プロローグ2
夕暮れの中、雪鈴は王宮から家までの道を駆け足で帰っていた。
回廊掃除が終わり、帰ろうとしたところで急に皿洗いを手伝いを頼まれたのだ。上手く断ることができずに引き受けてしまったのが運のつき、終わるころには普段の帰宅時間を大幅に過ぎてしまっていた。
家につく頃には、日が沈みあたりはすっかり暗くなっていた。
雪鈴の家は貴族達の住む東街区と庶民が住む南街区の境目にある小さな家だ。周りの家と比べるとこじんまりとしているが、塀もあり王宮の下働きが持つにしてはあまりにも不相応だった。
幼いころ親を戦火で亡くし、唯一の家族であった兄も4年前に亡くなっった。それから1年前まで、屋根もろくに補修されていないあばら家で、周りの人たちに助けられながら生きてきた。だから、1年前のあることを転機に生活が大きく変わり、小さいながらも王都に家を持つ事ができることになるなどまるっきり想像できなかった。
息を整えてから門をくぐり、中庭を抜けると、玄関の前で立ち止まる。一見、どこにでもありそうな古びた扉だ。家の周囲は暗く、中から人の気配など全く感じないが、そうでないことを雪鈴は知っている。
心を落ち着けるために、大きく深呼吸をしてから扉をあけると、家の外観からはあり得ないほどに広い空間が燈籠の明かりによって照らされていた。実際、家の大きさを全て包み込めるぐらい広く、視線を動かせば模様のついた漏窓からは整えられた庭園が見える。
室内に視線を戻すと、天女のごとく美しい女性が雪鈴に対し跪拝して出迎える姿が目に入った。
「おかえりなさいませ。木妃様」
美女――鳴音は、顔を上げて微笑むと再度雪鈴に対して深く頭を下げた。そのほんの少しの所作ですら気品を感じさせる存在が、自分に対して礼をつくしている姿に、雪鈴は回れ右をして戻りたくなる衝動がわきあがるが必死にこらえ笑顔を作る。
「鳴音様も、いつも出迎えあり……」
「木妃様」
とりあえず、出迎えてくれたお礼を言おうとしたが、途中で鋭い声に阻まれた。
「貴方様のような貴人が、私のようなたかが一介の女仙に様をつけなくてよろしいと、何度申し上げればよろしいのですか」
そう言うとおおげさなまでに、袖で顔を隠し涙をぬぐう仕草をする。美人が悲しむ様は嘘だとわかっていても、心が痛くなる。
しかし、宮城の下男の恰好をした平凡な顔立ちの自分と簡素だが絹でできた衣装を着た美しい女性を見比べて、どちらが高貴な身分の人物であるかと問われたら誰もが迷わず鳴音を選ぶだろう。
だが、ここにおいて自分は『妃』と名がつく立場であり、鳴音はそのお世話をする唯一の世話係という立場なのだ。
「ごめんなさい」
その事にいまだに釈然としない気持ちを押し隠して謝ると、鳴音は少し表情を和らげる。
「差し出がましいと思いますが、他の方の前では決してそのようなことをなさってはいけません。木妃様はこの大陸で最も高貴な女性なのですから。夕餉の準備は整ってありますので、お召し物をお替えくださいますようお願いいたします」
「はい」
鳴音に促されて、用意された服に着替える。紅地に赤い梅の縫い取りがしてある旗袍は、ゆったりとした作りをしており、布地をふんだんにつかってあるにも関わらず全く重みを感じさせない。いつものことだが、ただ夕飯を食べる為だけに着る服にしては上質すぎる肌触りに、もし汚してしまったらと考えるだけで胃のあたりがきゅうと痛んだ。
着替え終わり、最初に入った室の隣の部屋に移るとすでに暖かい食事が並んでいた。
「今上は、まだていらしていないので先にお食べくださいませ」
鳴音の台詞に、今日見た彼の姿を思い出し、そういえばと口を開いた。
「陽賢様は、月麗王妃様の所にいたので、多分今日は帰らないと思います」
ピシリと、何かに亀裂が入ったような音が聞こえた。
「……今日お会いしたのですか?」
「会ったというより、月麗王妃様に会いに来ていた姿を見かけたのですが。鳴音?」
背後に黒い気配を纏った鳴音におそるおそる名前を呼ぶと、にっこりと笑顔を向けられる。赤い唇が弧を描く様が蠱惑的でドキリとするが、その笑顔に底知れぬ何かを感じた。
「そうですか。今上は月麗様の所にいっておられるんですね」
その顔は笑っている。笑ってはいるが、目が笑っていない。
今の会話のどこに、鳴音を不機嫌にさせるものがあったのかわからない雪鈴は、とにかく別の話題に移ろうと目の前にある食事に目を向けた。
「えぇっと、今日は魚料理なんですね。すごくおいしそうです。冷めないうちにはやくいただきましょう」
そういうと箸をとり、食事を開始する。そうされると礼儀のなっていない雪鈴の食事指導として一緒に食べることになっている鳴音も、それに従わざる得ない。
魚の骨の除け方を見よう見まねで教わりつつもなごやかな日常の話を振ると、鳴音の怒気もだんだんとしぼんでゆき夕餉はつつがなく終わりを迎えた。
夕餉の後、湯あみをした雪鈴は室を出た。
雪鈴が今いる建物は周りを池で囲まれた島の上に建っており、周りを囲む白い壁と青い瓦が月の光を反射してうっすらと輝いている。一周するだけでも1000歩位必要な、あまりにも広すぎるこの建物が実は東屋と呼ばれており、実際に住むはずだった所の10分の1にすらならない大きさでしかないというのに、どうしてもいることに気後れしてしまう。
空は満天の星空で、風が葉を揺らす音だけがあたりに響く。
鳴音は少し用事があるらしく、湯浴みが終わり雪輪が室に入るのを見届けるとすぐ下がっていってしまったので、今は雪鈴だけしかここにはいない。
「どうしてこうなったんだろう……」
なにともなく、そうつぶやいた。
1年前、雪鈴は結婚をした。
見合いでも恋愛でもなく、ただ一人が寂しくて、家族が欲しくて、同じように寂しがり屋のあの人の手を取った。
相手が自分など本来なら一生手に触れるどころか、足のつま先すら見ることが叶わない相手だとは知っていた。鳴音などは自分に対し最上の礼を尽くしているが、実際の肩書きとしては側室だ。ただ、あの人に正室がいないために唯一の妻として扱われているだけにすぎない。
何もしていないのに、豪華な食事、上等な衣類、色とりどりの宝石などありとあらゆるものを与えられることに、戸惑う事しかできずにいる。
もやもやする気持ちを振り切るように頭を振ると、後ろからかさりと草を踏む音がした。鳴音が戻ってきたのかと振り返ると、物思いの理由である夫であり、月麗王妃の元にいるはずの陸帝陽賢の姿があった。
「あ、お帰りなさい」
いつも月麗様の所にいくと、大体泊りになるのに珍しいと思いつつ声をかける。
「ただいま戻った。茶を入れろ」
挨拶もそこそこの、いきなりの命令だったが雪鈴はいつものことと「わかりました」と返し、私室に案内した。
「不味い。月麗の淹れたのはもっと美味かったぞ」
お茶を一口啜って、開口一番の台詞に雪鈴は苦笑をした。
「私はお茶を淹れるのが上手くないんですよ」
「だろうな。茶葉の淹れる量も少なすぎる。この笹花茶は大目なくらいでちょうどいいんだ」
「そうなんですか」
もともと貴族達が持つ手順の多い茶器での、淹れ方は難しい。その上貧乏性のせいで、どうしても自分で淹れると茶葉を少な目にしてしまうところがあるので、気にしてはいたのだが、つい少な目にしてしまっていたらしい。
「それに比べて月麗は私のことを気遣って……」
いつもの月麗話が始まったなと思いつつも、話に聞き入る。
福祉や孤児院の創立の件で走り回っている事、3ヶ月後に行われる献華祭の準備で色々と頑張っている事、最近犬を飼い始めたことなどの彼女に纏わるいろいろな事をとつとつと語りだす。
言葉にこもる一言一言から、陽賢が月麗のことを大切に思っている事が伝わってくる。
「本当に、陽賢様は月麗王妃様のことが好きなんですね」
「あぁ、好きだ。とてもとても愛してるんだ」
深い愛情のこもった表情を浮かべる陽賢に、雪鈴も笑顔を向ける。
こんなに一途に誰かを想える陽賢の姿は、とても微笑ましく感じる。神として長い年月を生きており自分よりずっと年上なのに、まるで年の離れた弟を見ている気分になる。
結婚したといっても、夫婦らしいことなど何一つせず、たまにこうして話相手として彼の話を聞いて、夜が深けたらお互いの寝室にいく。
それが、二人の日常だった。
雪鈴はいづれ陽賢がちゃんとした人を「妻」として連れてきて、「家族」を作り、自分がいらなくなるまでずっと、ずっとそんな日常を繰り返すのだと思っていた。
それまでは「家族」として、彼のそばにいよう。そう、思っていたのだ。
「……で、話をきいているのか?」
少し物思いにふけっていたのを注意され我に返る。
「あ、はい。聞いてましたよ。それでどうしたんです」
ならいいと、陽賢は手に持っていたお茶を飲みほしてから一息で言った。
「雪鈴、玄武のとこの後宮に入れ」
話を聞いていなかった雪鈴は内容を理解できずに固まった。
そして、この言葉が雪鈴と陽賢の関係が変わるきっかけとなる、出来事の始まりだった。
これで一応プロローグ編は終わりです。
2013/2/21 加筆修正