音楽室・三
――じつにムラムラする名よ!
この練習室にこもるようになって、さて何回目か。友人こと勅使河原健三郎は、正直頭を抱えたい状況だった。
村田の名前を使って遊ぶ例の声は「ムラムラムラムラ」うるさいし、言われている村田は頭に咲いた花に水やりでもしたのか、ますますのんきさに磨きがかかってピアノも上達しない。おまけに歌の練習で現実逃避ばかりしている。
ピアノの前に座らせ練習の成果を披露してもらっても、まずもって彼はほめて伸ばす要素を村田の腕に見出せなかった。今も村田の指は鍵盤の上を何度か立ち往生したように音を鳴らしているし、それもやがて止まってしまっている。
村田は言う。「大事なとこなので、二回弾きました!」
「あほか。間違えて二度弾いただけやろ」
彼はつい関西弁でつっこんでいた。せっかく標準語で会話してきたというのに、村田には自然体を引きだされてしまう。なんなんや……と、いつになく弱った男はそれきり無言になった。その様子に気づいた村田は懸命に練習をし、勅使河原の機嫌をなおそうと気合を入れてピアノに向かいだす。
そうして何十回と練習を重ねて、たどたどしくもようやく彼女が最後の音まで弾き終えたとき、友人は口を開いた。
「今の、自分で何点や思う?」
「汚点です」
――うまいではないか。
「せやな」友人は、村田と肖像画の声に同意した。
絶望感に満ちた顔つきの村田に、友人は満足を覚える。しごきがいがあるというものだ。
「で、今年中には実際どれくらいまで進みたい?」
彼が尋ねてみれば、村田は小さな声で「バイエル終了程度」とつぶやいた。
友人はにっこり笑う。「ツェルニー30番までいこうか」
「ご無体な!」村田がさけんだ。
ツェルニー30番はその名のとおり、三十の曲が収録された練習曲である。バイエルよりややこしくなるツェルニー30番も、数ある楽譜のなかでは簡単な部類だ。このころから初歩的な練習を経て短い曲を弾けるようになるが、あくまで基礎練習用なので演奏する楽しみにいたるには難しい。頓挫しなければ、出版社の「やさしいピアノ集」といったたぐいのものは弾きやすくなるぐらいには上達する。しかしながら、村田の腕前では苦しい道のりになるだろう。彼女もそれをわかっている。なので、友人はしかたなく譲歩した。
「ならブルグミュラーをクリアしよう」
ツェルニーよりじゃっかん難易度を落とした曲集だったが、それでも村田にはたいへんであるのに変わりはない。
「うー……」村田がうなりながら背筋を伸ばした。「でも、がんばる」
――その意気よ。さあ、服をお脱ぎなさい。
脈絡なく村田を誘う声を、友人は無視した。彼女には聞こえていないのに、肖像画もご苦労なことである。
「ねぇねぇ、おなかすいたね」とつぜん村田が言った。
「ん? ああ」
音楽の教師が学校にくる日程をあらかじめ聞いて、二人は練習室を借りている。今日も朝からこもっていたが、ただいま時間は午後一時。村田に言われて彼の腹も急にすいてきた。
「今日はこれくらいにして、お昼ごはんを食べにいこ! トンカツ食べたいなぁ。豚丼もいいな、あ、しょうが焼きでもいい!」
楽しそうに片づけをはじめた村田に、友人は尋ねた。
「豚肉か?」
「うん。お肉、私はお肉を求めてます」
――ならぬ! 豚はならぬぞ!
歯ぎしりでも聞こえてきそうな勢いで、肖像画の声が荒々しく割って入った。どうやら豚肉は嫌悪の対象であるらしい。
「よし、豚肉を食いに行こう」友人は村田に向けて優しく微笑んだ。
言い出した本人である村田は、彼の顔をぽかんと見つめたあと小さな声で「うん」と言って緩めた口もとを隠すように下を向いた。
学生の財布に優しいファミリーレストランにて、二人は昼食をとっていた。村田はあれだけ豚肉に熱を上げていたのに、頼んだ品はその量で足りるのかというサイズのドリアだけだった。小さい体だから胃も小さいのだろうか。口も小さいしなぁと、彼は村田の顔を眺めながら考える。あんまり見ていたからか、村田が視線に気づいてスプーンを口に運ぶのを止めた。
「なぁに?」
小首をかしげた村田に、彼はごまかすように「いや」と言い、適当に思いついたことを質問した。
「あのさ、なんで英語だめなのに、イタリア語は発音できるん?」
「だって英語は難しいじゃない」当然という顔で村田が答える。
彼女の成績は本人の申告どおり、音楽以外はからっきしのようだ。かろうじて文系は平均点に食いついているらしいが、それでも英語はよくないという。しかしながら英語はできなくとも、彼女はほかの言語で向いているものがあった。イタリア語である。イタリア歌曲の場合、もちろん歌い手はイタリア語の発音練習もせねばならないが、音楽の教師いわく村田のそれはすこぶるよいそうだ。しかも英語より辞書の使用頻度が少なく、理解度が早い。
「どうしてかイタリア語は頭にすっと入ってくるの」
「そんなもんか?」
「そんなもん、そんなもん」村田がふふ、と笑う。
そのとき村田の携帯電話が着信を知らせ、彼女の表情がくもった。
ごめん、出るね――彼にそう断ってから村田は携帯電話を耳にあてて話しだした。村田は、最初のほうは不機嫌な様子で「うん、うん」と頷いていたが、彼が注文していたハンバーグを食べ終わりそうなころには電話の相手にけんか腰で通話していた。しまいには「もう! 今デート中なの、じゃましないで」と一方的に電話を切ってしまった。あてつけのような言い方だった。
「色気のないデートやな」友人はぼそりと言い、最後の一切れを口に放りこんだ。
村田は頬を赤くして謝る。そして、きいてもいないのに彼女の進路事情について話をしてくれた。
「今のはお母さん。お母さんね、私を音大に行かせたいの。声楽をきちんと学ばせて、留学させたいのよ。でも私は保育を学びたい。幼稚園か保育園の先生になってね、子供たちと一緒に歌いたいんだ」
「ほんで、けんか?」
「うん」
「そう」あっさりと友人は返事をした。
あまりの味気なさに、村田も釈然としない顔つきになる。
「こういうときって、さすがに『そう』とかで流さないんじゃ?」
「村田さん、ドリアちょうだい」友人は言いながらフォークをドリアに差しこんできた。
「あ、ちょっと! 私のぶん!」
あわてた村田が自身のスプーンでドリアをすくって残りを食べる。湿っぽい雰囲気だったのに食い意地の張り合いか、料理をたいらげることに二人の目的がうつり、ドリアはあっという間に二人の胃におさまった。
「……間接チューみたい」
村田が呆然として言うので、彼もぼんやりしながら答えた。
「ええやん。デートみたいで」
真っ赤な顔で口ごもった村田を見てゆっくりとフォークを置いた男は、コップの水を飲むと話を戻した。
「まあ、がんばってみたら? よう知らんけど」
あまりに無気力で他人事すぎる応援に、村田はぽかんと口を開けた。それを見た彼は、やっぱり小さい口やな……と思った。
「……それで? 村田さん。呼びだすのって、何もここじゃなくてもいいと思う」
柳は笑いながらピアノの椅子に腰かけた。
夏休みも終わりのころ、彼は村田に相談があると呼びだされ、学校の練習室にきていた。といってもついでに理科室へ遊びに行く口実もできたので、わずらわしいとはまったく思っていない。でも本心は黙っておく。わざわざ自分のために足を運んだのだと村田に思われるなら、それがよい。こういう恩は売っておいて損はしない。
「だって外で会ってるのが見つかったらいやだもん」
村田の困惑した顔を見て、柳は彼女に話をするよううながした。村田はぽつぽつとしゃべりだす。
「私、勅使河原くんにすっごく迷惑かけてるなって思ってるの。夏休みに何度も学校にきてピアノを弾いてもらってる」
「うん」
「このあいだもね、適当に返事されたし、会話がおざなりなんだもん。ドリアも食べられるし。それにね、最近いらいらしてるの。面と向かって私に言わないけど、練習中はずっとこわい顔してる」
村田が沈んだ顔をするので柳は否定した。
「いや、それは……」
べつの理由がある。そこまで言おうとして、柳は口を閉じた。友人が仏頂面をするとしたら、理由は彼女ではない。もっとほかに決定的なものがこの部屋にはある。そいつは今も柳に向かって話しかけてきている。おそらく友人はその被害にあっていたのだ。猥談をしかけてくるとは、前回ここに来たときよりもひどい。
「私、がんばらなくちゃって思うほどからまわって失敗して、ぜんぜん上手にならないの。きっと勅使河原くんもあきれてる。嫌われたらどうしよう」
村田の声はどんどんしぼんでいった。悲観的な言葉でしめくくられると、おまけとばかりにため息をこぼす。
柳は彼女をなぐさめるように微笑んだ。
「勅使河原は優しいから、それはないよ。俺も最初にカミングアウトしたときさ、どうなるかと思った。でも勅使河原は俺のこと気味悪がらずに、とりあえず寛容します、みたいなスタンスで接してたなぁ」
「何が?」村田が問う。
柳はさらに笑みを深くした。そして、とっておきの秘密を教える子供のような無邪気さで答えた。実際、とっておきの話なのだから。
「うん、じつはさ……」
――おっぱいを枕にしたい。
水を差すように声がまざった。