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4章―5

「う、ううう……」


 座席に突っ伏しさめざめとむせび泣くミリアの耳朶じだを、ひづめの音が軽やかに叩く。


 日も暮れなずむ空の下。


 ミリアを乗せた馬車は、ゆったりとした足取りで聖都(アーク)の街並みを駆け抜ける。


(よご)された……もうお嫁にいけない……」


 虚ろに澱んだ瞳に涙をたたえ、ミリアはぐったりと生気の失せた声音で呟いた。


 脳裏に甦るのは試着会という名の地獄の責苦。

 はずかしめの記憶に身の毛がよだつ。


 アイリーンの為すがまま、まるで着せ替え人形のようにあんな服やこんな服をとっかえひっかえ着せられて、挙句、気づけばそこに女中たちまでもが加わりだす始末。

 よってたかって散々もてあそばれた末ようやく彼女たちの魔手から解放された時には、ミリアは心身ともにズタボロだった。


 アイリーンたちの黄色い歓声が今も耳の奥にこびりついている。


「死ぬ……恥ずかし過ぎて死ぬ……」

「何だかよく分からんが元気を出しなされ、お嬢さん。大丈夫。恥ずかしい記憶というやつは、年さえ食えば大概は良い思い出に変わってしまうものさ」


 屋敷をって以来延々と悶絶もんぜつを続けるミリアをいい加減見兼ねたのだろう。


 好々こうこうや然とした闊達な笑い声とともに、御者台ぎょしゃだいから(いた)わるような励ましの言葉が窓越しに(とう)じられる。


 馬車は乗合馬車ではなく、ユーベルシュタイン家所有のものだった。


 ミリアが邸宅を訪れた際には、こうしていつも学院の傍まで送ってくれるのだ。

 ミリアはのっそりと身を起こす。


 客室と御者台とを仕切る小窓は開け放たれていた。

 今日の聖都はこの季節には珍しい、汗ばむほどの陽気につつまれていた。

 吹き込む風が、羞恥しゅうち火照ほてった身体に心地良い。


「あの、いつもありがとうございます。お忙しい中わざわざ送っていただいて……」

「何、気になされるな。これがわしの仕事じゃて。それにこいつは、お嬢さんに対するわしからのせめてもの感謝の気持ちでもあるしのう」

「感謝?」


 思いがけない言葉に意表を突かれる。


「うむ。お嬢さんが屋敷に遊びに来るようになってからというもの、奥様はずいぶんと明るくなられた。以前に比べてお加減もだいぶよくなられたようじゃし、容態のほうも今はすっかり落ち着かれておる。それもこれも、すべてお嬢さんのおかげじゃ」


 穏やかな声音には、溢れんばかりの謝意が込められていた。

 ミリアはこそばゆさに頬を染めながら、ぱたぱたと胸の前で両手を振る。


「そんな、私は何も! それより、アイリーン様は何かご病気を患われておられるのですか?」


 訊ねる声が不安に陰る。

 応じる御者の声色(こわいろ)が薄らと憂愁を帯びる。



「病……確かにそうじゃな。ただし、病は病でも奥様が抱えておられるのは心の病じゃ」



「心の病? アイリーン様が?」

 それはあまりに予想外の答えだった。

 身体の調子が優れないというのであればまだ分かる。

 しかし、よりにもよってあのアイリーンが心を病んでいるなど、にわかには信じられない話だった。


 言われて改めて振り返ってみても、彼女の言動にそれらしき気配を感じた覚えはやはりない。


 かと言って、目の前の御者がそんな突拍子も無い嘘や悪趣味な冗談を言う人間でないことはミリアもよく分かっていた。


 短い付き合いではあるが、その程度のことは疑う余地もなく断じ切れる。


「まあ驚くのも無理はない。わしの知る限り、お嬢さんと一緒にいる時の奥様は普段では考えられないほど安定なされておられたからのう。

 けれど事実じゃ。

 レオニスが死んで以来、奥様はすっかり変わられてしまった……」

「レオニス……?」



「レオン坊ちゃまの父君じゃよ」



「――!? レオンの父? でも――」


 レオンは磔刑者(クロイツ)との混血児だ。

 母親が人間(アイリーン)である以上、当然――


「坊ちゃまの父親は磔刑者(クロイツ)のはず。そう言いたいのじゃろう?」


 咄嗟とっさに出かかり、けれど辛うじて呑み込んだミリアの言葉を御者がぐ。


「ご存じなのですか!?」


 磔刑者(クロイツ)のことを。

 そしてレオンの出生を。


「まあのう……。

 ユーベルシュタインの家には先々代の頭首の頃からお仕えしておる。

 自分で言うのも何じゃが、いわゆる最古参と言うやつじゃ。

 ゆえ、大方の事情は聞き及んどる。

 お嬢さんがどこまで知っているかものう」

「……そうでしたか」


 門を抜け市壁をくぐると、石畳を蹴る固い響きが、土を駆けるくぐもった打音へと音程を変えた。

 建物ばかりだった景色が見る間に開け、車窓の外に自然豊かな風景が広がる。


 聖都アークは城塞都市だ。

 聖都の中心に鎮座するアーク大聖堂の中でも教皇の御座たる宮殿区と市街地全域は、それぞれ城壁と市壁によってすっぽりと囲われている。

 さらに市壁の外側には主要な街道を中心に聖堂騎士団の詰め所が数多く点在しており、盤石の体制で聖都全土の治安維持につとめていた。


「奥様とレオニスは幼馴染というやつでのう。

 かたや名家のご令嬢、かたやそこに仕える使用人の息子と身分違いの間柄ではあったが、互いに唯一身近な同世代ということもあって、それはそれは大層仲がよろしかった。

 そんな二人じゃ。長じるにつれ互いを異性として意識し合うようになったのは誰の目からも当然の成り行きじゃった。

 じゃが、ユーベルシュタイン家は代々多くの枢機卿すうききょうを排出してきた名門の家柄。

 大旦那様――奥様の父君が二人の恋仲を許すはずもなかった。

 二人の関係を知った大旦那様は烈火のごとくお怒りになられ、両親ともどもレオニスに暇を出されたばかりか、強引に奥様の婚姻までお決めになられてしまわれた。

 婿養子として選ばれたのは同じく名家の次男坊――それが、ラインハルト坊ちゃまのお父君じゃった。かくして二人は引き裂かれ、身分違いの悲恋はそこで終わりを迎えるはずじゃった。

 否、終わるべきだったんじゃ」


 懐古かいこするような遠い声音でそこまでを口にし、御者はいったん言葉を切る。

 クッションのきいた座席に深く腰を(うず)めながら、ミリアは先を急かすでもなく固唾かたずを呑んで次の言葉を待った。


「あれはラインハルト坊ちゃまがまだ物心ついて間もない頃のことじゃった。その日、奥様は何の前触れもなく忽然と行方を眩ませてしまわれた。

 なぜその時期に、何を契機にそれと踏み切ったのか、今となっては誰にも分からぬ。唯一はっきりとしているのは、それが駆け落ちで、相手がレオニスだったということだけじゃ。

 (のち)に見つかった書き置きからそうと知れた時には、二人はすでに聖都を離れた後じゃった。旦那様も大旦那様も八方手を尽くし二人の足取りを追われたが、何分(なにぶん)事が事じゃ。表だって探すわけにもいかず、捜索はすぐに暗礁へと乗り上げてしもうた」


 メシア教において堕胎だたい、自殺、姦通かんつうは最大の禁忌きんきだ。

 単に身内の恥というだけで済む話ではない。

 教皇庁(アーク)の要職に連なる名家の人間がそのような不逞ふていを働いたなど、かような醜聞しゅうぶんを表沙汰にできるはずがなかった。


「二人の行方は(よう)として知れぬまま一年二年と時は過ぎ、やがて大旦那様は心労から病に伏せられてしまわれた。

 そうして迎えた四年目の冬――大旦那様が身罷られ、もはや誰もが二人の発見を諦めかけていたある日のことじゃった。

 その夜、街中に突如一匹の磔刑者(クロイツ)が現れた。

 幸い、偶然近くに騎士団の面々が居合わせたおかげで大事には至らなかったそうじゃが、話はそこで終わらなんだ……」


 御者の声が、血を吐くような様相を呈する。


「見つかったんじゃよ……奥様が。

 事後救助にあたっていた騎士の一人が、磔刑者(クロイツ)が甦ったとおぼしき家屋の中から見つけたそうじゃ。

 ……何者かによって辱めを受けた奥様をのう」

「まさか……その磔刑者(クロイツ)がレオニスで、彼がアイリーン様を犯したと言うのですか……?」


 御者は黙して答えない。

 その沈黙こそが、何よりも雄弁に肯定の意志を示していた。


「そんな……」


 ミリアは慄然りつぜんと蒼褪め息を呑んだ。

 吐き気を催す凄絶な不快感が、ぞわぞわと皮膚の下を這い回る。

 突きつけられた真実の、そのあまりのおぞましさに、ミリアはきつく肩をかき抱いた。


 アイリーンがいかにしてレオンを身籠るに至ったのか……その辺りのおおよその事情は、彼が磔刑者(クロイツ)との混血児(ハーフ)だと判明した時点で容易に察しはついていた。


 にも関わらず今更になってこうも胸がざわめくのは、それと察していながら敢えて目を背け続けてきたからに他ならない。


 迂闊うかつに直視し思惟しいを馳せるには、その事実はあまりに惨烈さんれつに過ぎたから。


 同じ女として、想像するだに身の毛がよだつ。


「では、それが原因でアイリーン様はお心を?」


 駆け落ちまでした最愛の相手を喪った挙句、人ならざる化け物に身を汚されたのだ。

 狂するより他なかったアイリーンの心情は察してなお余りある。


「ですが、なぜそのようなことに?」

「唯一の生き証人たる奥様がああなられてしまわれた以上事態(こと)の詳細は永遠に闇の中じゃが、おそらく大旦那様の訃報を聞きつけ密かに聖都に戻ってきておったのじゃろう。

 その折、レオニスは何らかの理由で命を落とし、奥様は彼の遺体をとむらうことなく隠匿いんとくなされた。

 葬儀を執り行うことで足がつくのを怖れたのか、はたまたレオニスの死を受け入れられなかったのか。

 大旦那様はメシア教の暗部については奥様にご内密にされておった。

 磔刑者(クロイツ)化のことなど知るよしも無かったはずじゃ。

 人を(あや)める以外能の無いはずの磔刑者(クロイツ)が、何故(なにゆえ)かような行為に及んだのか――仮にもしそれが愛の為した業じゃとすれば、これほど残酷な話があるじゃろうか……」

「アイリーン様は、その際にレオンを身籠ったのですね?」


 御者は悄然しょうぜん項垂うなだれ、頷いた。


「生まれてきた赤子に磔刑者(クロイツ)の血が混じっていることが分かるや、誰もが殺すべきだと息巻いた。

 それをお止めになられたのは旦那様じゃった。

 たとえどのような形であろうとも、奥様にとって生まれてきた赤子は愛した男のかけがえのない忘れ形見だったのじゃろう。

 それはそれは大層な可愛がられようじゃった。

 レオン坊ちゃまを殺すことは不安定な奥様の心にとどめをさすことになりかねないと、旦那様はそう判じたのじゃろうな。

 もとは家同士が打算で結んだ婚姻ではあったが、旦那様は奥様のことを心から愛しておいでじゃった。

 たとえ裏切られようとも、奥様の目に自分の姿が映っていなかろうとも、その想いは揺るがなかったのじゃろうて。

 じゃが、むべなるかな。

 レオン坊ちゃまの件ばかりは、流石に教皇庁(アーク)も見逃してはくれなんだ。旦那様の懸命な働きかけでどうにか命だけは取られずに済んだものの、坊ちゃまの身柄は教皇庁(アーク)の預かるところとなり、奥様もユーベルシュタインの屋敷に幽閉される運びとなってしもうた……」


 レオンハルト。


 人の理性と磔刑者(クロイツ)の特性を兼ね備えた極めて稀有な特異体は、救世主(メシア)の呪いに苦慮する教皇庁(アーク)にとって、単に危険な存在というだけでなく計り知れない有益性を秘めた垂涎すいぜん奇貨きかであったに違いない。


 安易に殺してしまわず、手元に置いて様子を見ようという見解が教皇庁(アーク)の中で大勢を占めたとしても何ら不思議はなかった。


 人質(アイリーン)の幽閉先がユーベルシュタインの屋敷というのは何とも中途半端な処遇に思えるが、察するにレオンに対する牽制けんせいとユーベルシュタインへの配慮とを擦り合わせ勘案した末の、苦肉の折衷案せっちゅうあんだったのだろう。


 いずれにせよ、この大陸において個人が教皇庁(アーク)と敵対して生き残れる道理などない。


 レオンが自身とアイリーンの身の保障を得るには、教皇庁(アーク)の意に従う以外に道は無かった。


「そんな旦那様も、五年前に流行り病で身罷みまかられてしまわれた。それから後はお嬢さんも知っての通りじゃ……」


 すべてを語り終えるや、御者は憔悴しょうすいもあらわに肩を落とした。


「レオン自身はそのことを?」

「分からぬ。旦那様の言いつけで屋敷の人間についてはきつく緘口かんこう令が敷かれておったが、先にも言うたように坊ちゃまの身柄は教皇庁(アーク)の預かりとなっておるからのう。

 知っていたとしても別段不思議はあるまいて」

「そう、ですか……」


 ミリアは力無く消沈し、ぐったりと背もたれに身を預けた。


「……しかし解せません。なぜ、そんな大事な話を、それも私などに?」


 仕える家の恥部を進んで部外者に晒すなど、家人の風上にもおけない不義である。

 だが、ミリアには目の前の御者が何の故もなしにそのような不忠を働くとはどうしても思えなかった。


 御者は肩越しにミリアを振り返り、穏やかに微笑んだ。


「お嬢さんだからじゃよ。先にも言うたが、お嬢さんと接するようになってからというもの奥様はずいぶんとお変わりになられた。

 奥様だけではない。レオン坊ちゃまもじゃ。

 いずれもわしらがこの十八年、ついぞ為し得なかった偉業(こと)じゃ。

 そんなお嬢さんだからこそ、知っておいて欲しかった。

 お二人が抱えている(もの)をのう……」


 本当にそうなのだろうか? 

 本当に自分は、彼らの拠り所となり得ているのだろうか?

 だとしたら、それはすごく嬉しくて、とても誇らしいことだった。


 ひんやりと冷えた窓硝子まどがらすにこつんとこめかみを押しつけて、ミリアは横目がちに霊園の方角へと視線をせた。


 ほんのりと夕暮れの気配に色づきはじめた空の下……なだらかに続く農地と、鬱蒼と生茂る雑木林の更に奥。


 遠く彼方の大霊園に繋がれた一人の少年を心に思い描いて、きつく胸をおさえつける。


「レオン……」


 彼の出生にまつわるやりきれない顛末てんまつが、ミリアの胸を押し潰す。


 彼の支えになりたい。


 改めて強く、そう思った。



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