音楽室・一
夏がきた。それから転入生もきた。村田奏音という愛らしい名前の彼女は、長い髪をひとつにくくった小柄な女子だった。
黒板の前で自己紹介をした彼女は、最後列の友人の隣の席に座る。友人は頭を下げてあいさつをした。村田も緊張した表情だが口もとを緩めて同じように頭を下げる。
友人は、彼女にいろいろとお節介をやくべきかと思ったが、その心配はいらなかった。授業中は必死にノートをとり、クラスメイトとは初日に打ち解け、そしてたかが数日でマスコットキャラクターのごとく愛されるようになった。ほかの女子生徒いわく「ゆるキャラ」的かわいさがあるらしい。
ようわからん……と、友人が放課後の教室で帰る準備をしていると、その彼女が声をかけてきた。そこで、なるほど……と考えが変わった。
「ちょ、ちょく……」
隣の席から聞こえる村田の声音は、緊迫した状況下を想像させられた。
友人は何事だと彼女を見やる。
「ちょくし……」
彼女の言葉に、言いたいことがわかった友人は訂正した。
「てしがわら、な」
友人は机の中に放りこんでいたプリントを出して彼女に見せた。そこには勅使河原健三郎の字が氏名欄にのっている。ついでとばかりに「てしがわら、けんざぶろう」とゆっくり発音しておいた。
「へ? あ、ああ! ああ!」村田はごまかすような納得顔をする。「てしがら、じゃない……てし、がわらくん!」
「……はい」
村田の勢いにのまれた友人――勅使河原健三郎が、返事をする。
「ごめんね! 人の名前読めないとか、ひどすぎるよね、本当ごめんなさい」
「いや、いいよ」友人は軽く首を振った。
慣れているので、特に何も思わない。それよりも彼は、なぜ村田が話しかけてきたのかが気になった。
恥ずかしかったのか村田は顔を赤くしたまま、早口でまくしたてる。
「あのね、私、音楽と現代文以外は平均以下なの! もう昔から理数系なんていっつも追試だし、あ、いや、古文とかも赤点ぎりぎりだけど、音楽だけはだいたい満点なんだ。まあそれ以外は悲惨だけどね! みんなさ、音楽できるからすごいじゃんとか、一個とりえがあれば、ほかはだめでもいいとかはげましてくれるんだけど、いやー、でもぜんぶ0点とか点数一桁だったらフォローのしようがないよね! ……ああっと、ごめん。そんな話じゃなくて。あのね、ちょく……て、しがわらくん、私ね、声をかけたのはお願いがあってのことなんです!」
ひとしきり自虐と自慢を交互にくり返した村田は、へらへらと笑いながらやっと本題に入るらしかった。
「あのね……」
二人は席についたまま、互いのほうへ体を向けている。もったいぶるような村田の態度に、友人は「ん」と返事でうながした。村田の真剣なまなざしと、空腹で少々うわの空な友人の視線がぶつかる、その瞬間。
「ちょっと、つきあってください!」
ほんの数人しか残っていない教室によく響く声で、村田は先ほどのなごりである赤面した表情とともに声を張りあげた。
「……あれ? 帰ったんじゃないの?」
柳の不思議そうな声音に、友人は疲れた顔で「そっちこそ」と返した。
靴箱の前で会った二人は、それぞれ靴を履きかえ、校舎を出て校門まで歩く。
「ちょっと偵察に行ってた」柳がかばんを肩にかけ直して言った。
「偵察?」つぶやきながら友人は思いあたった。「ああ、理科室な」
「そ。あやちゃんがまだ警戒しててさ」
骨格模型の転倒騒ぎで、遠野は一時期、理科室の人の出入りをチェックしていた。特に柳を疑っているわけでもなさそうだったが、いとしの模型への無体に妙な闘争心がかきたてられたようで、未だぴりぴりしているという。
「掃除すら頼んでくれなくなったんだよね。さびしい」
遠野の役に立てる掃除係は柳にとって何か都合のよいものらしい。友人は「ふーん」と返事をするだけにとどめた。
「で、何してたの?」柳が話を戻す。
友人は苦い顔をしながら、「村田さん」とだけつぶやいた。
「村田さん? 村田さんが何?」
「……なんや、ようわからん」
友人はシャツのえりに指をさし入れて小さな動きであおぎ、首もとの暑さをまぎらわせようとする。足もとから上がる夏場のアスファルトの熱気は不快感がある。
「それだけじゃ俺もわかんない」
駅まで歩く二人の横の車道は遅々とした流れで車の列を連ねており、ガソリンのにおいと高温の空気を盛大にぶちまけていた。
本当に熱い。顔をしかめたくなる。柳がそう思いながら友人を見ると、彼はすでにしかめ面だった。
「ちょっとした頼まれごとや。気にしんといて」
友人の言葉に柳も詮索するのをやめて「ふーん」とだけ返しておいた。
翌朝。柳はクラスメイトから面白い話を聞いた。前の席に座る女子二人が、好奇心たっぷりの表情で柳に声をかけてきたのだ。勅使河原くんと村田さんって、つきあってるんだよね? と。
「えー、知らない。初耳だけど」
驚いた柳は、昨日の友人の様子を思いだした。村田と何があったのか教えてくれなかった友人は、よくわからないなどと言っていたが、なるほどもしかしたら照れ隠しなのかもしれなかった。
彼女たちは昨日の放課後に見たという出来事を教えてくれた。柳は友人の席に目を向けた。まだきていない。ついで村田もいないことを確認した。
少しすると友人が教室のドアを開けて入ってくる。彼は柳やほかの生徒にあいさつをしてさっさと席に座り、あくびを隠しながらもクーラーのかかった室内にご満悦の様子だった。いつもどおりだ、と、柳は思った。
そして授業開始時刻ぎりぎりになって、ようやく村田は姿を見せた。急いできたのか息が切れている。彼女もまた、何人もの生徒にあいさつをして席についた。
柳は二人をそれとなく眺めた。ほがらかな笑みを浮かべて友人に話しかける村田、そんな彼女に面倒そうな表情で応対している友人。しまいに村田はもみ手をしだしたので、柳は笑いそうになった。これは、詮索するなというほうが無理だろう。
学期末の試験が終わり、終業式を迎えた七月某日の昼前のこと。校内はすでに夏休みの気分に突入している生徒ばかりで、朝から浮かれた会話が飛びかっていた。柳は、教室で友人としゃべっていた。ほかの生徒と同じく夏休みの予定を聞きあって、遊ぶ日程やアルバイトについて楽しく話しあう。各教科から出された課題やテキストなどは忘却のかなたである。
ここ数日、柳は友人を観察していたが、特に変わった様子はなかった。友人の隣の席に座る村田は、たまにうずうずとした期待に満ちた目を友人にやっていたが、それを友人はかわすばかりで何の進展も起きていないようだった。
一学期最後のホームルームも終わり、正午すぎの解散のあと、ほとんどの生徒は教室からさっさと出て行く。帰宅、部活動、今から遊ぶなど、目的はそれぞれだがこんな日に長居は無用であろう。柳も友人と教室を出ようとした。しかしそこに村田が立ちはだかった。教室と廊下のあいだで、通せんぼをしている。
「あのね……」村田は友人を見上げる。
友人は背が低いわけでもないが、長身の柳にはかなわない。しかし村田からすれば、どちらも高身長の部類だろう。小さい村田が首を上げる姿は、巨人か何かに戦いでも挑まんとしていると思わせるほど彼女の首が痛そうであり、二人は村田のためにかがんであげようかと同じことを考えていた。
「あのね」彼女は再びそう言って、口ごもる。
あきらかに話しかけられているのに、友人は声をかけない。出入り口に立つ三人を、そろそろ邪魔だと感じる生徒も出てくるだろう。柳は場所を移動しようとしたが、ちょうど村田が意を決したように声を上げた。
「私、あきらめられない!」
柳は驚いた。こんな小さな体でどこからその声量が出るのか不思議なほど、彼女はよく通る声をしていた。すごいなぁなどと、まったく状況にそぐわないことを柳は考える。そのあいだに話は進んだらしく、うんざりした顔の友人に「ちょっとだけでいいの、お願い」と村田は言いつのっていた。しかしエサの振りまき方が強烈だ。これでは教室に残っている生徒に、何事かと聞き耳を立てられても文句は言えまい。
大変だなぁとこれまた柳が他人事の感想を抱いていると、村田のあまりの熱心さに、とうとう友人は折れた。廊下の隅に場所を移して、二人は連絡先を交換する。村田はうれしそうだった。
「なんか知らないけど、よかったねー」柳が言った。
おまけかついでか、柳も村田の連絡先を得た。さてどちらから情報を引きだせるか。柳は思案したが、夏休みに入るとその機会は自然に訪れた。