3章―2
「母上!」
駆けつけたラインハルトの面差しは、常ならぬ緊迫の気配に強張っていた。
ラインハルトだけではない。
遅れて馳せ参じたレオンも同様の空気をまとっている。
「レオン!」
レオンの姿を認めるや、アイリーンは腕の中の猫を放り出し、脇目も振らずに彼に飛びついた。
「ぶみゃー!」と悲鳴を上げて宙を舞うダビデの身体をミリアは慌てて受けとめる。
はしゃぎ浮かれるアイリーンを危うげなく抱きとめるレオンの装いは、昨日今日と見たようなみすぼらしい襤褸ではなく、仕立ての良い燕尾服に磨き抜かれた黒の革靴という、貴公子然としたものだった。
肌にこびりついていた土汚れもすっかりと洗いおとされ、ぼさぼさだった頭髪は適度に切り整えられたうえで、丹念に梳かされていた。
けれど、何よりもミリアの目を引いたのは、その喉元に広がる痛々しい古傷だった。
取り払われたマフラーの下に隠されていたその傷痕は、具合からして相当昔のものだろう。
まるで刃物で串刺しにでもされたかのような凄惨な様相を晒している。
喉だけではない。
袖元から微かに覗いた両手首にも、同じような傷痕が見てとれた。
「……御無沙汰しております母上。お元気そうで何よりです」
レオンは険しかった表情を柔らかく氷解させた。
「逢いたかったわレオン! 少し見ない間にこんなに大きくなって……!」
感極まった様子でレオンの頬に両手を添え、まじまじとその顔を見つめるアイリーン。
「……何を大げさな。前にお逢いしたのはほんの一月前ではありませんか?」
「いいえ、一月も前よ。それにあなたくらいの年頃の男の子は、たった一月でずいぶん様変わりするものなんだから。身長、また伸びたんじゃない?」
「……そういう母上は変わりませんね。いつまでも若々しく美しい。ですが、どうかお転婆もほどほどにしてください。突然いなくなったと聞いて俺も兄上も肝を冷やしたのですから」
「あら。それはだって、いつまで経ってもレオンが顔を見せないのが悪いのよ」
悪びれた様子もなくしれっと言い放つアイリーンに、レオンは苦笑を濃くし、
「……申し訳ありません、少々仕度に手まどったもので。久方ぶりに母上に逢うのです。みっともない恰好をお見せするわけには参りませんから」
「もう、そんなことを気にしなくてもいいのよ。私はあなたの元気な顔さえ見られればそれでいいのだから」
そうして、ふんわりと微笑みを交わし合う。
仲睦まじく語らいあいながら、レオンは終始安らかな表情を浮かべていた。
死魚を思わせる虚ろな瞳に陽性の輝きが灯るのを、ミリアは初めて目の当たりにした。
こんな顔もできるのかと、驚き、戸惑い、そして安堵する。
わきあいあいとした親子の団欒を前にして、ミリアはその眩しさに目を細めた。
それは、ミリア自身が永遠に失ってしまったものでもあったから。
「……ところで母上。その……そろそろ離れてもらえますか? 今日は人目もありますし……」
ちらちらと気恥ずかしげにミリアをうかがいながら、レオン。
「あら、いいじゃない? 久しぶりの親子の再会なのよ? 人目ぐらい何だと言うのです? ……それともレオン、お母さんのこと嫌い?」
「……いえ、そのようなことは決して」
潤んだ瞳で見上げられ、さしものレオンも対応に窮した様子で困り顔を浮かべている。
「ふふ、冗談よ」
アイリーンは悪戯っぽく笑うとそっとレオンから身を離し、
「それより水くさいじゃないレオン! お友達が出来たのならどうして話してくれないの?」
両手を腰の後ろに回すと、ワンピースの裾を優雅に翻して、くるりとこちらを振り返る。
「……別に隠していたわけではありません。何分、彼女と再会したのは昨夜のことでしたから。ちょうど今日話そうと思っていたところです」
「あら、そうなの」
と、あっさりと納得する。
「……さあ母上。そろそろ部屋に戻りましょう。最近はすっかり夜も冷えてきましたし、こんなところにいつまでもいてはお身体に障ります」
「そうね。あ、そうだ! ミリアちゃんもこれから私の部屋に来ない?」
「アイリーン様のお部屋に、ですか?」
突然の申し出に、ミリアは軽く目を瞠る。
「そう! レオンとのこととか、ミリアちゃん自身のこととか色々聞きたいし! ねっ?」
熱烈な眼差しで懇願され、ミリアはつかの間逡巡した。
暇を持て余していたミリアとしては、渡り船の話ではある。
だが、
「申し訳ありません。せっかくのお誘いですが、今宵は遠慮させていただきます」
「ええー、どうして?」
心底残念そうに頬を膨らませるアイリーンを、すかさずレオンがたしなめる。
「……そこまでです母上。
あまり我儘を言って彼女を困らせるものではありません。
もうだいぶ夜も更けています。隠棲されておられる母上と違って、学生たる彼女は何かと忙しく疲れも溜まっていることでしょう。
ゆえ、彼女との歓談はまたの機会に。
この場はどうかお聞き分けください」
「……そっか。それじゃあ仕方ないわね」
理路整然と諭され、がっかりと肩を落とすアイリーン。
が、すぐに気を取り直した様子で、
「あっ! だったら明日は? 朝昼晩、ミリアちゃんの都合の良い時で構わないわ。一緒にお茶か食事でもどうかしら?」
「そういうことでしたら喜んで」
期待に目を輝かせるアイリーンに、ミリアは快諾の意を示した。
「本当!? 約束よ!」
欣喜雀躍するアイリーンの傍らで、レオンは目だけでこちらに謝意を告げ、
「……それでは行きましょう、母上」
「うん。じゃあね、ミリアちゃん! お休み!」
アイリーンは踵を返しながら元気いっぱいに手を振ると、しな垂れかかるように、隣を行くレオンの腕に抱きついた。
レオンは恥ずかしそうに身動ぎしながらも邪見に払いのけるようなことはせず、アイリーンの為すがままに任せている。
「仲がよろしいのですね」
去りゆく背中を見送りながら、ミリアは微笑ましい気持ちで呟きを漏らし、
「ええ、母は弟を溺愛していますから」
ひどく寂しげなその声に、思わず傍らの青年を振り返る。
「おや? どうしましたシスター・ミリア? 私の顔に何かついていますか?」
だが、そこにあるのはいつもどおりの柔和な笑顔。
投じられたその声音も、常と変わらぬ温かみに満ちたものだった。
「……いえ、何でもありません」
聞き間違い?
気のせい?
それとも――
「ところでその……つかぬことをおうかがいしますが、母は何かあなたに粗相を働いたりはしていないでしょうか?」
いやに歯切れの悪い物言いに、ミリアは二重の意味で首を傾げる。
「いえ、別にそのようなことはありませんが……」
腕の中で精根尽き果てているダビデをちらりと見下ろしながら、ミリア。
「ああ、失礼。なら良いのです」
ラインハルトは、まるで藪蛇を突いてしまったとばかりに慌てた様子でこの話を締めくくった。ミリアは不審に思いつつも深くは追求せず、
「そう言えば、シスター・ミリアはなぜこちらへ?」
訊ねる物腰に非難の色はうかがえない。
純粋に不思議がっているだけのようだった。
ミリアは簡潔に事の経緯を説明した。
「――そうでしたか。まあ、あれだけ騒いでいれば気にするなというほうが無理な話でしょうね。申し訳ありません、こんな夜分に……」
「お気になさらないでください。どのみち今夜はもう寝つけそうにありませんでしたから」
「そう言っていただけると助かります。しかし、そういうことでしたらこれからお時間をいただけますか? 察するに、あなたもそれを期待して母の申し出を断ったのでしょう?」
その通りだった。
ミリアは神妙な面持ちで頷く。
「結構。では、場所を変えましょう」




