音楽室・二
八月のあたま、ようやく非常事態宣言が解除された理科室で、柳は掃除をしていた。遠野たっての希望もあったが、骨格模型を転倒させた事態の清算も兼ね、彼は朝から学校へ向かった。久しぶりに会った骨格模型はあいかわらず恋多き日々を送っているようで、掃除中は骨格模型の恋愛話でもちきりだった。掃除のあとは遠野のねぎらいと、彼女の独擅場となる模型の話が待っていた。遠野のおごりでアイスクリームにありつき、午後をまわって解放された柳は、靴箱の前で担任に出くわした。そこで彼は教えてもらった。どうやら、村田と友人が音楽室にいるらしい。音楽の教師伝いに聞いたという担任も、どういう組み合わせなんだろうなと笑うだけである。「気をつけて帰れよ」と教師に声をかけられた柳だが、教師が職員室のほうへ歩いて姿が見えなくなると、彼も靴箱をあとにした。向かう場所は決まっている。
なんという幸運なのか。日ごろの行いのよさかもしれない。柳は自身に感謝をした。日差しのきついなかクラブ活動でにぎわうグラウンドを横目に、柳は音楽室のある校舎へ足どり軽く歩く。
音楽室も理科室のように大小さまざまな部屋が並んでいる。ただ音楽室は、個人練習用にピアノの置かれた小さな部屋がいくつかあるのが特徴だ。その練習室のひとつから、ピアノと女性の歌声が聞こえてきた。しかしそれだけではなかった。伸びやかな音に呼応して、ほかにも変な音がまじっている。
首をかしげながらも、柳は練習室のドアの小窓から室内をのぞいた。中にいたのは友人と村田だった。友人がアップライトピアノに向かい、村田が譜面台の前で立って歌っている。
のぞき窓から見ている柳に、友人はすぐに気がついて伴奏を中断した。とたん村野がぽかんと口を開けたまま、ドアを見やる。柳はにこやかに手を振った。友人は何も考えたくないという表情で、ピアノの譜面立てにあった楽譜を閉じた。村田は何も考えていないような笑顔で柳に手を振り返し、彼を室内に招いた。
「柳くん、こんにちはー」
ほがらかな声の村田に、柳は目を細めてあいさつを返した。害のない態度というのか友好的というのか、村田の振る舞いは理科室在住の某模型を思わせた。だから友人もほうっておけなくなったのだろうか。
「こんなとこで会うなんて、偶然だね!」
明るい口調の村田に、柳も「そうだね」と合わせ、ピアノの椅子に座ったままうなだれる友人に文句を言った。
「勅使河原も人が悪いよ。どうして俺に教えてくれないの?」
「べつにいいだろ」
「ピアノが上手なのも知らなかった」
柳は言いながら、室内を見渡した。隅には楽譜が積まれており、折りたたみ式の譜面台を入れた小さな箱がいくつも置かれ、壁際に置かれた背の低い棚には、作曲家の肖像画が飾られることなく無造作に積まれていた。
練習室でありながら荷物置き場のようであった。そんな感想を抱くとどうやら正解らしく、村田が説明をしてくれた。
「この部屋、ほかの練習室より広いの。楽譜と譜面台を収納する棚のせいで、いつの間にか倉庫みたいになっちゃってるんだって、先生が」
「それでごみごみしてるんだ。ほかの練習室を使うのは?」
この練習室は廊下の奥にあたる。柳が通った手前の部屋はあいていた。
「えーとね、この部屋のピアノの音が一番いいの」
「なんかすごいね。耳がいいんだ」
村田は照れくさそうな表情で、首を横に振った。
そのとき、ふと気になることがあって柳と友人は顔を見合わせた。が、すぐに何でもないように話を変える。
「それで、二人は何してたの?」
柳の質問に、笑顔の村田が「あのね!」と勢いよく教えてくれた。
どうやら村田が友人に話しかけていたのは、ピアノを教えてほしかったからだそうだ。交渉している場面を生徒に目撃されていたのと、頼みごとをする際の村田の妙な言い回しのせいで、誤解が生まれていただけだった。
「でもなんでピアノ?」柳が尋ねる。
「私、声楽やってるんだけど、ピアノは少ししか弾けないの。でね、大学は保育学科に行きたいんだけど、ピアノが必要でしょ? だから」村田が勅使河原を見て、はにかんだ。「教えてもらおうと思って、頼みこんだの」
「へえ」柳はあいづちを打って笑みを浮かべた。
「音楽の先生がね、ピアノがすごくうまい人がいるって教えてくれたんだ。ついでにすごい名前だって言ってたから、あ、この人だって思ったの!」
「そう」柳はさらに笑みを深める。
聞き役にまわった柳に、村田は意気揚々と話をはじめた。最初はピアノの練習をしていたが、休憩をはさんだときに村田の歌で友人が伴奏をしてみることになった。それが彼女にはすこぶる楽しかったらしく、練習のたび声楽の時間を設けたという。村田は、友人のピアノの演奏をほめちぎり、伴奏がすごくうまいと感動し、ついでに友人の人となりも素敵と言い、そんな友人と親しい柳までも称賛した。どれもこれも聞いている者が恥ずかしくなるくらいの修飾や比喩を駆使した表現豊かな言葉で語られ、柳も友人もちょっと前に手伝いで書いたラブレターを思いだしていた。
柳はつぶやく。「痛がゆいね」
「へ?」聞こえなかった村田が首をかしげた。
「いや、情熱的だね」
柳が声を大きくして伝えると、村田は笑顔になった。
「言葉は尽くして伝えるものだから」
彼女の言葉に、友人は恨み言を並べるような口調で返す。
「ならメールはもう少し工夫してくれ。そして日本男児に送る文面というものを考えなおせ」
メールにおいても村田なりの言葉の尽くし方が発揮されているようだ。しかしながら、そこまで友人と村田はやりとりをしていたということなのか。柳は思いながら、村田と友人の持っている楽譜に興味を移した。
「何を歌ってたの?」
村田は譜面台に並べていた楽譜を柳に見せた。コンコーネと書かれた楽譜以外はほとんどがプリント印刷で日本歌曲が多い。落葉松、霧と話した……そのほか譜面をめくっても、彼の知っている曲はひとつとしてなかった。
「ね、よかったらちょっと聴かせてほしい」
柳の頼みに、村田はにっこりと笑って頷いた。それから友人に曲名を告げ、伴奏をお願いしている。ピアノの楽譜を開いた友人と村田は互いの呼吸を確認しあって、曲の出だしに意識をそろえた。
披露したのは出だしが軽快でかわいらしいメロディのイタリア歌曲だ。恋のよろこびをつづった歌らしく、歌の一番が終わったところで村田は「暑いね」と小声で笑いながら、足首が隠れるほど長い丈のワンピースの上に羽織っていたカーディガンを脱いだ。それから何事もなく二番を歌いだす。
このとき柳は聴きながらも、べつのことに気をとられていた。友人も弾いてはいたが、同じくそれどころではなかった。
声だ。男の声がする。
室内にいるのは柳と友人、村田の三人だ。しかし柳と友人にだけ異質な声が聞こえている。
やがて村田が歌い終わった。柳は拍手をする。照れくさそうな村田は、腹部に両手をあてて慣れたような動作で礼をとった。その最中、柳と友人の耳には――夏とはよきものよ、という男の声が響いていた。
「ご清聴ありがとうございました」
おどけた様子で言う村田の声に、べつの何かが合わさってくる。
――ご婦人がたの正装が薄くなる。世の男の目に潤いと喜びを与えたもう、すばらしき季節よ。
「こちらこそ、ありがとう。村田さん、すごいね」柳が伝えた。
――美しき女体に、私の魂は震える。なんと女性はすばらしい。
「はじめて聴いた曲だったけど、おもしろかった」柳は微笑む。
――ゆえに、女性は脱げばよいのだ。
「とりあえず外に出て休憩しないか?」友人が提案した。
柳は笑顔で頷いた。もっと歌いたそうな村田に荷物をまとめさせ、さっさと部屋から連れだす。部屋を片づけた友人は、変な声が聞こえる部屋のドアをすばやく閉めた。
食堂の外に併設されたテラス。その日陰になっている席を陣取り、三人はしゃべりこんでいた。
「へー、柳くんって四人きょうだいの三番目なの?」村田が興味深そうな声をあげた。
「そう、上に姉が二人と、妹にはさまれてる。女系家族っていうのかな」
柳はさわやかな笑みで答えた。いっぽう友人は暑さに負けて無言だった。会話に入る気もないのか、椅子にふんぞり返り両足を投げだして座っている。そのなか、村田のくすくす笑う声があがった。
「じゃあ私、柳くんとは結婚できないや」
「そう?」
村田が頷く。「小姑がいるところはやめなさいよって、うちのおねえが言ってる」
「お姉さん?」
「そう。生物の先生に似てるよ。あの、ちっちゃい女王さまみたいな人」
「あやちゃんね」柳が笑った。
「お嫁にいくなら、男兄弟ばっかりのとこがいいんだって。女の子がめずらしいからお姑さんとも関係つくりやすいし、男ばかりの家にいる女の人のほうがネチネチしにくいって」
「ふーん」柳は友人に声をかけた。「だってさー、勅使河原」
話を振られた本人は聞いているのかいないのか「へえ」と返してきただけだったので、柳は少々つまらなく思った。
「柳くん、感想は」
駅で村田と別れた二人は電車に乗って話をしていた。話題はもちろん、あの声のことだ。友人の問いに、柳は簡潔に返した。
「すごいくひどいね」
「せやろ」
彼らは練習室で、村田以外の声を聞いていた。声の出どころは、肖像画だ。クラシックの作曲家のうち、とある人物を描いたものがやけにうるさく練習室で存在を主張していた。
友人いわく、先日は伴奏をしている最中に演奏面での指摘をしてきたらしい。しまいには一緒になって歌うので、村田のやわらかなソプラノと、「ラ」や「ア」や「フーン」といった適当にしつつもひとりでに盛りあがる男の声が共鳴し、美しくもない響きが生まれていたという。
友人がうんざりした声を出す。「うっとうしいったらなかったで」
「まあまあ」柳が苦笑いを浮かべた。
「ほんま、たまらんわ。フンフンハーンって、なんやねん」
柳は笑った。「でも今日はそんなこと言ってなかったよ」
彼が聞いたのは、女性に関することだけだった。もっと言うと、肖像画の声は村田のことも言っていた。柳が彼女に対し「耳がいい」と話していたとき、聞こえてきたのだ。体つきもよいぞ、と。幻聴でないならば、夏の暑さにでもやられたのかと思わせる馬鹿げた発言だった。しかし同時に柳も友人も内心、そうなのか……と、村田本人に気づかれない程度には想像力をはたらかせていた。
「毎回どっちかに転んでるわ」友人が言った。「下品か楽曲解析の二つやな」
「ちょっと、雑音だか雑念だかが激しい部屋だね。よくあそこで練習するよ」
感心した声の柳に、友人は「もう、しんどい」などと、ため息とともに吐きだす。
ちょうど電車が駅に着いた。友人宅の最寄り駅だ。ドアの前に立った友人へ、柳は笑い声まじりにきいた。
「でもしばらくは村田さんにつきあうんでしょ」
「……ほなな」手をひらひらと振った友人は、その問いを無視して開いたドアから出て行った。