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路火の儀を終えた三華姫が戻ると、淑貴宮は再び華やかな賑わいをみせるようになった。
とはいえ、儀式を一つ終えたばかりということで少し休んで欲しいという王妃様の気遣いにより、三華姫は各々好きに時間を過ごすことになった。
暇を持て余した誰かがつま弾いている琵琶の音が風に乗って聞こえてくる。雪鈴は長椅子に腰かけ、その音に聞きいるように目を閉じている菖歌姫の手の爪を整えていた。いつも付きっきりで菖歌姫の世話をしている燈蛍の姿は今はない。路火の儀で意気投合したらしい女官や他の姫の侍女達にお茶に呼ばれているからだ。
きめ細やかな肌を誤って傷付るわけにはいかないので、鋏は使わずに専用の石で少しずつ爪先の部分を削っていた。いつも付きっきりで菖歌姫の世話をしている燈蛍の姿は今はいない。路火の儀で意気投合した女官や他の姫の侍女達にお茶に呼ばれているからだ。
雪鈴はこれまで菖歌姫と二人きりになった事がなかったため、最初は互いに天気や庭園に咲いた花などの当たり障りのない話題を振っていたが、お互いの会話のやり取りに慣れてくると自然と話題は路火の儀の事に移った。
菖歌姫は三華姫を一目見ようと沿道に集まった群衆の多さに圧倒されたこと、今代の陸帝に似ていない像が置かれた廟内の様子、王妃様と三華姫の4人で同じ室で寝泊りした時の話などを詳しく話してくれた。
「最初は何故数時間で終わる儀式のために二泊もするのかと思ったのだけれど、待機の時にほぼ4人だけでお話できたのはお互いを知る良い機会でしたわ」
「他の方たちと交流を深められたようで何よりです」
「それで、頼んでいた刺繍があったでしょう?申し訳ないのだけれど、路火の儀の時に他の姫達と自身でした刺繍を互いに1本ずつ交換しあおうという事になったの。だから、貴女が作ったのは2本しか使わないことになるのだけれど全部もう出来上がってるのかしら?」
正直に3本目が出来上がってると伝えると、余分な1本はそのまま雪鈴が貰いうけることになった。
「それにしても、3日でずいぶん打ち解けられたみたいですね」
「そうね、ちょっと互いの距離が縮まる出来事があって。特に、花琳姫と王妃様はとても仲がよくなったのよ」
「何があったのですか?」
そう聞くと、菖歌姫は思わせぶりな笑みを浮かべた。
「鼠がね、出たの」
「鼠、ですか?」
「そう、路火の儀の初日の夜に。それで花琳姫が鼠に噛まれそうになったところを王妃様が助けたの」
「王妃様が?」
「えぇ、あのお二方が仲良くなったのだから、雪の杞憂も少しは減るでしょう」
鼠に噛まれると病気にかかることもあり、傷を放置するとその部分が壊死することもある。ただ、どこにでもいる獣なのでいることに慣れてしまえばそれほど気にならなくなるのだが、それに接する機会などそうない貴族の姫なら怖い思いをしただろう。そんな窮地から花琳姫を救ったのであれば、確かに距離が縮まるのも頷ける。
鼠、という言葉に数日前の碧玉たちとの会話の中で史女官も路火の儀の最中に離れの倉庫で鼠退治をしに行っていたことを思い出すが、春は繁殖期でもあるので偶然そういうことが重なったのだろう。
そこで一旦会話が途切れたので、視線を再び落とし、削って粉状になった爪を刷毛で払い、軟膏を塗る。漆塗りの上等な台座に載せられた労働を知らない白い手は目の前にいる人物が貴族の姫君なのだと如実に知らせていた。
全ての爪に塗り終わり、道具の片づけをし始めた雪鈴を見ていた菖歌姫が口を開いた。
「……ねぇ、雪は自分が恵まれていると思ったことはある?」
唐突な質問に、動かしていた手を止めた。
1年と少し前には薄紅色に盛り上がった傷の跡が目立っていた子供らしくない肉付きの薄い骨ばった手だった。それが今では神仙界で治療されたおかげで、少し骨太なだけの綺麗な手になっている。
幼いころは兄が守っていてくれていた。兄が亡くなってからも、地に額づきながらも時折差し出される手にすがることで、なんとか食いつないで生きてこれた。体中にあった痣や他の傷も全て治され、痛みひとつ知らない様なすべらかな肌になっても、自分一人だけの力だったら生きていくことなどできなかったことを、心が、覚えている。
「そうですね、私は十分すぎるくらい周りに恵まれていると思います」
だから自信を持ってそう答えたのだが、菖歌姫は複雑そうな表情を見せるがすぐに誤魔化すように笑みを見せた。
「そう、貴方はとても、幸せな人なのね。それより、雪の方は路火の儀の間は何をしていたの?」
「私、ですか?私は大体自室で過ごしていました。あと、後宮の猫が私の部屋で子供を産んだので、ちょっとその世話をしていた位、でしょうか?」
「猫?」
「はい。生まれた子猫については尚医宮の方が引き取り先について伝手があるようなので、夕刻前に怪我の様子を見ていただくついでに聞きに行く予定です」
「猫、ね。猫。ほんとにこちらの方は、平和だったのねぇ」
気の抜けた呟きに、雪鈴は笑みを向けた。
「何もないことが一番です。……終わりましたが、爪の装飾具などは付けられますか?」
「ありがとう。特に何もつけなくていいわ」
菖歌姫は台座から自由になった手を上げると椅子の肘掛を台に頬杖をつき、小さく欠伸をした。
「でも、何事もないのが一番といっても、するべきことがないのも暇なのよね。退屈は人生の損だもの。何か暇つぶしできることないかしら」
「……姫様は琵琶や二胡の名手だと伺っています。何か爪弾かれてはいかがでしょうか?」
「楽を奏でる気分ではないわ。そうだ、雪は紙札を使った遊戯とかはできる?」
「賭け事によく使うものなら一通りできますが……」
「なら話が早いわ。一緒に遊びしましょう。言っとくけれど、私は結構強いのよ。待ってるからそれの後片付けをお願いね」
言うが早いか、椅子から腰を上げて立ち上がるとひらりと手を振った。雪鈴はそれに応えるように一礼すると、近くに置いてある杖を支えに立ち上がり、道具箱を元の場所に戻しに行った。
※
どうやら菖歌姫の遊戯の相手として自分は不適格であったらしい。
賭けるもののない平和な勝負をおこなっていたのだが、菖歌姫の勝敗が7勝1敗になったあたりで物足りないと不満げな顔をされ、途中で様子を見に茶を持ってきた蓮と交代することになった。
蓮は二日酔いで寝込んだ日から、どこか心あらずな様子であったので心配だったのだが、1勝負終わる事には明るい菖歌姫につられるようにくだけた笑顔を見せていた。
そしてお役御免となった雪鈴は予定より少し早めに尚医宮の門をくぐった。
尚医宮において診療をする場所は、正門から入ってすぐのところにある急患用の所と、少し裏手に回って入る一般の患者用の二つがある。
それぞれの診療室にはその日の担当医師の名札がかかっているのだが、丁度英医官の名前の横には『休憩中』の札が並べられていた。
やはり早く来すぎたか、と仕方がないので来た道を戻るが、急患用の室の近くに差し掛かった所で見知った北医官の名前を見つけて足を止めた。
(今日の怪我の状態を見せるついでに、英医官に猫の件について聞けるかと思ってたけど、北医官がお暇なら直接話聞けるかな?)
そう思い室の入り口近くまで来たが、室内から話声が聞こえたので来客中かと諦めて尚医宮から一旦でようとしたところで後ろから声をかけられた。
「あら……もしかして、木様?」
振り向くと薬草の入った籠を片手に抱えた尚医宮の下女がいた。どうやら最近の常連であったせいか、顔を覚えられていたらしい。今度はどこを怪我したのかと心配されたので、今回はただ経過を見せにきただけだ、と答えその流れで軽く立ち話をしているとこちらの話声が室内にも聞こえたらしく北医官から誰何の声がかけられた。
「すみません、五月蝿かったですか?」
入口から雪鈴が姿を見せると、北医官はどこかほっとした表情を見せ、手招きをした。
「木侍女でしたか。むしろ丁度いいところに来てくれました。お入りなさい」
でも来客中では、と戸惑っているともう一度入室を促され室内に足を踏み入れた。その際、先客の女官が振り向いた。そこでようやく雪鈴は相手が見知った相手であることに気が付いた。彼女は、数日前に尚医宮で蓮に付き添っていた女官であった。
すすめられるままに雪鈴が女官の隣にあった椅子に腰を落ち着けたのを確認すると、北医官は口を開いた。
「お互いもう顔は見知ってると思うけど、一応紹介しておくわね。こちらは李女官で、尚食宮の女官だけど明日には軍の方に移る予定なのよ。そして、こちらの木侍女は三華姫付の侍女よ」
名前を呼ばれお互いに軽く会釈する。その様子を見て北医官は軽く笑むと、言葉をつづけた。
「それで、先ほど丁度いいといったのはね、できれば李女官には明日木侍女も一緒に軍の方に連れて行ってもらいたいのよ」
「軍に、ですか?」
どういう流れでその話になったのか分からず、思わず隣にいる李女官の方を向くと彼女も同様だったらしくお互いに顔を見合わせた。
「木侍女。先日話した猫の引き取ってもらう件は正式に了承が貰えたのだけれど、たかが猫とはいえど後宮から手順に則って出すとなると面倒なことに、手続きが必要でね。一旦軍預かりにしてから、引き取り手の方に渡す手筈になったの。それで、明日一緒に行ってもらって弟にこの書類に署名を貰ってきて欲しいの」
「ね、猫?」
李女官が不思議そうな顔をしたので、自分の寝台でどこからかやってきた母猫が子供を産んだことを簡単に説明した後、北医官の方に向き直った。
「一応宮中の書類の手続きに、外の人間である私が関わっても大丈夫でしょうか?」
「機密的なものなど何もないのだから問題ないわ」
「ちょっと往復するだけでしたら、木侍女の手を煩わさなくても、あ……わたしだけで行きますよ」
話を聞いた李女官がそれならと気を利かせて提案するが、北医官はすげなく却下した。
「もう後宮を出たら、貴女は戻ってきてはいけないわ。だから木侍女にお願いしたいの。時間は半刻もかからないと思うから」
まるで念押しするかのような強い口調に、李女官は何かを悟ったのか口を閉ざした。その様子に雪鈴は少し考えた後口を開いた。
「私でよければ引き受けたいと思いますが、一応行っていいか菖歌姫にお伺いしてからでもよろしいでしょうか?」
了承に近い返答に、北医官はほっとしたような笑みを見せた。
「えぇ、そうね。なら華姫の許可がいただけたら、木侍女は明日の巳の正刻あたりに一旦こちらに来て頂戴」
「わかりました。李女官、その、たぶん大丈夫だと思うので、明日はよろしくお願いいたします」
「え、っと、いえ?わたしこそよろしくお願いします」
話がまとまったところで、休憩中から戻った英医官が北医官に挨拶をと診療室に顔を見せに来たので雪鈴はそのまま北医官に怪我の様子を見てもらうために別室に移ることになった。




