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淑貴宮に戻った雪鈴は自分の部屋がある棟にさしかかったあたりで、蓮の部屋の近くに一人の女性がいることに気が付いた。髪に白いものが混じっているが、見た目は20代半ばほどと若い。胸元にあててある片手に何かを大事そうに抱えている様だが、長い裳裾がそれを隠しておりそれが何かは分からなかった。
(……あれは、たしか花琳姫の所の侍女?)
基本三華姫に関わることは燈蛍が取り仕切っており、雪鈴は三華姫の周りにいる女性たちとはあまり接触することはないが、情報収集もかねて、ある程度の顔は覚えるようにしていた。特に、彼女は花琳姫の姿を見かけるときに必ずといって傍にいるので、かなり近しい間柄の存在として印象に残っていた人物であり、確か花琳姫は彼女のことを則と呼んでいたはずだ。
三華姫がいない今、わざわざ他の姫のいる棟に来る理由が思い当たらず、何の用かと声をかけようとしたが、則は周りを確認するかの様に首を動かした後、足早に花琳姫のいる棟に去って行った。
その姿が見えなくなると、雪鈴は何となしに蓮の部屋をのぞいた。しかし、部屋の中は昨夜みた通りの状態で、特に変わった様子は見られなかったので、自分の部屋に戻ろうと踵を返そうとした際、かすかな違和感を感じ、もう一度蓮の部屋に視線を戻した。
違和感の正体はすぐに気付いた。昨日机の上に置いたはずの文がなくなっていたのだ。
また風か何かで落ちたのかと思い、床下を見るが見当たらず首をかしげていると後ろから声をかけられた。
「雪。何しているの?」
振り向くと、紫雲が扉から顔をのぞかせていた。
「貴女官?どうしてここに」
「ここは、李女官の部屋でしょう?何しているの?」
紫雲がなぜ三華姫の宮に分からず驚いていると、碧玉は雪鈴の問いに答えずにもう一度同じ質問を繰り返した。
「えっと、昨日の夜李女官の部屋で文が置いてあったのをみたんですけど、今見たらなくなっているので探していました」
「文?」
「はい」
「もしかして、雪鈴が来たとき、誰かこの部屋の近くにいた?」
「?先ほど花琳姫の侍女の方を見ましたが……」
雪鈴の答えに、碧玉は唇に手を当ててすこし考えるようなそぶりを見せた後、何かに納得したように小さく頷くと、どこか貼り付けたような笑顔を向けた。
「なら、問題ないわ」
「それはどういう」
「雪は気にしなくていいの」
それだけ言うと紫雲は雪鈴の元に近づき、手を引いた。引かれた手の力は思いのほか強く、体勢を崩した雪鈴はそのまま前に倒れそうになるが、紫雲の後ろから現れた影が手を伸ばし体を支えた。
「大丈夫?」
「禄女官」
助けてくれたのは碧玉だった。その手を借りて雪鈴が身体を立て直したのを確認すると、碧玉は紫雲に向き直り、頬をふくらませた。
「紫雲、雪は足怪我してる。急に引っ張るの、だめ」
「……そうね、ごめんなさい。急にひっぱったりして」
碧玉の言葉に紫雲は頭を下げ、また雪鈴の手を取ると今度は優しくその手を引いた。
*
「先ほど所用で尚医宮に行ったら、貴方の怪我の状態がひどいってきいたから、お見舞いに来たの。具合いが悪いなら早く休まなくちゃ」
部屋に戻ると、紫雲は櫃にしまっていた寝間着を取り出し、雪鈴に早く寝るように言った。まだ猫の汚した敷布の終わっていないので断ろう視線を合わせると、有無を言わさぬ笑顔で「何?」と聞かれ、大人しく寝るまで帰らない事を悟った。
「みぁ」
「……かわいい」
雪鈴が衝立の向こうで着替えている間、部屋にある椅子で大人しくしていた碧玉はどこからか猫の声に視線をさまよわせると、寝台の隅においてある籠にくるまっている猫たちの姿を認め、目を輝かせた。尚医宮にいくまえに一時的に猫達が眠る場所として雪鈴が用意したもので、もと部屋に置いてあった籠の中に布を敷いただけなのだが、どうやら戻ってくるまで大人しくしていたところを見ると、それほど悪いものでもないらしい。
「猫?どうしてこんなところに?」
「最近母猫の方がこのあたりをうろついていて、今日私の室で出産したんです」
籠に近づいて猫たちの様子を眺めている碧玉の後ろから紫蘭も覗き込んで、母猫に寄り添う仔猫たちの姿に頬を緩ませた。
「可愛いわねぇ。でも、献華祭が終わったら雪は後宮を出ていくでしょう?その時はどうするの」
「それに関しては、北医官が軍部の方で猫を欲しがっている方がいると聞いたので、そちらの方の伝手を頼ることになりました」
「あら、引き取り手はもう見つかっているの。手際がいいわね」
「運がよかったんですよ」
着替え終わり衝立から顔をだすと、紫蘭はそれまで雪鈴が着ていた服を受け取り、早く寝台に入るように促した。
「さ、三華姫も明日戻ってくるのだから、今のうちに休んでおかないと」
「そう、早く寝て」
先ほどまで猫の籠に夢中になっていたはずの碧玉に、せかすように寝台の方に押し込まれ、言われるがままに横になった丁度その時、外の回廊から靴音が聞こえてきた。
足音の主はこちらに向かって近づき、雪鈴の室の前にくるとぴたりと止まった。
「失礼いたします。木侍女、少しよろしいかしら?」
紫雲が目の前にいたため、相手の姿はみえなかったのだが、その声には聞き覚えがあった。
「史……女官?」




