3章―6
軽やかに蹄を鳴らしながら、レオンハルトを乗せた馬車は門の外へと走り去っていく。
その様子を一人自室の窓から見下ろして、ラインハルトはそっとカーテンを閉ざした。
「怒りの日、彼の日世界は滅び去る……。
刻々と強まる瘴気の毒。増加の一途をたどる磔刑者の出現率。そして霊園における先刻の一幕。
メシアの死から千年、やはり今年が節目ですか……」
執務机に置かれた燭台の輝きだけが、室内をぼんやりと照らしていた。
薄暗い部屋の中をおもむろにそぞろ歩くラインハルトの面差しは、深刻な憂慮に沈んでいる。
「ですが、いかなメシアの予言と言えどかような戯言を成就させるわけには参りません。それゆえの教皇庁、それゆえの聖都なのですから……。――などと、我ながら白々しい話ですね」
さもあらん。
この期におよんで教皇庁にできることなど、一体何が残っているというのだ。
どれだけ勇ましく息巻いたところで、結局はレオンにすべてを委ねるしかないというのに。
自嘲。
無念。
憐憫。
苦渋。
罪悪感。
――ガシャン!
「!」
甲高い破砕音が壁越しに耳を突き、ラインハルトははっと我に返った。
散々に聞き飽きた音だけに、出所はすぐに知れた。
隣室――彼女の部屋からだ。
ラインハルトはたちどころに血相を変え、慌てて自室を飛び出した。
それはこの十八年、毎日のように繰り返されてきたこの屋敷の日常。
はたしてラインハルトが隣室へと駆けつけた時、そこには予想通りの惨憺たる景色が広がっていた。
薙ぎ倒された椅子とテーブル。
引き千切られた絹のカーテン。
鏡台の鏡は蜘蛛の巣状に罅割れて、今この瞬間にもパラパラと破片が剥がれ落ちていく。
床の上にはティーセットがでたらめに散乱し、ぶちまけられたその中身が深紅の絨毯をぐっしょりと汚していた。
酷い有様だ。
しかし、ラインハルトは部屋そのものの惨状にはろくに目もくれない。
「――――――――」
言語を絶する叫び声が、室内の空気を切り裂いた。
獰猛な怒号と唸り声。
長い髪を振り乱し、理性の失せた瞳を血走らせながら暴れ狂う彼女の姿は、さながら人の皮をかぶった一匹の獣だった。
それを一丸となって取り押さえているのは、目付け役として彼女の傍に侍らせておいた者たちだ。
だが三人がかりでの懸命の拘束もまるで用を為していない。
胸の痛みを押し殺し、ラインハルトも即座に加勢に入る。
「おやめください!」
背後へと回り込み、羽交い締めにして押さえ込む。
抵抗が激しさを増した。
振りまわされる四肢や頭が強かにラインハルトを打擲し、爪が鋭く肌を裂く。
必死の叫びも届かない。
華奢な体躯からは想像もできない凄まじい怪力。
加速度的に増えていく打撲や生傷よりも、まるで悪魔にでも憑かれたような彼女の狂態こそが、何よりもラインハルトの痛覚を抉った。
「お願いです、おやめください……! ――――母上!」
「――――」
抱きすくめたその身体から、出し抜けに力が抜けた。
ラインハルトは乱れた息を整えながら、油断なく彼女の動静を注視する。
ゆっくりとこちらを振り返ったアイリーンの形相からは、先刻までの獣性は跡形も無く抜け落ちていた。
まじまじと向けられる碧眼には、微かに理性の輝きが戻っている。
「……レオン?」
不思議そうに小首を傾げるアイリーンの態度が、次の瞬間、一転した。
大粒の碧眼がすぅっと細まり、その眼光からあらゆる感情が削げ落ちた。
「――違う。誰?」
「――――っ……!」
一切の温度を感じさせない誰何の言葉。
路傍の石でも眺めるような無感動な視線。
それらはどんな悪罵嘲弄よりもなお痛烈に、ラインハルトの胸をつんざいた。
腕にかかる重みが増す。
糸が切れたように脱力し、それきり気を失ったアイリーンを家人たちに任せ、ラインハルトはよろよろと逃げるように自室へと戻った。
力無く壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込む。
「――私では駄目なのですか……!?」
血を吐くような嘆声は、誰にも届くことなく夜闇に溶けた。




