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第3章―1

第三章 メシア教



 聖都北部に広がる閑静かんせいな高級住宅地。

 その一角にそびえる一際大きな邸宅の一室に、ミリア・エーレンブルクの姿はあった。


 暖色で統一された内装に落ち着いた色合いの家具。

 あてがわれた客間は、一人で使うには持て余すほどに広々としている。

 花や観葉植物をはじめ絵画や彫刻など、室内を飾る調度の数々は、どれもこれもが素人目にも上質とわかるような代物ばかりだった。

 それでいて不思議とけばけばしい印象を受けないのは、ひとえに調度品一つ一つの趣味の良さとその組み合わせの妙なるがゆえにだろう。


 場違いにも程がある。

 自分のような庶民がなぜこんな場所に……。


 天蓋てんがいつきの寝台(ベッド)(ふち)に所在無く腰掛けながら、ミリアはぼんやりと途方に暮れていた。


 あの後。

 ラインハルトに促されるままレオンともども霊園の外に停められていた馬車に乗り込んだミリアは、ろくな説明も無いままこの屋敷へと連れてこられた。


 否――厳密には説明を受けられないまま、と言うべきか。


『――詳しい話は道すがら』


 そう言いくるめられ馬車に乗せられたミリアだったが、おそらくはそこで緊張の糸が切れてしまったのだろう。


 座席に腰を下ろすやせきを切って込み上げた疲労に心身を呑み込まれ、そのまま深い眠りへと落ちてしまったミリアは、結局馬車が屋敷の玄関に横付けされるまで目を覚ますことはなかった。


 馬車から降りた後も、寝ぼけ眼にいきなり飛び込んできた豪邸(やしき)の威容にすっかり度肝を抜かれているうちに二人とは別の部屋に通されてしまい……そして今に至ると、そういった次第である。


 ラインハルトやレオンに対する家人たちの態度からするに、ここが二人の実家であることは間違いあるまい。


 現状、分かっていることと言えばそれだけだ。


(それにしても、まさか二人が兄弟だったなんて……)


 柱時計に目を向ける。

 時を刻む二つの針は、間も無く深夜の二時を指し示そうとしていた。

 この部屋に通されて、まだ一時間と経っていない。


 その間、ミリアは何をするでもなくただ漫然と呆けていた。


 レオンのこと。

 悪魔のこと。

 ラインハルトのこと。


 考えるべきことは山ほどあったが、消耗しきっているせいでうまく思考がまとまらない。


 それ以前に、己に降りかかったあまりに非常識な現実を、ミリアは未だに受けとめきれずにいた。


 心はざわざわとさざ波立ち、とても思索にふけられる状態ではなかった。


 一晩ぐっすり休めば心も頭も多少は落ち着きを取り戻すだろう。

 だが中途半端に馬車で寝入ってしまったせいで、今やすっかり目も冴えてしまっている。


 第一、骨の髄まで貧乏性の染みついているミリアにとってこの場は魔窟そのものだ。くつろぐなど土台無理な話だった。


 思惟しいを巡らせようにも頭が働かない。

 疲れてはいるけど眠れない。

 まさに生殺しのような状態である。


『――今日はもう遅い。詳しい話はまた明日。今宵はゆっくり休んでください』


 という別れ際のラインハルトの言からして、今晩中に彼やレオンがミリアを訪ねてくることもないだろう。


 とどのつまりが暇だった。


 唯一できることと言えば、膝の上で丸くなっている黒猫(ダビデ)の背中を撫でさするぐらいだったが、それもいい加減飽きてきた。


 悪魔の凶手からミリアを守ろうと奮戦した小さな英雄は、今はすやすやと眠っている。

 幸い目立った怪我もなく、何かしら不調を訴える様子もない。


「ん?」


 その時、ふと壁越しに慌ただしい気配が伝わってきた。


 屋敷の中が騒がしい。

 どことなく不穏な空気に刺激されてか、ダビデもぱちりと目を覚ます。


(……何事でしょうか?)


 ミリアはダビデを抱きかかえて立ち上がった。


「……お願いですから大人しくしていてください。流石にここでやんちゃをするのは洒落になりませんから」


 腕の中でじたばたと身をくねらせる黒猫に強い口調で言い聞かせながら、扉を開け、廊下に顔を覗かせる。


「あの、すいません! 何かあったのですか?」


 ミリアは、ちょうど目の前を通り過ぎようとしていた女中に恐る恐る声をかけた。


「――これはミリア様。夜分遅くにお騒がせして申し訳ありません」

「いえ、お構いなく。もともと起きていましたから」


 妙齢の女中に粛然と頭を下げられ、あたふたと恐縮するミリア。


「あの、それで一体何が……?」

「……申し訳ございません。この件につきましては私の一存ではお答えしかねます。何とぞ御容赦ください」


 丁寧な物腰とは裏腹に、告げる声音は凛然と揺るぎない。

 ミリアとて別段そこまで興味があったわけではない。


 いぶかりつつもあっさりと引き下がり、


「そう、ですか……。分かりました。お忙しい中お呼びとめして申し訳ありません」


 女中は折り目正しく一礼すると、足早にその場をあとにした。


 立ち去る背中を見送りながら、それとなく五感を研ぎ澄ます。


 こうして部屋から出てみると、屋敷を包む切迫した雰囲気が一層身に迫って感じられた。


 漏れ聞こえてくる声から察するに、どうも誰かを探しているようだ。

 まさか賊でも入ったのだろうか? 

 いや、そういうことであれば流石にミリアにも事情を話して注意を促すはずだ。


(念のため、しっかりと施錠だけはしておきましょう)


 そう結論づけ、扉を閉めようとしたその時。


「にゃあ!」

「あっ!」


 ミリアの腕からするりと抜け出したダビデは、まっしぐらに廊下の向こうへと走り去っていった。


「あなたという猫はまた――!」


 ミリアは血相を変えて部屋を飛び出した。

 徘徊はいかいするだけで済めばいいが、まかり間違って屋敷の物を壊すようなことがあれば目も当てられない。


 我が物顔で悠然と闊歩かっぽする黒猫の背中を、冷や汗混じりに追いかける。

 黒猫の足どりはゆるやかだ。

 全力で走ればすぐにでも追いつけるだろう。

 だが他人(ひと)様の家の中で不作法な振る舞いをするわけにもいかず、ミリアはやきもきしながらも早足での追跡を余儀なくされた。


 時折すれ違う家人たちが、何事かと客人(ミリア)を振り返る。

 中には気を利かせて事情を訊ねてくる者もいたが、いちいち相手にしていたのでは途端にダビデを見失ってしまう。


 心の中でひたすら非礼を詫びながら、言葉を濁して彼らをやり過ごし、前を行く小さな背中に懸命に食らいつく。


 依然距離は開いたまま。

 このままでは埒が明かない。


 ――かに思われたその矢先、天はミリアに味方した。


 行き止まりへと突き当たる。


「ほらダビデ。帰りますよ」


 下手に刺激しないよう――そして足元をすり抜けられないよう――ゆっくりと歩み寄りながら、文字通り猫撫で声で呼びかける。


 ひとしきり走り回ってダビデも満足したのだろう。

 ミリアが近づいても特に反抗の素振りを見せない。


「――やれやれ」


 ほっと安堵しながら、ミリアは黒猫を抱き上げようとおもむろに身を屈め、



「――――こ」



「!?」


 鈴を転がすような澄んだ声音が耳朶じだを撫で、怖気を誘う異様な気配が背後で爆発的に膨れ上がった。


 はっと顔を上げるミリア。


 夜闇によって半ば鏡面と化した突き当たりの窓硝子(がらす)に、女性とおぼしき虚像(すがた)がぼんやりと浮かぶ。


 虚像(きょぞう)が動いた。

 猛然とこちらに突っ込んでくる。

 賊という言葉が脳裏を過り、背筋が冷たく凍りついた。


 ぎょっと目を剥き、立ち上がりざまに振り返――駄目だ。

 間にあわな――



「ネコ――――――っ!」



「……えっ?」


 女性はミリアの横をすり抜けると、頭から黒猫へと飛びかかった。

 勢い余ってごろごろと床の上を転がりながらも、腕の中の猫はしっかりと抱きかかえて離さない。


 壁にぶつかる寸前でようやく止まる。


「ネコ――――っ! ネコネコネコ―――――!」


 そして、甲高い奇声をほとばしらせながら腕の中の黒猫にしこたま頬擦りを見舞う。


 ダビデは突然の襲撃者に対し、「ぶみゃ! ぶみゃ――――っ!」と猫パンチを連打して徹底抗戦の構えを見せるが、その様子(さま)(かえ)って女性の琴線(きんせん)を刺激したらしく、度を越えた彼女の愛情表現はますます激しさを増していく。


「猫たんハァハァ……!」


 どこか既視感を誘われる光景を目の前にしながら、ミリアはぽかんと呆気にとられた。


 事態の急転に思考が追いつくまで数秒の時間を要し、


「あ、あの……」


 やっとの思いで、声をかける。


「ふにゃ?」


 女性は床にぺたりと座りこんだまま、首を傾げてミリアを見上げた。


 年の頃は二十代後半といったところか。

 ふわふわと腰まで波打つ金髪(ブロンド)に、青玉(サファイア)を溶かしたような美しい碧眼。

 鼻梁は高く、(ルージュ)の引かれた唇はしっとりと瑞々しい。

 穏やかに垂れた目尻が、黄金律とも言える端麗な顔立ちに愛嬌を添える。


 白いワンピースに紺のカーディガン。

 首から下げた十字架(ロザリオ)を除いては、装飾品の類は見られない。

 もっとも、美の女神像を彷彿ほうふつとさせるその麗貌の前では、これ以上の飾り気はむしろ無粋でしかあるまい。

 

 小柄で華奢な身体つき。

 そして処女雪を思わせる白い柔肌が儚げな印象を醸しながらも、その物腰には慈母を思わせる母性の温もりと少女のような人懐っこい稚気とが同居し、どこか浮世離れした美しさと愛らしさを形成していた。


 明らかに女中ではない。

 この家の令嬢か、あるいは客人のどちらかか。


 いずれにせよ、高貴な血筋の女性であることだけは疑いようが無かった。


「あら、こんばんは。どちらさまかしら?」


 日だまりのような笑顔が、ミリアの心をふんわりと優しく抱きしめる。

 類稀なる彼女の美貌にうっとりと見惚れていたミリアは、そこでようやく我に返った。


「あの、私はミリア! ミリア・エーレンブルクと申します! 今宵はレオンと共にラインハルト猊下(げいか)に連れられ参りま――!」

「レオン!」


 みなまで言わせず、女性は弾かれたように立ち上がった。

 キラキラと瞳を輝かせながら、ずいっとミリアに顔を寄せる。


「貴女、もしかしてレオンのお友達?」

「は、はい」


 思わずたじろぐミリアをよそに、女性は満面に喜色を広げた。


「あらあらまあまあ! お友達! レオンにお友達! それもガールフレンドだなんて! ああ、どうしましょう! レオンったら、お友達を連れてくるのならどうして先に言ってくれないのかしら? そしたらとびきり美味しいお茶とお菓子を用意させたのに!」

「どうぞお気づかいなく。その……つかぬことをお伺いしますが、もしかしてレオンの姉君であられますか?」


 単なる当てずっぽうというわけではない。

 アイリーンの顔立ちには、レオンとも、ラインハルトとも通じるものがあった。


「あら、そう見える? だとしたら、ふふ、私もまだまだ捨てたものではありませんね」


 女性は花のように微笑むと、あらたまった様子でミリアを見つめ、



「はじめましてミリアちゃん。私はアイリーン。レオンの母です」




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