序章
序章
血のように赤黒く垂れこめた空の下。
十字の刑具に磔られた痩身を槍の穂先が貫いた時、男は深く絶望した。
――この世界に神などいないと。
「おお、神よ……! これが……! これがあなたの答えか!? あなたの忠実な僕として、今日まであなたにつかえた私への――! 我欲を滅しこの身を捧げた私への――! 教えに殉じ、あなたの愛を信じた私への――! これが報いだとでも言うのか!?」
槍が抜かれる。
鮮血がほとばしる。
熱くねばついた塊が喉をせりあがるのにも構わず、男は天に唾するがごとく空を仰ぎ、血走った目で神への怨嗟を吐き散らす。
飛沫く血に酔いしれて、昏く熱を帯びた狂騒が一層激しく処刑場をのみこんだ。日頃は立ち寄る者無き荒涼たるその丘には、男の最後を見届けるべく夥しい数の群衆がひしめいていた。
彼らは拳を振りあげ声を荒げながら、口々に男をなじり、ののしる。
そこには、かつて彼を救世主と崇めた者がいた。
彼の奇跡にすがった者がいた。
彼の慈悲にぬかづいた者がいた。
老いも若きも男も女も、貴き者も賤しき者も、彼を崇め敬い奉ったその口で、彼への呪いを叫んでいた。
厚顔無恥もはなはだしい。無知蒙昧とはこのことか。
信仰の本質を忘れた不心得者ども。
一度は彼の奇跡に浴しながら、それが万能でないと知るや掌を返し、挙句、支配者たちにいいように焚きつけられた暗愚の輩。
「いいだろう……! ならばそれらしく呪ってやろう、奇跡に固執し、救済のみを求め、信仰を見失った愚か者ども……! 奇跡をおこせぬは神にあらず、全能あらざれば神にあらずと言うのなら、我が全霊を賭して汝らあまねく言祝ごう!」
臓腑を抉られ、喉を裂かれ、血反吐を撒き散らしながら、それでも男の呪詛はとまらない。
傷はとうに致命の域に達していた。
死してしかるべき傷を負いながらなお激しく鬼気を燃やす男の狂態に、いつしか群衆は息をのんで立ち竦んだ。
男の口から神託がくだされる。
それは、地獄の釜で煮つめたがごとき極大の呪。
「契約の民に呪いあれ! 約束の地に災いあれ! 我は赦さぬ! 永劫赦さぬ! 呪われろ呪われろ呪われろ! 子々孫々、久遠の果てに至るまで、狂い泣き叫び命乞え! 刮目するがいい背徳者ども! 奇跡の御業、しかと賜れ! これが――! これこそが貴様らにたむける最後の奇跡だ! くくく、あははははははははははははははははははは――!」
哄笑が天を裂く。
ほうぼうで悲鳴が上がる。
脇腹をつんざく槍の一突きが、轟く狂笑を断ち切った。
処刑人たる青年は、恐怖に背中を押されるままに渾身の力を切っ先に込める。狂気にぎらつく男の双眸から、見る見る命の灯が抜け落ちる。
「神よ……! 汝の子らに滅びあれ……!」
悪夢じみた毒々しい夕映えが、凄絶極まる男の死に顔をしとどに濡らす。
それが、救世主と呼ばれた男のあまりに無残な最後だった。
赤く渇いた名も無き丘の上。
一人の男の短く儚い生涯に、その日幕が下ろされた。
たった一つの神罰を残して。




