17
去って行く紫雲を室の外まで見送った碧玉が戻ってきたので、枕元の近くに置いてあった椅子に座るよう促した。
言葉に従い素直に腰かけた碧玉であったが、何かに身構えるように、その表情は固かった。
「それでお願いなんですけれど」
そう言葉を切り出すと、碧玉に手を差し出した。
「……あの、私が眠るまで、手を握っていただいてもいいですか?」
「え?」
何を言われたのかわからなかったのか、碧玉は目を瞬かせて、目の前にある手の平を見つめた。
「その、私、具合が悪い時、誰かが傍にいてくれないと眠れなくて。……すみません、ずうずうしいですよね」
一瞬の間に気まずくなり、伸ばした手を戻そうとすると、ひんやりとしたやわらかな手がそれを引き留めた。
「そんなことない」
碧玉は首を振ると、つないだ手を敷布の上で重ねた。
「他に何か、してほしい事、ある?」
「……物語でもなんでもいいので、お話を聞かせてもらってもいいですか?」
少し考えてから重ねてお願いをすると、答えの代わりに柔らかい笑みを打浮かべ、空いたほうの手で肩を軽く押され半身を倒すよう促される。
掛布をかけ、目を閉じる。視界が暗くなると、朝方まで眠れなかったのが嘘のように意識がゆっくりと沈んでいくのを感じた。
触れるほど近くにいるはずなのに、遠くから碧玉が物語を紡ぐ声が聞こえる。
薄れゆく意識のなか、その声の主に小さく謝った。
苦しいときに誰かが傍にいられないと眠れないなんて嘘だ。
お腹がすいて苦しいときも、熱を出して倒れた時も誰にも助けを求められない。ただ、つらい時間が過ぎ去るのをじっと我慢して過ごしてきた雪鈴にとって、一人でいることは大したことではなかった。むしろ、具合が悪くても許される現状の方が居心地の悪さを感じるほどだ。
あの時碧玉を引き留めたのは、ただあののままにしてはいけないと思ったからだ。
そして、何も考えないまま、わざわざ紫雲を先に帰してまで残って貰ったのに、いざとなると何を言うべきか適当な言葉が出てこず、気の利いた言葉のかわりに、幼い子供のような「お願い」でわがままに付き合わせている形になっている。これでは本末転倒だ。
自分の不器用さが歯がゆい。
だからと言ってその気持ちを吐露するわけにもいかず、苦い気持ちを抱えたまま深い眠りに落ちた。
*
少し悲しい夢を見た。
むかしむかしある国の王太子は異国から嫁いできたばかりの王太子妃を元気づけため後宮の一角に小さな桃の木を植えた。
「毎年花が咲いたら、どんなんことがあっても二人でここでお祝いをしよう」
そんな小さな約束をして、花が咲くころになると二人で桃の木下で小さな宴を開いた。
それから数年たつとになると王太子の弟に嫁いできた妹や、生まれてきた子供も参加するようになり、次第に宴は賑やかになっていった。
だが、王太子妃が嫁いで10年たったある日、王太子は戦場で落馬して命を落とし、葬儀の喪も明けぬうちに今度は王太子妃とその息子が命を落とした。
次の年の春、新たに後宮の主となった元王太子妃の妹が桃の木を見に行くと、そこには枯れ果てた桃の木があった。
それを見た妹は泣いた。幸せな日の象徴であったものが全てなくなってしまったことが悲しくて。
彼女が生まれた頃から荒れはてていた大地はさらに深刻さを増しており、故国も既に滅んでいた。夫は幼馴染の妾にご執心で、めったに訪れてこない。国内に碌な後見も寵もない女では、近いうちに名目上あたえられた王太子妃の地位も返上することになる。
どんなに辛いことがあっても、この桃の木の下だけでは幸せであれた。笑っていられた。もう少し、もう少し、頑張っていこうと思えた。
その思い出を共有した人は誰一人としていなくなり、覚えているのは自身だけだ。
ひとしきり泣き終わると、『私』は木に誓った。
もし、この木がまたいつか花をつけたら、宴を開こう。今度は自分で幸せを作るのだ。
だから……
『私』が木を見上げた時に一陣の風が巻き起こり、それに押し出されるかのように意識が浮上した。
「そうして、いつか花は咲き、彼女は多くの家族に囲まれて幸せになりました」
碧玉がそう物語を締めくくる声が耳に届いた。
(寝物語をそのまま夢に見てたんだ)
ぼんやりとした意識のまま、先ほど見た夢を思い返す。途中まで俯瞰して景色のように見ていたのに途中から『妹』の中に入っていた。
(孤独でしかなかった彼女は、幸せになろうと決意をして、どうやって幸せになったのだろう?)
「雪?」
うっすらと目を開けた雪鈴に気が付いた碧玉から声がかけられる。しかし、再び意識は沈みだし、自然と瞼が下りてくる。
完全に閉じられる前の視界に、繋がれたままの手が目に入った。初めにつないだ時は雪鈴より少し冷たかった手が、熱を分け与えていたためか、いまではほぼ同じ体温になっている事に気が付くと、胸の奥にじんわりと温かい何かが広がるのを感じた。
(……あぁ、そうだ)
一人でいても平気だけれど、一緒にだれかが傍にいてくれると安心する。ただ、それだけのことがとても嬉しい。
結局、気を使うつもりで使わせてしまって、しかもそれを嬉しいと感じる自分は本当にどうしようもない。
「そばにいてくれて、ありがとう」
せめてその気持ちを伝えなければと口を動かしたが、それが音になって伝わったか分かる前に雪鈴の意識は眠りについた。
だから、優しく握られた手にこめられた力が強くなったことに気づくことはなかった。




