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たふっ、たふ、たふたふ
頬にやわらかな何かが押し付けられる感触に、雪鈴は目を覚ました。
ぼんやりとした意識のままゆっくりと瞼をあげると、天井を背景に雪鈴の顔を覗きこんでいる母猫の姿が視界いっぱいに映った。目が合うと母猫は雪鈴の頬の上に乗せていた前足をおろし、寝台からひらりと飛び降りると子猫達のいる籠の方に向かった。
その様子を目で追いながら身を起こし、大きく伸びをした後、軽く腕を動かすなどして体調を確認する。眠れたおかげか、朝方に感じた倦怠感はなくなっており、意識もしっかりしている。
特に問題なさそうだと判断を下すと、次に周囲を見回した。
窓から入る光は明るく、まだ中午に差し掛かったばかりのようだ。寝る前まで傍にいてくれた碧玉の姿は既にない。もう仕事に向かったのだろう、繋がれていたはずの手に視線を移すと、髪紐と纏めた上にかぶせるための布が近くに置かれているのば目に入った。
首元に伸ばすと、結ばれていたままだったはずの髪がほどかれていた。半ば無理矢理寝台に押し込まれた形だったので、寝た時も髪をそのままにしていたのだが、気を利かせて解いてくれたのだろう。髪ひもを手に取り、年頃の娘にしては短い――鎖骨より少し長い髪を軽く結わえると雪鈴は近くに立てかけてあった杖を持ち寝台から足を出した。
杖は必要だが動けるようなので何かした方がいいだろうと、部屋の入り口の方へ足を向けようとしたが、途中でその動きを止めた。
(そういえば、具合が悪いからと史女官の前で休んだのに、外を出歩いている所を見られるのは貴様や禄様の体面上あまり良くないんじゃ……)
先ほどの史女官と二人が相対していた時の雰囲気を考えると、あれから数刻しか経っていないのに雪鈴が動き回っている姿を史女官が見たとしたら気分を損なうかもしれないから、部屋でできることをした方がいいと考え、再度周りに目を配った。
猫の方を見ると籠の中では母猫が子猫に乳を与えており、大人しくしているようなので特に世話する必要もなさそうだ。
机の横には菖歌姫から頼まれた献華祭用に使う布が畳んでおかれている。花束に巻き付けて使う帯の4本のうち3本は既に刺繍が出来上がっており、残りは怪我をしていない左手でできないこともないが治ってからでも十分に間に合うので後回しにする。
(姫様の寝室に焚く香炉の準備は明日にした方がいいだろうし……この部屋で侍女としてできる仕事は特にない、と)
他に思い浮かばず悩んでいると机の上に置いてある巻物が目に入った。
特に何も書くことがないまま数日前を最後に開かれなくなったそれは、後宮の人物関係図を大雑把に描いたものだが、そこから思考が展開することもなく文字や記号等が羅列しているものでしかなくなっている。自分以外の人間が開いた場合には白紙しか現れないように呪いがほどこされているらしいが、今の所見られても大した情報を手に入れていないとばれてしまうだけである。ただ、こういうものを書いている時点で疑われて、権力闘争の一環として利用され、気が付けば罪人として扱われると言う事もあるのでその配慮は正直ありがたかった。
後宮の情報というには、あまりに少なすぎるそこに、ふと、個人的に後宮で出会った人たちの人物も付け加えてみたらどうなるのだろうと思い、雪鈴は筆に手を伸ばした。
後宮で知り合った相手で、まず真っ先に思い浮かぶのは、蓮だ。名家の出だから、多分“ロ”の方だろうと推測し、そちらに蓮の絵を描く。
次にロに該当する人物は碧玉だ。禄家はかなり家格が高い家らしいのだが、禄の名を雪鈴は聞いた事が無かった。父親が文官として働いているとは聞いているが、王城の下働き達による出会ったら要注意の官吏に禄の名は挙がったこともないし、よほど名が知れている官吏以外はせいぜい掃除担当場所の近くで働いている官吏しか知らないので、役職、人柄ともに目立たない方なのかもしれない。
碧玉と仲の良い黄楊も名家の出だが、苗字からも分かるように、三華姫の一人である黄香蘭姫の縁戚らしいので“〇”の方にして、ついでに同じく武門の家の出である史女官の名前も書き入れる。
5人組の残り3人の出身である豪族たちの多くは中立の立場を取っているので“△”の方にし、北医官や英医官も医者という立場もあるので同じ場所に入れた。
その他には洗濯や食器の片付けの時に井戸でよく会う者達もいるが、彼女らには距離を置かれていて精々挨拶を交わす程度しかしていないため背景がわからないので保留にして、現時点で思いつく人間を書き終えたことを確認してから筆を置いて、改めて全体を見直した。
(……うん。さっぱり分からない)
全く関係のない事柄でも書き出して見ることで、繋がりが見え全体が分かることもあると、陽賢から記録用に渡されたが、雪鈴にはそこから月麗王妃を巡る陰謀めいた何か読み取ることはできなかった。とはいえ、他にすることもないため、何となくそれぞれの名前の横にある余白部分を指でなぞりながら、新しく書き加えた人物たちの人間関係を頭の中で繋げてみる。
(あの5人と蓮は特に関係はないみたいだけど、史女官の禄女官に対する態度は多分反王妃様派だから?でも、あの5人は、王妃様に対する派閥的には違うところに属してるわけだから、そういうのはやっぱり関係ない、のかな?)
特に地位の高い人間は、親の派閥や関係性で付き合う相手も制限される傾向にあるはずだが、見る限り楊と碧玉の仲は良好だ。もしかしたら、王妃様関連以外でも別の派閥があるのかもしれないが、もしあったとしてもたったこれだけの情報を集めるのに半月かかった自分がさらに深く後宮事情を掘り下げていたら、それだけに献華祭の期間を費やしてしまうだろう。
彼女たちは派閥とか関係なしにただ仲良くしているだけかもしれず、王妃様が関わらないことならば考える必要はない。史女官は蓮の婚約者とも関わりがある様なので、そういった個人的な背景まで考えたらきりがないと、彼女たちの事を思考から締め出すと紙から指を離した。
大した進展もなく、菖歌姫の世話を最低限するだけで既に半月が過ぎようとしている。
後宮に入ってすぐに泥水をかけられるという事もあったが、それ以外は特に悪意にさらされることもなく、安穏とした生活を送っていると言っていいだろう。怪我は正拳が幾分か関わっているとはいえ、主な原因は自分の不注意でもあるため、陽賢には特に報告をしていない。
神犬の血を継いでいるという正拳が王妃様に拾われ王宮を住処にし始めたのは数年前。雪鈴が陽賢の手を取る前の話だ。雪鈴の事を知っている神仙界の者達は、王妃様に雪鈴の存在を知られないようにしているのだから王妃様に近しい正拳にわざわざ余計なことを告げるとは思えない。それに、もし正拳が何かしら吹き込まれたのならばこの程度の怪我ですむはずがない。
軽く目を閉じると、笑みを象った唇が閉じた瞼の裏によぎる。雪鈴は無意識に怪我をした右手をさすった。
「本当に、何事もなく終わればいいのだけれど」
誰に聞かせるでもなく小さく呟いた言葉は静かな室内に溶けて消えた。




