理科室・一
桜もとうに散り、新緑の美しい季節を迎えた。最近は穏やかな陽気から、少々汗ばむ日差しが多くなる日々である。
放課後、理科室に入ってきた二人の男子生徒を、人体の全身骨格模型は大喜びで迎えた。
「柳くん、こんにちは!」
あいさつをする骨格模型に、柳は「うん、こんにちは」と返した。
「お友達くんも、こんにちは!」
次に言われた柳の友人も「おう」と小さく頷く。柳につきあうのも十度目くらいの彼であるが、おしゃべりをするプラスチック素材の模型については未だ慣れない様子であった。
二人はほうきを手にして掃除をはじめる。
骨格模型は嬉々として話しだした。
「今日はね、理科実験室に出張したよ」
「へえ」柳が床を掃きながらあいづちを打った。
二人の通う私学は初等部から大学院まである。高等部だけでも敷地は広いが、理科室も一・二……と数字で割りふられている大きな部屋と実験室、準備室、それから教師のつめる研究室と、けっこうな設備が整っている。
「でもねぇ、聞いてよ。骨折り損だったんだよ」
「そうなの? なんで?」柳はほうきを片手に模型のほうを向いた。
「小テストの出来がみんな悪かったみたいでさ、答案の説明だけで授業が終了したんだ」
「ほんで骨折り損なんか」納得するように友人が言う。
関西出身の友人は、普段はなまらないが、柳といると方言が出るらしい。
「困っちゃうよね」
骨格模型の発言に、柳は口もとを緩め、返事をした。
「困っているようには見えないけどなぁ」
「あ、わかる?」骨格模型の声が弾む。
模型と柳のやりとりを聞いていた友人は、困り顔の模型ってなんやねん……とつぶやいていたが、「彼女でしょ」という柳の声に注意を向けた。
「せや、会うたん、久しぶりやったんちゃう?」
「うん。あいかわらず素敵な方だったなぁ。穴があくくらい見ちゃった」
しっかり奥まで見える眼孔で熱い気持ちを語る模型は、二つ隣の理科実験室にいる「彼女」に片思いをしていた。
「よかったねぇ」柳が目を細め、のんびりと言う。
骨格模型の恋するお相手は内臓模型だった。頭から腹部にかけて、どの臓器がどの位置にあるか、たいへんわかりやすく教えてくれる模型である。その目的ゆえ上半身しかないが、机に置くには非常に安定するタイプで、骨格模型などは「内面を包み隠さぬオープンな女性でいて落ち着いた感じがする」と熱烈な絶賛ぶりである。ようは、丸見えの内臓と抜群の安定感をほめているのだが、自身にないものをもつ他者が魅力的にうつるのが世の道理ならば、骨しかないやつが内臓をもつものにひかれるのも無理ないことであった。
柳と友人がゴミ箱の袋を入れかえ、掃除を終える。二人は骨格模型の近くの椅子に座った。
「二人ともありがとう」
「いいえ。それより、告白しないの?」柳が骨格模型にきいた。
「ええー!」模型は驚き、あわてる。「無理、無理だよ、絶対に無理!」
「どうして?」
尋ねた柳に、骨格模型は小さな声で「だってさ……」と言い、しばらくしてから続きを話した。
「恥ずかしいし、こわいし、ふられたらいやだし、いろいろ考えちゃうよ」
「でもぼけっとしていると、他の男にとられちゃうかも」
柳の言葉に、骨格模型は声を詰まらせた。
なんとも複雑な空気になった理科室は、それからずいぶんと無音だったが、やがて骨格模型が決意を表し、静寂を破る。
「じゃあ、告白する」
おお……と、少しばかり興奮した柳と友人は互いを見合った。
「がんばってみる。ちゃんと気持ちを伝えるよ! だからさ」骨格模型が凛々しく言った。「失敗したら、骨だけでも拾ってほしい」
「骨しかあらへんやん」
友人のすばやいつっこみをものともせず、骨格模型は具体的にはどういうふうに告白すべきか悩みだした。
話し合いのすえ柳の代筆でラブレターを書くことが決まり、翌日、柳と友人はそれぞれ家にあった便箋と封筒を持ちよった。柳が持参したのは、小学生の妹が日ごろから愛用しているという、パステルカラーとラメの目立つレターセット。それをぱっと見て「あかんやろ」と柳に言い放った友人が持ってきたのは、A4のコピー用紙と一般的な茶封筒だった。
「事務用品じゃないか。奇抜さが足りない」
指摘した柳に、友人も言い返す。
「柳くんには、無難って言葉を送っといたるわ」
「まあまあ、二人とも落ち着いて」
骨格模型がとりなした結果、便箋は柳のを、封筒は友人のを使うことで決着がついた。
さて、次は内容だ。どんなことを書けばよいかと骨格模型が言うと、友人は「そんなん、好きやって言えばええやろ」と簡単に返した。
柳もうんうんと頷く。「いつから好きだったとか、どこが好きとか、余裕があれば、いれてみたら?」
二人のアドバイスを参考に、骨格模型はぽつぽつと思いついた順に挙げていった。
「一年くらい前かな、理科室の大掃除で内臓模型さんがこっちに来てくれてさ、何日かご一緒したんだ。そのときお話してかわいいなって思って。あ、でも、見かけだけじゃないんだよ! 内臓もきれいだと思ったし、全体が素敵な色味で、僕の世界に明かりがさしたんだ」
「それ、掃除で暗幕はずして日光とりこんだだけちゃうん? 白骨やから、よけいに明るく感じたんかもしれへん」
骨格模型はいつになく低い声を発した。「ひどいこと言うね」
「……すんません」口もとを引きつらせながら、友人は謝罪する。
「まあ、いいよ」骨格模型はそう言うと、続けた。「僕の恋のキューピッドになってくれるんだから」
四苦八苦、それこそ骨を折ってラブレターを作成した柳と友人は、その出来栄えに恐れおののいていた。文面からは骨格だの内臓だの想像できるものはなく、なかなかよい。それよりも、あまりに情熱的すぎて、シャイで控えめな雰囲気がまったく感じられないのである。愛の言葉であふれかえった文面は本当に日本男児三人――骨格模型ふくむ――が編みだしたものとは思えない。
本当にこの内容でよいのかと骨格模型に背を向けて思案にふける二人だったが、「ねえ」という呼び声に、彼らは同時に振り向いた。
「あのさ、その手紙、ちょっとのあいだでいいから僕の近くに置いてほしいんだ」
「え?」
内臓模型に渡すまで自ら保管するつもりだった柳は疑問を浮かべる。
「僕にとっては、すっごく気持ちをこめた大事な手紙だから……内臓模型さんに届けるまで、あたためていたい」
その言葉を受けた柳と友人は顔を見合わせ、微笑んだ。骨格模型の願いに、彼らが否など言うはずもなかった。
――しかし思いもよらぬところで、手紙は暴かれることになる。
骨格模型の横には収納棚がいくつも連なっている。その裏に忍ばせていたラブレターは、壁と棚のわずかなすきまで出番を待っており、ちょっとやそっとじゃ見つからない場所にあった。が、運悪く、柳と友人のクラスが理科室を使用中のときに、ある男子生徒によって発見されてしまった。私物を落として床に注意を向けたため封筒に気がついた彼は、自身の落とした私物と一緒に回収した。
骨格模型は思わず「あっ」と言ったが、小さい声だったのか、まじめに授業を受けている柳と、まじめにほかの教科の宿題をしている友人も気づいていなかった。
授業が終わると昼休みに入る。勉強の邪魔をしたくない骨格模型は、チャイムと同時に彼らに声をかけようとしたが、手紙を拾った生徒が、こそこそと周囲の男子生徒に話をしているのが気になり、とうとう二人を呼ぶことができなかった。やがてクラス全員が理科室を出ていく。生徒らの声が遠のいていくなか、骨格模型は誰にも聞こえない声で「ああ……」と不安を吐きだした。
手紙を持ち帰った生徒は、昼休みの教室で、弁当を食べながらクラスメイトらと手紙を開封して中身を読んでいた。
柳と友人は食堂で食べていたが、教室に戻ると皆が騒がしいのに気づく。その原因が彼らの知る大事な手紙であると、二人はすぐにわかった。
男女まじって数人の生徒が、笑いながら文面を何度も読み返している。その様子に温厚な柳も顔をしかめて生徒らの輪に足を向けようとしたが、それよりも先に突入したのは友人のほうだった。友人は、柳も驚くくらいの速さで生徒らに詰めよって手紙を取り返した。
笑いのネタをなくした生徒らは、目の前で起きた突然の出来事に目をぱちくりとさせる。
友人は便箋を丁寧にたたむと、封筒に入れた。
「人の告白を馬鹿にするな。こんなに惚れたり惚れられたりしたことあるやつは、ちっとも笑うところじゃないのを知ってる」
一気に教室内が静かになったが、それを気にもとめず、友人は自席についた。
「……お友達くん、どうもありがとう」
放課後。友人は無言で手紙を骨格模型へ返した。手紙を救い、言い返したのは友人だと柳が伝えると、骨格模型はただ静かに友人へお礼を言ったのだ。
元気のない骨格模型に、柳も友人も居心地が悪かった。しばらくして骨格模型がぽつりと言う。
「この手紙、だめなのかな」
二人の視線を受けて、骨格模型は小さな声を発する。
「あの生徒さん、授業中に、手紙のこと悪く言っていた気がして……」
骨格模型がどれだけ言葉を尽くし、そして一生懸命だったのかを知っている柳と友人は、はげましの言葉をかぶせてきた。
「そんなん無視したええ。言わせとき」
「でも」
「ここまできたんだ。臆病で終わるともったいない。彼女が好きなんでしょ?」
「……そうだよ」骨格模型は強い意思で肯定する。
ほっとしたように柳は笑い、「なら、それでいいじゃないか」と、つけたした。
友人も発破をかける。「あとは当たってくだけるだけやん」
ひどい言いぐさだったが、柳も友人も、当の骨格模型も笑い声をあげた。
「くだけるのは勘弁してよ」骨格模型は言う。「二人とも、ありがとう」
やる気を見せた模型に、柳は目を細めた。
「理科室でいちばん骨のある男の、大勝負だね」