美術室・一
肌寒いが天気は良好な週末、高等部は文化祭を迎えた。二日間の開催で、模擬店や各種クラブ活動においてのイベントもある。校舎のどこもかしこも遅くまで明かりがついており、本番当日まで喧騒にのまれながらも生徒たちのはりきりようは見てとれた。
初日。音楽室ではミニ・コンサートが行われた。柳が客席で見守るなか、村田が友人の伴奏に合わせてナポリ民謡やオペラ・アリアを歌った。出番を終えた二人は、そのまま客としてほかの出演メンバーの披露する楽曲を脇で聴いていたが、無事に午前の演目が終了した瞬間、村田だけが一目散に音楽室から出て行った。
柳は友人と合流した。友人によると、村田は調理部の販売するクッキーを購入しに行ったらしい。そのあとは女友達と一緒にまわるという。柳と友人は今から他クラスに寄り道しつつ昼食の調達をして、ゆっくりごはんにありつこうとしていた。
客引きに押し売りされながらどこかあいている教室をめざし、食べ物をみつくろっていく。二人が持っているトレーからはソースの香ばしいにおいがしていた。空腹感を刺激されるころには中庭へとたどりついた。近くの棟では美術部の展示が行われており、にぎやかさはないものの、人がまばらに入っていた。
「もう食いたい。ここらへんのベンチでいいんじゃない?」
柳の提案に友人も頷いた。ベンチは中庭の奥のほうまでいくつか等間隔で設置されている。ちょうど一階の美術室の窓の前に位置するベンチを陣取った二人は、模擬店で買ったものを置いた。
「そうそう、これ、あやちゃんから差し入れ」
柳が言いながらビニールの袋を手前に出した。中身をのぞきこんだ友人が「おにぎりやん」と言う。ちょうど二個、ごろんとラップで包まれているそれはかなり大きく、そしていびつな三角形だった。
柳はコンサートをみにきたときから持っていた。朝に遠野と会っていたのだろう。それにしても教師から生徒への差し入れで手作り、しかも不慣れな感のただよう白い飯の雑すぎるかたまりとは。友人はじっとそれに視線を落とした。
そこへ、柳が話を続ける。
「あやちゃんがねぇ、内緒よってくれた」
「ばらしとるやん」
柳は笑いながら、友人におにぎりをひとつ渡した。
「なんかすっごい高価な炊飯器を買ったんだって。高い米を買い続けるより、安い米でうまく炊けるならそれがいいって言ってた」
「高い炊飯器に高い米が一番ちゃうの」
友人のもっともな意見を聞いて、柳はおにぎりのラップを開ける。
「まあまあ。で、あやちゃんが試作品くれたので、食べたら感想ください」
「ん。いただきます」
友人はそう言っておにぎりを口に運んだ。柳も食べてみる。二人は顔を見合わせ、やがて友人のほうが先に感想を述べた。
「白米や……ただの白米や」
まさしくそのとおりだというように、柳も頷いた。
「きっと純粋に機能を見るために塩なしなんだ。素材の味を生かしきってるね……いーやもう、そう言っておこ」
海苔も具もなく塩気もないおにぎりは、ただの冷えきった米の集合体だった。しかしながら模擬店で買ってきたものは味の濃いものばかりだから、ちょうどよいかもしれない。二人はそう思いながら、先ほど買ったものに手を伸ばそうとした。そのとき後ろの美術室の窓が開いて、声があがった。
「ああ、たこ焼き! 焼きそば! フランクフルト! ポップコーン!」
二人が振り向くと、窓から這いださんとする姿勢の村田が嬉々とした表情を浮かべていた。
「先ほどぶり。てっしー、おつかれさま、私に恵んで! 柳くん、聴きにきてくれてありがとう。私クッキーあるんだけど、よければ何か交換しない?」
「その態度の違いはなんや」
友人はあきれつつも、サッシから身を乗りだす村田の口にたこ焼きを放りこんでいた。甲斐甲斐しいうえに、すばやい行動だ。柳が何もしないうちに、友人は買ってきたものをあれこれと村田に渡し、食わせている。村田も村田で、まかれたエサを求めて水面にむらがる魚のようだった。ただ魚よりも表情が豊かなので、友人にとっては手ごたえが得られるのだろう。友人も村田も楽しそうだった。
すべての種類をちょっとずつ食べ終えた彼女は、調理部販売のクッキーを一袋、差しだしてきた。
「まとめ買いしたの。いっぱいあるから、あげる」
友人が窓ごしにクッキーを受けとったとき、村田のさらに背後から男の声がかかった。
「きみ、飲食禁止の紙を見なかった? ここは食事していい場所ではない」
美術教師の鈴本だった。校内では若い部類に入り、遠野よりいくつか先輩の教師だ。柔和な面立ちのせいでいまいち注意しても生徒には効果なく、「優しい先生」とされつつも軽んじられている面もあった。
村田は頭を下げる。「すみません、もうしません。上半身は窓の外に出ているので許してください。先生もクッキーいかがですか?」
身を乗りだしていたからといって、はたして村田が室外で食事をしたことになるのか。彼女の言い分はへりくつである。そして後半部分のお誘いは余計でもあった。
鈴本が口を結んだまま近寄ってくる。村田は愛想笑いを浮かべてクッキーの袋を差しだした。またしても余計なことをした。三人そろってお叱りの言葉を受けた。
「はあー、ついてないな。友達はアウトだし、先生には怒られるし」村田がぼやいた。
彼女は、午後から一緒にまわる女友達と、このベンチの近くで待ち合わせをしていたという。村田がクッキーを買ってようやくここにきたとき、友達は他校の男子生徒と二人きりだった。村田はさとった。そして不自然なまでに用事を思いだしたと言って抜けてきたらしい。そうして、とっさに入った校舎で空腹感にさいなまれながら廊下を歩いていたら、開け放った美術室の窓の向こうに見慣れた姿があったので、声をかけたという。
「というわけで一人になりました。なので、私もまぜてね」
村田は話をしながら、三人となったベンチで彼らの買ってきた昼食をもらう。
グラウンドや正門から近い校舎は活気もあるが、中庭のほうはあまり外部の人間を見かけなかった。今日と明日は、地域の家族連れも多いが他校の男女も増える。学校側では近隣住民、それに在校生の家族や親しい人などに限るよう入場制限をしていた。しかし文化祭目前になると、在校生の申告においてやたら同年代の親戚が増えるから、あまり意味はない。
「村田さんはええの? せっかくの機会やのに」
友人の声に、村田はため息をこぼす。彼の言わんとしているところを理解して、村田は少しばかり不満げに答えた。
「てっしーは、ひどい野郎だ」
「まったくだ」
目を細めて同意した柳に、村田は何種類かのクッキーを数枚ずつふるまった。友人には、一種類だけをわけてやる。
三人で食べていると、村田が……そういえば、と口を開いた。
「ねえ、二人は肖像画と会話してたけど、美術室のあの顔だけの……なんだっけ、ええと、石膏像とはできるの?」
彼女の質問に、柳が先に返した。
「うーん、そうだなぁ、話し声を聞いたことはあるよ。こっちから割って入るつもりなかったから何も聞こえないふりしたけど。ちょうど、どれだけ聞こえるのか半信半疑で試してた時期だったかな」
「ほんなら僕もできるやろか」
友人が口を開くと、村田は期待をこめた口調で言う。
「てっしーも試したら意外といけるかもしれないね」
「食べたら美術室に行ってみる?」
柳が誘うと、勅使河原ではなく村田が大きな声で「うん」と頷いた。それを見ていた友人がぽつりとこぼした。
「行くのはええねんけどな、このまえぐらいからちょっと気になっとることがあるんや。なんで僕まで聞こえるようになったんかっていうのもそうやけど、ま、それはおいといて。問題はな、聞こえるんやったら、あれらはなんなんやろっていうのやねん」
「うん?」柳が聞き返した。
村田も目をぱちくりとさせ、友人の話に耳をすませた。
「模型はええとして、音楽室の肖像画や。柳くんみたいに学校限定でな、そこの肖像画だけで聞こえるとしても、あんなん世界中にようけあるやん? もしよその学校行って、声が聞こえたんやったら、何百何千の同一の作曲家がそれぞれの肖像画に宿っとることにならん?」
模型については、それぞれ個別でとらえればよいのかもしれないが、実在した作曲家の肖像画はそうはいかない。
三人とも無言になって考えこんでいたが、しばらくして柳が重そうに口を開く。
「Aという作曲家の肖像画に、Aの魂が宿るわけではなかったら?」
「憑依みたいなもんか」言った瞬間、友人は肩を震わせた。「なんや、あかんわ、この話」
神妙な顔をして黙っていた村田が、なぐさめるように友人の口もとへむんずとクッキーを押しつけた。
昼ごはんを食べ終えて、三人は美術室を訪れた。文化祭のために作品を展示する教室は美術室・一が使われており、その隣の二は村田が顔だけ出して食事をした部屋、そしてそのさらに横が目的の場所、石膏像が置かれているデッサン室であった。名前のとおりデッサンがしやすいよう机も少なく、椅子が隅に重ねて立ててある。ほかにはスチール製の書棚も置いてあり、イーゼルやスケッチブックもあった。
「おじゃまします」先頭で入った村田があいさつをした。
中は無人だった。けれど聞こえた。中年女性の声で、はいはいどうぞー、いらっしゃーい……と。
「おかんがおる」友人が呆然とつぶやいた。
どうやら彼も石膏像の声を聞くことができたようだ。村田は明るい表情で「よかったね!」と言い、はじっこにある石膏像の頭をなでくりまわした。すると今度は若い男の声がする。
――や、やめてけろ。
柳と友人は顔を見合わせた。
「いやがってるよ」
柳が村田に言うと、石膏像たちが騒ぎだした。通訳きた、だのなんだのと声が大きくなる。
模型も肖像画も個性的だったが、ここの石膏像はおしゃべり好きらしく、最初に出迎えの声をかけてくれた女性の石膏像はとくにすさまじかった。
柳と友人が会話できると知るやいなや、今まで退屈だったの、と口火を切ってまくしたてる。
――だってねぇ、ここにくる人たちって静かなわけよ。あんなに黙ってられるなんて信じられない。おしゃべりしないなんて、つまんないわよねぇ。ま、そのかわりこっちがちょっとばかし会話に花を咲かせてるのよー。おもに私だけど!
デッサン中はちょっとどころではなく、かなりやかましいのだろう。「へえ」と柳があいづちを打った間際から石膏像がかぶせてくるので、機関銃のようだった。しゃべりだしたら止まらないし、話題が次々に変わる。現在は、ダビデ像の局部について盛り上がった美術部員たちのことを暴露してくれていた。
会話のすき間をぬって、柳と友人はおいてけぼりの村田に状況を説明する。そうしているあいだにも石膏像の話は進んでいた。
――もうね、デッサンがへたくそな先生に描かれると腹立つのよ! あんたもっと美しく描きなさいよ、私の真実の姿をいまいましい画力でねじまげてんじゃないわよって思うわね。鈴本は歴代のなかでもマシな部類だけど。
女性の石膏像の言葉にほかの石膏像も同意を示していた。そこに、村田がかまっていた石膏像が小声で入ってくる。
――鈴本先生はたまに心の乱れが出ようけんども安定感ありよるし、人間以外なら観察力もよかとよ。
話すたびにどこの出身かわからなくなる方言の使い方が特徴的な像だった。