音楽室・四
村田は目をぱちくりとさせながら、柳の長いような短いような、けれど驚きの話を黙って聞いていた。ありえない、と彼女は思った。それほど彼の言ったことは荒唐無稽だった。おまけに勅使河原まで、柳と同じことができるという。骨格模型と話ができ、そして今まさに部屋の隅にある肖像画が何を言っているかもわかるなどと、あまりにおかしくて、村田はしばし柳をじっと見つめていた。
「柳くん、ほんと? おしゃべりできるって何それ。超能力?」
「さあ」柳が軽やかに告げる。「でも嘘じゃない。妄想だとも思わないでほしい。信じられないけれど、本当の話だから」
「いや、でも急に言われても信じられないよ。何か証拠はないの?」
村田に言われて柳は悩んだ。けれどそこへ助け舟が入る。
――そこのかわいらしい女性は、このあいだ汚点を披露していた。だが衣に隠された体はきっと神秘的で美点しかなかろう。脱げばわかる。脱ぐように急ぎ伝えたまえ。
後半部分を無視した柳は汚点どうのという話を村田にしてみせた。すると彼女が目を見開く。
「ねえ柳くん。柳くんは音楽の知識はないんだよね?」
ききながらピアノに近づいた村田に、柳は答えた。
「ピアノには無縁だよ」
「じゃあ、その肖像画の人に知識があるかきいてくれる?」
――ある。
柳が尋ねるまでもなく、肖像画が一言のみ発した。先ほどまでの不真面目な話はどこへやら、一転して肖像画の声は不可解なほど重く響いた。「あるらしいよ」と伝えた柳は椅子から立ちあがり、肖像画を取りだした。しゃべっているのは数あるなかでただ一枚だった。それをピアノの上に置いた。
村田がピアノの椅子に座り、ふたを開けた。そして鍵盤に指をのせ、話した。
「今から練習するから、肖像画の人は、私のどこが悪いか言ってほしい。柳くんは、それを教えてくれる?」
――ほう。おもしろい。
声を聞いて、柳は頷いた。まったく知識のない柳が、答えられるか試しているのだろう。もっともそれは柳が申告した、音楽的な知識がないという面を信用しないといけないので、あまり意味はないかもしれないが、村田はそこまで疑わないのだろう。
彼女は弾きだした。その途端、肖像画の声があふれだす水のように流れていく。演奏中にかぶせるのも悪いと思ったが、柳はあわてて伝言役をつとめた。
「ええと、テンポ、アンダンテ、マノンなんとかで、四拍目の処理が雑、ペダリング、休符のあつかいに注意、力を抜くのと気を抜くのを一緒にするな、あーっと、付点音符が気持ち悪い、スタッカートへたくそ、抑揚をつけて……え? 胸いっぱ、いや、それは」
村田はきりのよいところで演奏をやめ、柳の顔を見た。
「ちょ、ちょっと、そんなに言ってらっしゃるんですか」
「いや、うーん、まあ」
途中から胸と尻の話になったので、それは伏せておいた。
「……ああ、でもおしゃべりできるって、本当なんだ」
村田の感動する声が聞こえたが、今現在、糞尿の話に移行した肖像画に柳はちっとも感動を覚えなかった。
新学期に入ってから村田は勅使河原に肖像画の声をときおり拾ってもらい、ピアノを特訓していた。勅使河原にも不思議な能力があると柳から聞いた彼女は、あますことなくそれを利用して、練習にはげんでいる。
しかし夏休みに何度も彼を呼びだしていたためか、最近の彼女は遠慮して練習を控えていた。いつの間にか、数日に一回の練習が週に一回になり、それより間隔があきはじめ、やがて勅使河原から「今日はどうする?」と声をかけるのもめずらしくなくなったある日のこと、朝から覇気のない顔をしていた村田はその誘いにこくんと頷いた。
けれど放課後になって練習室に集合した二人は、練習を短時間で終えて話しこむ。
「最近、元気ないな」
友人の言葉に、村田は小声で答えた。
「このまえ、お母さんともめた」
それ以降、ろくに口をきいていないらしい。ピアノの椅子に座っていた彼女は、両手を太ももに置いて下を向いて言った。
「また進路の話。ほんと自分でもいやになる。ぜったい保育の道に進むのって言い合いしたあとさ、お母さん、なんか悲しい顔してた。だから、私……あー、うん、なんだろうね、言いたいこともよくわからないや。どうしたらいいんだろ」
前回のごとく勅使河原は適当な返事ができなかった。自身の進路でそんなに深刻になるものなのかと、彼には想像できないでいたからだ。進路希望に親の都合はあれど、本人の希望に勝るものはない。そういうもとで選択と責任について学んで育ってきたから、立地や経済的な理由以外で衝突する彼女の話は現実味がないように思えてしまった。
「村田さんにとっての正解って、何が一番ええんやろなぁ」
困ったような口調の彼に、このあいだからピアノの上が定位置となった肖像画が口をはさんできた。
――そのようなときこそ男の真価が試されるもの。聞くがよい。
彼が声のほうに視線を向けると、いやに真面目くさった声で肖像画は続きを口にした。
――俺の尻をなめろ。
「……不正解やん」
――ふん、ケツの青い返答だな。
「どうしたの?」村田が友人を見上げた。「肖像画の人、何か言ってるの?」
「いや」
彼女が聞こえないのをよいことに勅使河原は好き勝手に言ってから、ピアノのふたを開けて話をかえた。
「ところで村田さんが夏休みに歌いたいって言ってた曲、練習したから合わせてみたいんやけど」
とたん明るい顔になった村田は立ちあがって、準備をととのえた。彼は村田の喜びように苦笑しつつも楽譜を出して、ピアノの椅子に座る。
二人がそれぞれ譜面を開いたのは「みぞれに寄する愛の歌」という曲。
こういう曲は円熟した歌い手と奏者でようやく仕上がるのではと思いつつ、勅使河原は、村田の挑戦してみたいという根性が嫌いではなかった。
今まで伴奏したものと毛色の違う曲調、それに息を合わせていないとどこからでもほころびが生まれそうな繊細な歌に、弾いている最中、彼の指は緊張のあまり神経質な音を何度も立てていた。けれどそのたびに村田はつたないながらもやわらかな声で根底を引き戻すように歌う。
ああ、好きなんやな、と友人は漠然と思った。それが何のことなのか、今の瞬間なのか、どういう気持ちの意味合いにかかわることなのか、自分のことなのか、それとも彼女の歌への情熱のことか、いやそれらすべてなのか、彼にはわからなかった。けれど、きっと彼女も似たような思いを共有したのではないだろうかと、そういう感覚はわかった。
二人は最後の音の粒ひとつひとつまで丁寧に感じ取って、満足げに顔を見合わせた。
「ああ、すごい。やっぱりすごい」村田が上気した顔で微笑む。「ありがとう」
「いろいろ難しいわ、これ。もう弾きたない」
友人が言いながら笑うと、村田が「えー」と眉根を下げた。そこに肖像画の声がかかる。
――まあいずれにせよ二人には早かったな。浅くなる。音楽性のみならず深く堪能するというのはいついかなるときでも重要だ! そうたとえば、具体的な仲でいう抜き差しならぬ関係と浅からぬ縁によっての合体わざに……。
肖像画の考えは、放っておいたらどうしてもその方向性に飛ぶらしい。飽き飽きした勅使河原は、村田に話を振った。
「村田さんの進路って、村田奏音以外の進路になるん?」
「え」
ぽかんとする彼女に、友人はなんと言おうかと考えつつ、ゆっくりと続きを口にした。
「や、選ぶの自分やん。選ぶ方法かて、そうやろ。まあ簡単に言えるのは人のことやからかもしれんけど」
――他人が選んでも答えなどでない。なぜなら、みなそれぞれに正解は違う。そして正解だけが正しいのではないのだ。それらは一生をかけてやりとげるもの。
めずらしく誠実な返答をよこしてきた男の声を聞いて、友人は村田に肖像画の言葉を伝えた。
すると、村田がほがらかに笑って決意表明をした。
「私、歌が好き。でも声楽家より、お遊戯してかけっこして、みんなで歌って楽しんで、そんな先生になりたいの。ちゃんと声楽も続けるつもり。どちらも大事だし、お母さんの気持ちもわかってる。だからね……あいだをとる」
「あいだ?」
友人の言葉に村田は頷き、今までの悩みはなんだったのかと言わんばかりにあっさりと憂いを振り払った。
「私……音大の幼児教育に行く!」
気づけば秋も深まり、文化祭までひとつきを切っていた。音楽室での催しも予定で組まれている。吹奏楽部が主で、あとは音楽の教師や音大志望の生徒が発表会として立つ。村田も参加メンバーに入っていた。そしていつの間にか、友人こと勅使河原の名前もピアノの伴奏として村田に登録されていた。最初に聞かされたとき彼は怒ったが、上目をつかって謝ってくる村田の頼みこみに結局は折れていた。
村田は、今日も歌とピアノの練習につきあってくれた彼に感謝を述べた。
「ありがとう。これからもよろしくね、てっしー!」
「てっしー?」
なんて変なあだ名だ。けげんな顔をした彼に、村田は代替案を出す。
「じゃあ、けんけん」
「却下」
「なら、サブちゃん」
「……あほか」
たまに方言が出て村田の前ではややこしい言葉遣いをしていた友人だが、今ではもう彼女に標準語を使わなくなっていた。その距離感が彼にとっては自然だったし、彼女にとってもそうであったのか、小動物よろしく気づけば友人の近くで騒がしくしている。
――それにしても着こむ季節になると、想像力が豊かになるな。隠されているものを暴きたくなる男のさがよ。
勝手にしゃべり散らしている肖像画の声を本日も無視しているところに、柳も練習室へ遊びにきた。
三人は肖像画も交えて会話をしていたが、村田に通訳をする際はきわどい表現を振り落として伝えていた。たまに出てくるよい発言だけを教えるせいか、このあいだから村田のなかでは肖像画の株が急上昇しているらしい。この変態を、かなり好印象にとらえるだけでなく、きっと声が聞けたら素敵なおじさまに違いないと目を輝かせているので驚きである。実際は胸と尻と糞尿で構成されているだけだが、柳も友人も彼女の夢を壊さないという面では一致していたため、意図的な通訳係を担っていた。
話しこんでいた三人は、暗くなるまえに帰ろうと支度をはじめる。
ピアノのふたを閉める友人の横に立った村田は楽しそうだった。
「それにしても、てっしーの音は情熱的だね。男の人のほうがロマンチックに弾くってよくあるもんねぇ。すごいラブレター書いただけあるね!」
「は?」友人は思わず彼女を眺める。
「クラスの子に聞いたよ」村田はにっこりと笑った。「私が来る前の話なんでしょ? なんか外国人のノリですごいラブレター書いて、みんなにばれたハプニングもあったけど、よくわかんないカッコよさで取り返して、捨て台詞を吐いたって。で、失恋したんだよね?」
「は?」もう一度、友人は言った。
「え? 違うの?」
首をかしげる彼女に、柳が大笑いして答える。
「違わない。だいたい合ってる」
友人は口を閉ざした。肖像画を部屋の隅に置く。それからかばんを持った。なんだか釈然としない気持ちだった。
「めっちゃ豚まん食べたいわ。小麦粉に隠された豚肉を暴きたくなる季節やわ」
――なに、豚だと!
怒りを爆発させた声音を耳にしながら、友人はとぼとぼと部屋を出て行く。柳と村田は笑いながら追いかけて、やかましい練習室をあとにした。