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美術室・四

 児島が鈴本に頼んでいた期日の前日。村田が彼女に連絡をとり、四人で会う場を設けることができた。話し合いの場所は大学だった。はじめて大学という場所に入った柳たち三人は、しゃべりながら児島に指定された目的地を目指す。休日だったがキャンパスはそれなりに人が多く見受けられた。

 少しすると児島の姿が見えた。大きく長い掲示板の前で待っている。

「なっちゃん!」村田はうれしそうに駆け寄った。

 児島がやわらかな笑みを浮かべて手を上げる。彼女の胸もとで、印象的な青色が揺れていた。皮ひもに大きなターコイズがぶら下がるデザインは、ぱっと目をひく。

「こんにちは。素敵なネックレスですね! とっても似合ってます。変わってていいなぁ」

 村田のうらやむ声音を受けて、児島は困ったように首をかしげて答えた。

「ありがとう。こういうのしかつけられないの」

 柳と友人も彼女にあいさつをした。そのあと、柳は軽く頭を下げて言った。

「今日は時間をつくってくれてありがとうございます」

「いいえ。明日のためでしょう?」

 児島は微笑むと、三人を近くの広場へ案内した。

 広場には噴水があった。その周囲には大きなベンチが配置されており、四人とも並ぶように座る。

 児島が口を開いた。「ああ、今日はわりと暖かい日ね。よかったわ」

「あの、児島さん。明日は先生と会われるんですよね?」

 柳が言うと、児島は穏やかな顔で頷いた。

「ええ、連絡をいただいたわ。最後の一枚を渡しますって。私がすでにレポートを持っているのは筒抜けね?」

「すみません」柳が謝り、話をかえた。「単刀直入にききますが、レポートは、鈴本先生に会うための口実でしたか?」

 彼の問いに児島は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。

「そうね、どうなのかしら。自分でもわからない。ところで三人とも、『先生』が鈴本先生のことだって気づいていたのね。それで、私に何をききたいの? それとも話したいことがあるのかしら」

 答える役目は柳だった。指輪について、そして鈴本について、彼女に直接きかねばならない。

 柳は、石膏像に一人で会いにいったことを友人と村田にはあらかじめ伝えていた。最後のおせっかいな忠告はなかったことにしたが。

「踏み入ったことをききます」前もって断った柳は続けた。「節目の日に指輪を先生から贈られたと、石膏像が言っていました。卒業式のときですか?」

「ええ、そうよ」児島が答えた。「本当に石膏像と話ができるのね。ということは、その経由でほかにも知られてるのかしら」

「断った、と……聞いています」

 柳が小さな声で言った瞬間、数メートル先にあった噴水が音を立てた。中央のモニュメントをぐるりと囲んで放たれた水は、量が増すごとに上へ伸びるように向かっていき、落下していく。

 児島はそれをぼんやりと眺め、ゆっくりと返答した。

「教師と生徒よ。たとえ卒業後でも、彼の生活をおびやかす要因になりえることくらい、高校生だった私にもわかったわ。それに、明確な関係性の変化ってあんがい勇気がいるものだし。一緒にいたいとか、彼女にしてほしいとか、いろいろ欲求はあったけど、でも、好きでいるだけでいいとも思った。夢のような時間は、夢で終わったほうが楽でしょう?」

「なら、レポートを忘れたままにしてもよかったのでは?」

 思わずきいたというふうな口調の友人に、児島は下を向いた。

「そうかもしれない。だけど、あのレポートが先生との最後のかかわりだったの。それを回収して、先生に最後のあいさつをして、断ち切りたかった」

 児島が一度、言葉を区切る。彼女は髪を耳にかけると、続きを語った。

「私ね、ちょっと体に無理があって……高校卒業して手術したのよ。その前後がいちばん不安定な時期だった。だから先生とのことも、ああ指輪も……そうね、当時はいつだって悲観的にしか思えなかった。今はそれだけじゃないの。変われたの、私。来年度の留学と、それから就職。きっとここで動かなければ……大げさかもしれないけれど、一生、私はまた後悔すると思った」

 柳が尋ねる。「断ったことも後悔しているんですか?」

「せめて指輪はもらっておけばよかったわね」児島はいたずらめいた笑みを浮かべる。「もう二度と、はめられないんだもの」

「そんなことないです!」村田がさけんだ。「なっちゃんが告白したら、今ならきっとうまくいきます。先生は、なっちゃんのこと……」

 言葉に詰まった村田を見て、児島は彼女をなぐさめるように微笑み、けれど彼女の言葉を否定するために首を横に振った。そして、自身のネックレスをにぎりしめた。

 柳は内心、あ、と思った。鈴本と彼女は相思相愛だ。けれどきっと二人の関係性やタイミングの問題もあって、一度は離れてしまっている。村田の言うとおり、おそらく二人が向き合えば、うまくいく。それは気持ちを終わらせようとしている児島よりも、鈴本のほうが重要だ。彼の頑張り次第でどうにかなるかもしれない。彼女を突き動かせるのは、鈴本だけだ。だが鈴本には足りないものがあった。柳は児島の言動から、そこへたどりついた。それを鈴本に知らせねばならない。彼が用意するには時間がいる。

「児島さん」柳は声をかける。

 彼の顔を見た児島に、柳は言いにくそうな、しかしさわやかな口調で述べた。

「レポートをもらうの、先生のためを思うなら後日に延期してください。できれば、年明け以降で」

「はあぁ?」

 村田が品のない声を上げるなか、児島は無言で柳を見つめていた。

 

 翌日の放課後。児島は柳の頼んだとおりにしてくれた。昨日の夜、彼女は鈴本へ連絡したそうだ。授業が終わって柳たち三人が美術室の近くで鈴本をつかまえたとき、彼から直接きいた。

「それで。きみたちは、なんの用?」尋ねた鈴本は関心もない声音だった。

「先生にはもう一度、仕切りなおしてもらおうと思って」

 口を開いた柳に、鈴本はいぶかしむ目をやる。しかし柳が話すうち、教師の表情はやわらいだ。話の最後で、柳が彼に準備しておいてほしいものを言うと、鈴本は目を細める。

「そうか。今日だったら……いろいろと間に合わなかったな」

 二人の会話を黙って聞いていた村田が、ついに声をあげた。

「さっぱり意味がわからぬのですが!」

「保身といえば汚いが、うかつなことは言えないものだ」鈴本は微笑んだ。「だが、礼もある。ここまで引っかきまわしてくれなかったら、どうしていたか。だから……そうだな、私はデッサン室で独り言でもつぶやくよ」

 ついてくるようにとは一言も発しなかった。けれど三人は、鈴本に先導されるようにデッサン室へ入った。鈴本が電気をつける。そして、それぞれが手近な椅子に座ると、鈴本は目を閉じて深く息を吐いた。

「ここでよく彼女と会っていた。美術部の部活動が終わると、二人きりになれる場所だったから」

 窓の向こうは日が落ちて薄暗くなっている。なんとなく視線をそちらに向けた鈴本は、目新しさも何もない外をじっと眺めて続けた。

「私は彼女に好意を抱いていた。彼女もどことなくそれを感じとっていたし、嫌そうなそぶりもなかった。ここで話をしたり、芸術観賞やデッサンで二人だけの時間を過ごした。それだけでも関係性の限度というものには触れていただろう。なんせ教師と生徒だ。しかし彼女の名誉のために言うが、やましいことは何もなかった。彼女が卒業するまでは待つつもりだった。彼女も私に直接的な言葉を言いはしなかったが、私を一人の男として見てくれていた。彼女の卒業が楽しみだった。私は浮かれていたんだな。だからこそ、レポートの問題が出てきた」

 そこで鈴本は何かを思いだしたのか笑った。

「彼女が提出した最後のレポートは、画家のクリムトについてだった。彼は絵のモデルをつとめた女性たちと親密でね、しかし恋人のエミーリエは別格の存在だったと言われている。彼女のレポートは一貫して調べたものを客観的に書いていたが、最後の意見を書く場所には、じつに女性らしい視点でクリムトの異性関係に言及していた。彼の代表作『接吻』についても触れていた。想いあう行為は幸福と緊張の陰影がひそむものだ、と。だから、私もレポートの最終ページについ書いてしまった。その文章が恥ずかしくて、おまけにボールペンで書いてしまったものだから消せず、とても彼女に返却できなかった」

「だから、最後の一枚だけレポートから抜き取ったんですね」

 柳が言うと、鈴本が続けた。

「評価後、私の机に置いていたレポートは、翌日デッサン室に隠さざるをえなかった。美術担当の職員全員で定期的に大きな整理や片づけをしていて……その日がそうだったんだ。同僚と隣り合って掃除をしていた私はレポートの保管場所にあわてた。そこからとっさにした行動は、きみの言うとおりだ。最後の一枚だけを抜いて、残りをデッサン室の書棚のファイルにとじた。その後、待ちに待った卒業式がきた。私は彼女に指輪を贈った。しかし断られた。それ以降ファイルを開けると彼女のことを思い出してしまうから、極力さわりたくなくて、結果、ずっと放置していた」

 鈴本は室内へと視線を戻し、三人に声をかけた。

「これが顛末だ。情けない話だろう。私のことを上に報告するかい? 教師としては、ほめられたものじゃないからな」

 三人は顔を見合わせる。やがて柳が迷うように言葉をしぼりだした。

「俺らは独り言を聞いただけです。進退はお好きになさってください」

 言った瞬間、誰かのほっと息をついた音が聞こえた。友人か村田か、それとも鈴本か、あるいは石膏像か柳自身の無意識のあらわれなのか。

 何も話すことのなくなった鈴本をおいて、三人はデッサン室を出ていった。

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