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ごしごしごし
泥で汚れた衣服を一枚一枚丁寧に洗う。
月家に侍女用として支給され、袖を通したばかりの服は、全体的に汚れており、端から端までまんべんなく洗わないと汚れが落ちないようになっていた。
(後宮を甘く見ていたわ・・・)
叔貴宮で菖歌姫の居室からすぐ出た所の回廊に、泥水の入った桶が屋根の柱に紐でつるされており、引っ張ると倒れるという簡単な仕掛けが仕組まれていた。
もとは菖歌姫を狙ったであろうそれは燈蛍が素早く主をかばったため、菖歌姫はそれを避けられたのだが、気づかなかった雪鈴は頭から泥水の直撃をうけた。
鳴音に後宮はどろどろとした女の戦場だと聞いてはいたのだが、実際二日目で空から泥水が降ってくるとは思ってもいなかった雪鈴は、燈蛍に声を掛けられるまで、呆然と立ち尽くしていた。
「折角、これから国王陛下主催の歓迎会が始まるところだったのに・・・」
祭事のために後宮に集まった三華姫を歓迎するために、今日の昼過ぎから国王の日常の仕事場である典麗宮で宴を開くこととなった。
菖歌姫はもちろんの事、ほかの二人の姫君の事も参加するので、せめて顔だけでも確認したかったのに、後宮から典麗宮に渡る途中でこんな目にあったために、回廊を掃除し、泥を落として着替えなければならなくなった。
今の後宮は、そちらの宴に人員を割いているため、雪鈴の周りはとても静かだ。
遠くから響く楽の音と、楽しげな笑い声は別世界の出来事のように、雪鈴の耳を通り抜ける。
先ほどの出来事は、他の後宮の女官たちも見ていただろう。下手すればもう噂になっているだろう。それなのに、着替えたからといってわざわざ出て行っては、主である菖歌姫に恥をかかせることになるかもしれない。
(それに、作法とかよくわからないし、出れなくてかえってよかったかも)
どこかそのことにほっとしている自分の気持ちを感じつつも、知らないふりを決め込んで、他にできることはないかと考えだした。
人気がないのなら、とりあえずは現状の確認として後宮内の探索をしよう。
洗い終わった布地を干し紐にかけ終わったころには、そう結論を出した。
雪鈴達の居住区である淑貴宮は、後宮の東側にある。もとは王の側室でも位の高い四夫人という身分の女性に与えられる宮らしく、そこそこの広さがある。
「でも、ここはあとで見れるからいいとして、今日は後宮全体を回ってみよう」
へんに淑貴宮をうろうろしているより、他の宮を回っていた方が、他の人に見つかった時に迷子になっていたと言い訳がつくかもしれない。
打算というには甘すぎる考えの元、雪鈴は淑貴宮を出た。
そして、半刻過ぎたころには立派な迷子になった。
(叔貴宮を出て、北に向かったって迷子になったんだから、南にいけば戻れるはずよね)
似たように建物が続く道の中、歩いている内にすっかり方向感覚を狂わされた雪鈴は、太陽の位置と典麗宮から聞こえてくる音を頼りに、淑貴宮があると思しき方向へ進んでいった。
そうして日が傾いてきた頃、良い匂いと複数の人が動く気配がして、そちらの方へ導かれるように足を進めると、匂いの元である建物から女官たちが慌ただしく出入りして食事を運んでいる光景があった。
(よかった。これで道を聞けば・・・)
どうやら、厨房の方にたどり着いたらしいと理解した雪鈴は、声を掛けようと一歩前に出た。その姿を、空になった器を運んでいた女官が認め、声を張り上げた。
「何そんなところでつったってんの! これから夕餉の支度もあるんだから早く来て手伝いなさい」
女官は皿を洗い場に置くと、その場に固まった雪鈴の手を取って典麗宮へ向かった。
「全く、この忙しい時にぼーっとしてちゃ仕事は終んないわよ。……そういえば、あなた見ない顔よね。新人?」
「あ、はい」
自分と同じ16歳位だろうか、つりあがった目からきつめの印象を受けるが、充分美人といえる顔立ちの女官は、歩きながら雪鈴の方を振り返った。
「散華祭のために、後宮の人員を増やしたって聞いたけど、貴方もその口でしょ。名前はなんていうの?あたしは李蓮よ」
「私は木雪です」
名乗られたので、後宮用の偽名―とはいえ、鈴を省いただけなのだが―を言う。ずんずんと進む李蓮に誤解を解こうとするのだが、李蓮は新人である雪鈴に後宮内でのしきたりを話し出し、口をはさむ暇がない。
どうしようかと雪鈴は周りを見回すが、宴の準備に慌ただしい周りはそんな雪鈴の様子に気づくはずもなく、そうしている内に二人は典麗宮へついた。