4章―4
翌日。
ミリアはラインハルトとの約束通り、レオンと別れ霊園を発ったその足でユーベルシュタイン邸を訪れた。
朝と呼ぶにはいささか遅く、けれど昼と言うにはまだまだ早い中途半端な時間帯。
流石に食事には早過ぎるとあってか、通されたのは食堂ではなくアイリーンの私室だった。
「聞いたわよミリアちゃん!」
招かれるまま部屋に入るなり、きらきらと目を輝かせたアイリーンが凄まじい勢いで詰め寄って来たものだから、ミリアは大いにたじろいだ。
「今度レオンとデートするんですって?
ああ、ついこの間まであんなに小さかったのに、あの子ももうそんな歳なのね……。でも良かったわ。
あの子ったら、年頃なのに浮いた話の一つも無かったから正直少し心配してたの。本当のこと言うとね、一人息子に恋人ができるのって女親としてはちょっぴり複雑な気分なの。
でもでも、相手がミリアちゃんだったら私は大歓迎だから!
と言うか、実はずっとそうならないかって期待してたのよ!
なのにレオンに話を聞いても二人の仲はちっとも進展してないみたいだったから、内心ずっとやきもきしてたのだけど――そう、二人はようやく恋仲になったのね! おめでとう!」
ミリアの手を祈るようにがしっと両手で握りながら、感極まった様子で一人矢継ぎ早に盛り上がるアイリーン。
「なっ!? 違います! こここ恋人だなんて、そんな!? 私と彼とはただの友達で、まだそういった関係では――!」
ミリアはぼふんと湯気を噴きださんばかりに顔を赤熱させて、しどろもどろに抗弁し――はっと己の失言に気づいたときには、もう何もかもが遅過ぎた。
「そっかー、まだか。つまり脈はあるってことね? うん、二人ともまだ若いんだし、愛を育む時間ならこれからたっぷりとあるものね。とりあえず、今はそれが聞けただけでも満足だわ」
「いえ、その、ですから――!」
にこにこと屈託なく微笑むアイリーンに、ミリアは慌てて否定の言葉を言い募ろうとする。
だがその機先を制するように、アイリーンはミリアの腕を抱き込んで、ぐいぐいと部屋の奥に引っ張っていく。
「ごめんなさい。遠路はるばるお越しいただいたというのに立ち話など失礼でしたわね。とりあえずお掛け下さいな。そうね……お昼までにはまだ時間もありますし、今お茶でも用意させましょう」
口にしかけた反論の数々を、寸でのところで引っ込める。
変に誤解されたままなのは落ち着かなかったが、だからといってせっかく終わりかけている話題をわざわざ自分からまぜっかえすのも本末転倒で馬鹿馬鹿しい。
ミリアは渋々口を噤み、代わりに深く嘆息した。
◆◆◆
「――レオンの好み?」
きょとんとオウム返しに訊ね返され、ミリアは羞恥に顔を俯けながら蚊の鳴くような声で。
「はい」
カップから立ち上る芳醇な湯気が、鼻孔をくすぐり、面を撫でる。
ティーテーブルを囲んで紅茶の味に舌鼓を打ちながら、二人はゆったりと歓談に花を咲かせていた。
「もちろん、知ってるわよ」
アイリーンは、パチンと得意げに手を叩き、
「赤毛で碧眼。髪の長さは少し短めで、年上よりも年下が好み――」
「いえ、女性の好みではなくて――と言うか、まんま私ではありませんか!?」
「あら? 言われてみればそうね」
くすくすと確信犯的な微笑を浮かべるアイリーン。
ミリアは気恥ずかしさを誤魔化すように、こほんと咳払いをし、
「……私がお訊きしたかったのは彼の趣味であるとか、食べ物の好き嫌いであるとか、その辺りのことです。
せっかく連れだって出かけるのに些細なことで不快にさせては申し訳ありませんし、出来れば彼には楽しんでいただきたいですし……だから、その、最低限それくらいは把握しておいたほうが良いかと思いまして……。
け、決して、もっともらしい理由にかこつけて彼のことをもっと知りたいとか、そういうことではありませんから!」
あたふたと、慌てて付け加えるミリア。
「ふふ」
アイリーンはふわりと優しく目を細めると、上品に口に手を添え、鈴を転がすようなつつましやかな笑い声をこぼした。
「アイリーン様?」
「ごめんなさい。だって、レオンと同じことを言うのだもの」
「私が? レオンと?」
驚きに目を見開く。
アイリーンは「ええ」と頷き、
「あの子からデートの話を聞いた時に相談されたの。
女の子と出掛けるうえで、何か心得があったら教えて欲しいって。
それはもう真剣な顔だったわ。
せっかくあなたと出歩くのに不快な思いはさせたくない、どうせなら楽しんでもらいたいって、ちょうど今のあなたみたいにね」
「そうですか、そんなことが……」
「嬉しい?」
「えっ!? あっと、その……はい」
ミリアははにかみながら顔を伏せた。
はしたなく緩みきった頬を両手で隠し、照れくささに身を縮こまらせる。
「ふふ、素直でよろしい。
――よし! そんな可愛らしいミリアちゃんには、私が特別にレオンのあれやこれやを根掘り葉掘り、包み隠さず教えてあげましょう!」
それからのアイリーンはいつにも増して饒舌だった。
まるで恋する乙女のようにうっとりとその美貌を蕩けさせながら、宣言どおりにレオンのあれやこれやを根掘り葉掘り、包み隠さず暴露していく。
それはもう本当に、あれやこれやを、だ。
話し始めこそ本来の趣旨通りに彼の趣味や嗜好を語るのだが、その内に話はそれらにまつわる昔話へと分岐し、起点を見失うほどに脱線した挙句、袋小路にぶち当たるに至ってようやく本筋へと戻る。
基本的にはずっとこの繰り返しだった。
要領の悪い身内話など、本来他人が聞いてそう楽しいものでもあるまい。
けれどミリアはと言えば、話が脇道に逸れるのも構わず、時に熱心に相槌すら打ちながら夢中になって聞き入った。
ミリアにしてもアイリーンにしても、事がレオンに係わる話題であればそれだけで満足だった。
「――あら、もうこんな時間」
ひとしきり語り終えたところでふと柱時計を一瞥し、アイリーンは心底驚いた様子で目を瞠った。
つられてミリアも視線を転じる。
時を刻む二つの針は、じきに正午を回ろうとしていた。
この話題に移る直前に時間を確かめた時には、時刻は十時を回って間もなかったはず。
ということは、かれこれ二時間近くもこの話題一つに費やしたことになる。
「ごめんなさい。ついついはしゃぎ過ぎちゃったわね……」
「いえ、色々と興味深いお話をうかがえてとても楽しかったです」
柔らかく微笑むミリア。
アイリーンは胸に手をやりながら、ほっと顔をほころばせ、
「そう言ってもらえると助かるわ。――そうだミリアちゃん、聖誕祭の日って空いてるかしら?」
「聖誕祭ですか? 申し訳ありません。聖誕祭は前日も当日も学院の行事があって……」
聖アリシアの生徒は、毎年聖誕祭の前当日に近隣の教会や孤児院に手伝いや慰問のため派遣される慣わしになっていた。
「やっぱり駄目か……」
アイリーンはがっかりと肩を落とすと、ふと何事か心づいたような目でミリアを見た。
「そう言えば、ミリアちゃんはどうして神学校に?」
「……生きるためです。以前にもお話ししたとおり、私は孤児ですから」
ミリアはそっと目を伏せ、すっかり冷え切った琥珀色の水面に視線を落とした。
「身寄りのない女が一人で生きていくには聖職者になるのが一番です。
修道院ではなく神学校を選んだのは、同じ聖職者でも将来得られるだろう地位が大きく異なってくるから……。
学費の問題も特待生になれば奨学金で賄えますし、卒業してそのまま聖職につけば奨学金も返さなくて済む。
だから私は神学校の門をくぐったと、そういった次第です。
――ふふ、こんな話、信心深い方が耳にしたらさぞ憤慨することでしょうね」
おのずとにじんだ自嘲の笑みは、ぽんと頭に置かれた柔らかな温もりによってたちどころに四散した。
身を乗り出して伸ばされたアイリーンの手が、ミリアの頭を優しく撫でる。
「そっか……がんばったんだね」
驚きに目を剥くミリアを、慈愛に溢れたアイリーンの碧眼がまっすぐに見据えた。
澄みきったその瞳には、憐れみや同情の曇りは一切見られない。
「ア、アイリーン様! その、やめてください……! 子どもじゃないのですから……」
どぎまぎと恥じらいに頬を染めながら、ミリアは上目遣いに訴えた。
たおやかな繊手から伝わる日だまりのような温もりが、ミリアの心を安らかに解きほぐす。
むず痒いような面映ゆさと、いつまでもこの温もりを甘受していたいという相反する想いが胸の中で密やかに鬩ぎ合い、
「ふふ、ごめんごめん」
けれど複雑に揺れるミリアの内心など知らぬげに、アイリーンはあっさりと手を除け、身を退いた。
「あっ……」
名残惜しむ声が咄嗟にこぼれ、ミリアはますます赤面する。
アイリーンは満悦の様相で腕を組み、しみじみと頷いた。
「でも、そっか。そういうことなら問題無いわね」
「何のことですか?」
わけが分からず、ぽかんとする。
アイリーンは胸の前でぐっと握り拳を固め、
「もちろん、レオンとミリアちゃんの将来のことよ!
もしもミリアちゃんが聖職者になっちゃったら二人は結婚できないじゃない? でも今の話を聞く限り、どうやら杞憂だったようね。だってレオンと一緒になれば玉の輿よ、玉の輿!
生活のことを心配する必要も無いし、奨学金だって結納金代わりにうちがポーンと出してあげ――!」
「――って、ちょっと待ってください! 先ほど恋仲を否定したばかりなのに、どうして話が結婚云々まで飛躍しているのですか!?」
「あら、飛躍だなんてとんでもない。私はあくまで将来の話をしただけよ。これから先、二人がそういう関係になることもあるかもしれないじゃない?」
そう言って屈託なく微笑むアイリーンを前に、ミリアは困り顔で俯いた。
絡めた両手を落ち着かなく動かしながら、しどろもどろに言い募る。
「それはまあ、そうかもしれませんが……で、でも私とレオンが結婚だなんて、やっぱりそんなことあり得ません! そもそも私と彼では身分からして違い過ぎますし」
「…………身分?」
――空気が変わる。
どこか硬く。
どこか不穏に。
けれど狼狽えきったミリアは、すぐにはそのことに気づけなかった
「そうです。ですから――」
「そんなの関係ない!!」
振り下ろされた両手が激しくテーブルを打ち据えた。
並べられたティーセットががちゃりと跳ねる。
出し抜けに叩きつけられた大音声に、ミリアはぎょっと首を竦めた。
弾かれたように顔を上げたミリアの視線が、熾火のごとき炯眼とぶつかる。
「身分が何です! くだらない……! もしもそのような難癖であなたたちを引き裂こうという輩が現れたなら、その時は私が全霊を賭して黙らせましょう……!」
いつもの温和な物腰を一変させ、アイリーンは語気を荒げて気炎を吐く。
鬼気すら感じさせるその形相に気圧されて、ミリアは唖然と息を呑んだ。
狂気の気配が肌を刺す。
突然の彼女の変貌ぶりに、当惑の想いを禁じえない。
「だ・か・ら」
不意に手を握られて、ミリアはびくりと肩をすぼめた。
思わず手元を一瞥したその一瞬の内に、アイリーンの顔には普段どおりの無邪気な笑顔が戻っていた。
「ミリアちゃんはそんなこと全然気にしなくていいの! 大事なのはあなたたちの気持ちなんだから! 大丈夫! 何があろうと、私は二人の味方よ!」
まるで何事も無かったかのようなその変わりように得体の知れない不安をかき立てられながらも――あるいはかき立てられたからこそ――、ミリアは一連の豹変に対する納得のいく解釈を求め、一つの筋道を立てる。
理由は分からない。
けれど、身分の話はきっと彼女の逆鱗に触れるものだったのだろう。
とりあえずはそう結論付け、燻ぶる疑念と背筋に残る薄ら寒さを脇へと退ける。
「――ありがとうございますアイリーン様。ですが、たとえ身分の問題が無くとも私の答えは変わりません。私は彼とは添い遂げられない」
「ええ!? どうして?」
逡巡したのは一瞬だった。
心底驚いた様子で素っ頓狂に声を裏返らせるアイリーンに、ミリアは静かに己が決意を語り出す。
「確かに、私は生きていくために聖職者となる道を選びました。
でも今は違います。すべてを知ったあの日からずっと考えていました。
レオンのために、自分に一体何ができるのか。
地位や権力、財力や人脈……今の私には、およそ力と呼べるようなものは何もありません。だから私は上を目指します。
聖アリシアを首席で卒業し、それを足がかりに教皇庁の中で昇りつめ、彼を支えられるだけの力を手に入れて見せる。
それが、今の私の目標です」
「…………ミリアちゃんはそれでいいの?」
せつなげに眉を寄せるアイリーン。
憂いに濡れた眼差しを毅然と受けとめ、ミリアは晴れやかに胸を張った。
「愚問です。寄り添うだけが愛ではありませんから」
アイリーンはひどく貴いものでも見るような目で、じっとミリアを見つめた。その口元が、ふんわりとほころぶ。
「そっか。それじゃあ仕方ないね。でもこれだけは言わせてちょうだい。あなたはもう、十分にあの子を支えてくれているわ」
「……そう、でしょうか?」
「そうよ」
アイリーンはきっぱりと断言し。
そして、気合いを入れるように己の頬を張ると、意気軒昂に捲し立てた。
「よーし! そういうことなら、なおさら今度のデートは成功させなくちゃね! 私にできることなら何でも協力するわよ! そうだ! ミリアちゃん、デートに着ていく服は大丈夫?」
「それが……お恥ずかしい話、部屋着以外に私服の持ち合わせが無くて……。友人に借りようにも丈が合わず、どうしたものかと途方に暮れていたところです」
「そっか。うーん……」
アイリーンは何かを見定めようとするかのようにミリアを凝視し、
「ごめんなさい。ちょっと後ろを向いて立ってもらえるかしら?」
「? はい」
訝しみつつも素直に従う。
するとアイリーンも席を立ち、ぴたりと背中あわせにミリアに寄り添う。
「うん。背丈と肩幅は大丈夫。胸囲は……その、まあ……うん……べ、別に冬着ならそこまで気にする必要もないんじゃないかしら!」
「な、何ですかその目は!? いいんです! 私はまだまだ伸び盛りなんです! 発展途上なんです! 成長期なんです! ……せ、成長するもん! 成長するんだから!」
ミリアは両手で胸を隠しながらばっと身を翻し、痛ましげに目を背けるアイリーンを涙目で睨みつけた。
アイリーンは場を取りなすように咳払いをし、
「ま、まあ何にせよ、この分なら問題は無さそうね。私の服を貸してあげる。どれでも好きなものを持っていくといいわ」
「……よろしいのですか?」
「ええ。屋敷に籠ってばかりの私が着ていても宝の持ち腐れだもの。それにこんなおばさんに着られるよりも、若くて可愛い子に着てもらったほうが服たちも喜ぶというものよ」
冗談っぽく微笑む彼女に、ミリアつつしんで謝意を告げる。
「ではお言葉に甘えて、ありがたく拝借させていただきます」
「いいのいいの。ふふ、じゃあお昼を食べたら早速試着会ね」
柔らかな声音。
淑やかな笑顔。
なのになぜだろう?
にこにことはしゃぐアイリーンの姿に、獲物を前に舌舐めずりをする肉食獣のそれを見た気がして、ミリアは思わずたじろいだ。
「ア、アイリーン様?」
「大丈夫」
甘やかな猫撫で声が耳朶をくすぐり、その貞淑な美貌がうっとりと艶めかしく蕩ける。
同性のミリアをしてどぎまぎと胸をかき乱されるほどの蠱惑的な媚態を前にして、不吉な予感が確信へと昇りつめる。
ミリアは思わず後退りかけ――逃さじとばかりに跳ね上がったアイリーンの腕が、その肩をがしりと掴む。
「ひゃっ――!?」と身を竦めるミリアの耳元に艶やかな唇を寄せ、アイリーンは甘く熱の籠った吐息をそっと吐きかけた。
「――優しく・す・る・か・ら」




