリアを前に、とうとうレオンは観念し、
「……来たる聖誕祭の日、この聖都は戦場と化す」
「えっ?」
「……〈怒りの日〉」
「――――!?」
「……その様子では憶えているようだな」
真実を知ったあの夜。
死に際に磔刑者が残した謎の言葉。
「……歩きながら話そう。それと、声は落とせ」
「はい」
促されるまま歩を踏み出す。
目抜き通りを外れ、人気の無い路地裏へと足を踏み入れる。
「……黙示録終章〈怒りの日〉。教皇庁は今年の聖誕祭こそが彼の日に相違ないと睨んでいる」
「黙示録?」
「……生前にメシアが記した預言書の一つだ。そこには将来訪れるであろう人類規模の苦難と試練が連綿と書き綴られている」
「預言書? そんなものが……」
「……黙示録は数ある禁書指定の中でもとりわけ厳重に存在を秘匿されている秘中の秘だ。
教皇庁の中でもその存在を、ましてや内容を知悉している人間はごく一握りに限られている。
お前が知らないのも無理はない。そして、その黙示録の終章を飾るのが〈怒りの日〉だ」
重々しくそう告げると、レオンは抑揚の無い声で何かをそらんじはじめた。
怒りの日
彼の日審判者は甦り
すべての罪は裁かれる
契約の獣が解き放たれ
洗礼の業火が聖夜の闇を包む時
殉教の使徒は其が御元へと馳せ参じ
ともに終末の喇叭を吹き鳴らさん
怒りの日
彼の日世界は滅び去り
かくて千年の誓いは果たされる
「それは?」
「……黙示録に記された〈怒りの日〉の文言だ」
「どういう意味なのですか?」
「……はっきりとしたことは定かじゃない。だが、内容からして上は〈反救世主〉の復活を示唆したものだと判断している」
「――――!?」
〈反救世主〉。
己が呪詛によって自ら磔刑者と堕した救世主の成れの果て。
かつて大陸全土を地獄に変えた磔刑者の王。
「甦る? 〈反救世主〉が、聖誕祭に?」
「……甦る、殉教の、という言葉から類推するに、審判者と使徒が磔刑者を指した単語であることは想像に難くない。
かつ、文脈からして審判者は使徒の上位存在と予想される……」
「つまり〈反救世主〉である可能性が高い、と?」
「……そう考えれば、この数年磔刑者のまとう瘴気が異様に濃さを増し続けていることも、今年に入ってからその出現率が爆発的に跳ね上がったことにも得心がいく。
何より、人語を解さないはずの磔刑者の口から〈怒りの日〉という言葉が飛び出した。
まず間違いあるまい。
重ねて言えば今年は聖暦千年……すなわちメシアが死して千年目に当たる年だ。その点でも、黙示録の内容と符合する。
聖夜にいたっては言わずもがなだ。昇天祭や復活祭とする線もあったが、いずれも事無く過ぎた以上、可能性は聖誕祭一本に絞られた」
「そんな! だったら急いでみんなを避難させないと――!」
「……それは無理だ」
レオンはにべもなく断ち切り、
「……教皇庁には民を逃がすつもりも、ましてや真実を公表するつもりもない」
「なぜです!?」
驚愕と非難に金切れた叫び声が、狭い路地裏に反響する。
ミリアはレオンの腕に取りすがり、詰問の眼差しを鋭く突き立てた。
火を噴くようなその視線をまっすぐに受けとめ、レオンは透徹した面差しで告げる。
「……アークはメシアの亡骸を葬るための聖櫃として、そして、その血を受けとめる聖杯として築かれた聖都であり教皇庁だ。その存在意義は一貫している。
今も昔も、そしてこれからも変わることはない。
穢れも滅びも流出させるわけにはいかない。
たとえどんな犠牲を払おうともだ。ゆえに〈反救世主〉が甦るその時は、地獄の釜となって諸共に灰燼と帰す……」
地獄の釜?
灰燼?
「――――! 聖都に火を放つと言うのですか!?」
「……千年前も同じ方法がとられ、そして見事〈反救世主〉を滅ぼすに至った。聖都の民は、〈反救世主〉をひきつけておくための言わば生贄だ。万に一つも仕損じないためのな」
「そんな……」
ミリアはわなわなと唇を震わせながら、蒼褪めた顔でよろめいた。
その手が、レオンの腕から力無く滑り落ちる。
遠く活気に満ちた表通りの喧騒が耳の奥を通り抜け、学友たちの、アイリーンの、そして目の前の少年の顔が続けざまに脳裏をよぎった。
最大多数の最大幸福。
そんな正論はくそ食らえだ。
安全圏から訳知り顔で押しつけられるおためごかしなど反吐が出る。
けれど認めざるを得ない。
事はもはや、そんな次元の問題ではないのだと。
聖都の存亡と大陸全土の未来。
秤にかけるまでもなく、どちらを選ぶべきかは瞭然だ。
「……案ずるな。今話したのはあくまで最後の手段だ。俺が〈反救世主〉に敗れた場合のな」
「まさか、一人で戦うつもりですか!?」
「……ああ」
「なぜです?」
「……是非もない。もはやまともに磔刑者と対峙できるのは俺だけ――」
「そういうことではありません!」
ミリアの顔がくしゃりと歪んだ。
「なぜあなたばかりがそんな辛い役目を押し付けられなくてはならないのですか!? そんなのおかしいではありませんか!」
込み上げるのは激しい義憤。
そして、唾棄を催す自己嫌悪。
厚顔無恥もはなはだしい。
よくもぬけぬけとそんなことが言えたものだ。
ただ守られているだけの無力な女が偉そうに、一体どの口で吼えたてる。
分かっている。
己にそんな資格が無いことは。
けれど、それでも叫ばずにはいられなかった。
だって仕方ないではないか。
ミリアが嘆かなければ、一体誰が彼の悲運を嘆くと言うのだ?
なのに、
「……勘違いをするな。これは俺自らが願い出たことだ」
「なっ……!」
驚きのあまり息を呑む。
「どうして……?」
「……愚問だな。この街を守りたい。それゆえにだ」
「でも、だって……」
訳が分からない。
おかしいではないか。
「……そうだな。俺が教皇庁に従い磔刑者を狩っていたのは、あくまで俺自身と母の保身のためだ。
他の連中がどうなろうと、俺にとっては心底どうでもよかった。
いや違うな。どうでもいいというのは嘘だ。
俺は俺を取り巻く不条理に倦んでいたし、憎んでもいた。
俺を駒同然に死地へと放り込む教皇庁の奴らも、何も知らずに脳天気に生を謳歌しているこの街の連中も、俺にはただただ恨めしかった」
「なら何で……?」
「……お前がいたからだ」
「えっ?」
「……お前がいたから、俺は変わることができたんだ」
予想だにしない返答に、ミリアは呆然と目を瞠る。
二の句を継げず立ち尽くすミリアに、レオンは穏やかな口調で言葉を続けた。
「……お前と出逢い、言葉を交わし、想いを通じ、情を育んだその日々が、俺に人と寄り添う幸せを教えてくれた。他者の尊さを教えてくれた。だから守りたいと思った。だから守ると誓った。皆を、この街を」
「そんな……」
総身から血の気とともに力が抜ける。
ふらりと崩れ落ちそうになるミリアの肩を、すかさずレオンが支えに入った。ミリアは上目遣いに彼を見上げ、力無く問いを投げる。
「私のせいなのですか……?」
「……違う。お前のおかげだ」
レオンは淡く澄んだ微笑を閃かせ、断固たる眼差しでそう言った。
「……お前のおかげで俺は救われたんだ。俺の生には確かに意味があったのだと。辛く苦しかった日々は決して無駄ではなかったのだと。……だからそんな顔をするな」
「レオン……」
差し伸ばされたレオンの手が、ミリアの頬をそっと撫ぜた。
伸ばされた指先が、とめどなく頬を伝う熱い滴を優しく拭う。
「……それで、ここからが本題だ。ミリア、お前は――」
ミリアはピンと立てた人差し指をレオンの唇に突きつけ、続く言葉を押しとどめた。
「ここまで言われて分からないほど私も愚鈍ではありません。聖都を離れろと、そう言いたいのですね?」
「……ああ」
「お断りします」
きっぱりと言い張る。
ミリアは人差し指をぐいっと押し込み、なおも言い募ろうとするレオンを鋭く制した。
「話は分かりました。私とて分はわきまえています。
一緒に戦うなどと、そんな阿呆な我儘を言うつもりはありません。
ですが守られる側にも守られる側の意地があります。
あなた一人を死地へと送って、自分は安全な場所から対岸の火事を決め込むなんて、そんな恥知らずな真似ができますか!
私も聖都に残ります! 残ってあなたの無事を祈ります!」
涙の残る目尻を決然と吊り上げ、ミリアは不退転の形相で訴えた。
「だからあなたも誓ってください。負けないと――必ず勝つと」
「…………」
押し黙るレオンの面には、懊悩や葛藤よりも諦観と決意の色が濃く透けていた。
すべてを話せばこうなることは、おそらく最初から分かっていたのだろう。
だからこそ、ミリアが聖都を離れるようそれとなく誘導した。
きっと、そうに違いない。
「……分かった。誓おう。俺は負けない。必ず〈反救世主〉を倒してみせる。たとえこの命に代えようとも、絶対――」
ごつん、と。
くぐもった衝撃が拳を伝う。
みなまで言わせずぶん殴ってやった。
もちろんグーで。
流石に意表を突かれたのだろう。
突然のミリアの暴挙に、レオンは棒立ちのまま為す術も無かった。
殴られた横っ面を押さえながら、呆気にとられた眼差しでミリアを見つめる。
「馬鹿! お馬鹿! 大馬鹿! だから安心しろとでも、そう言いたいのですか!?」
「……ミリア?」
憤慨するミリアを前に、レオンはただただ目を丸くするばかりだった。
一体何がミリアの逆鱗に触れたのか本気で分かっていないのだろう。
その様子がまた一段と腹立たしくて。
「ここまで言ってもまだ分からないのですか、この唐変木! 目を閉じて歯を食いしばりなさい! 避けたら絶交ですからね!」
理不尽な要求とともに再び拳を振り上げるミリア。
ほとばしる怒気に圧されるまま、素直に従い身を強張らせるレオン。
ミリアは頬にめがけて繰り出した拳を寸前で逸らし。
彼の首に腕を回し。
そして――
「――――!?」
奪ってやった。
その唇を。
微かに触れあっただけの幼い口づけは、その淡さとは裏腹に絶大な効果をもたらした。
死人じみた蒼白い顔がかつてないほどに赤く茹で上がる。
その虚ろな双眸を目一杯見開いて、レオンは一体の石像と化した。
ミリアはすかさず身を離すと、腰に手を当て胸を張った。
火を噴くような羞恥を誤魔化して、傲然と言い放つ。
「責任をとってください!」
「……は?」
「もはや不浄となったこの身では、神に仕えることはかないません。つまりは無職です。文無しです。ゆえに、責任をとってください」
「……いや、責任も何も今のはお前のほうから……大体、たかが接吻ぐらいで不浄などと――」
「たかが!?」
「……すまない。失言だった」
未だ動揺冷めやらぬ様子でしどろもどろに空咳をこぼすレオン。
「……それでその、責任というのは一体……?」
「決まっています」
ミリアはびしっとレオンを指差し、
「古今東西、女に対する男の責任の取り方など一つです。娶りなさい」
「……なっ!? 待て! いくら何でも話が飛躍しす――」
「お黙りなさい! この期におよんで言い逃れようなど、大の男が見苦しいですよ!」
さしもの仰天した様子のレオンの言葉をぴしゃりと遮り、ミリアは矢継ぎ早に捲し立てる。
「とにかく、あなたと私は今日より伴侶です。つまり、あなたには私を守り、養っていく義務があります。だから――!」
滅茶苦茶なのは分かっている。
だけど、たとえどのような暴論をふりかざしてでも翻させたかった。
命に代えても、などと、そんな後ろ向きな覚悟はきっと最後の土壇場で明暗を分けてしまうに違いないから。
だから、
「だから決して死んではなりません! 必ず生きて帰りなさい! 私はまだ、寡婦になるつもりなどありません……!」
「――――」
レオンの顔が理解に染まり、息を呑んで刮目する。
「きゃっ――!」
レオンはミリアの手をとり、そっと、けれど有無を言わせぬ力強さでその身体を抱き寄せた。
全身をつつみこむ彼の匂いと温もりに、思考が蕩け、沸騰する。
「レ、レオン……?」
抱き竦められるまま胸に頬を埋め、ミリアは戸惑いに声を上擦らせる。
応じる声は温かな慈愛に満ちていた。
「……そうだな。お前の言うとおりだ。だから、改めて誓おう。俺は負けない。必ず〈反救世主〉を倒してみせる。そして、生きてお前と添い遂げる」
「――――」
甘い痺れが胸を射抜いた。
失神寸前の眩暈にくらりと頭が白み、狂おしいほどの愛おしさが堰を切ったように溢れだす。
愛。
そうだ。
認めよう。
「……愛しています、レオン」
ミリア・エーレンブルクはレオンハルト・ユーベルシュタインを愛している。
これまで己自身に対してさえ胸の奥に秘してきた想いを、ずっとなあなあに済ませ続けてきた真実を、ミリアはとうとう白日の下へと晒した。
『――――』
顔を上げる。
視線が絡む。
降りしきる雪の紗幕に抱かれながら、二つの影はゆっくりとその唇を重ねた。




