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結局眠れないまま朝を迎えた雪鈴が尚医宮についてから、一刻近くたったが蓮はいまだに目覚める様子を見せていなかった。先ほどまで夜の当直をしていた北医官が、待っている間にとついでくれたユリの花を使ったお茶を進められるがままに飲んでいるいうちに、既に5杯目に突入していた。
「……目覚めませんね」
「そうね~。かなり夜遅くまで飲んでたみたいだから、仕方ないといえば仕方ないのだけど。でも、あなたも眠っていないんでしょう?少し横になったら?」
「いいえ、私は眠くないので大丈夫です」
そういって眠っている蓮の顔をみた。ぐったりとしており、時折寝苦しそうに体を動かしているが、顔色は悪くない。寝返りをうった際に、頬にかかった髪を横にはらうと、わずかに触れた手の感触が気持ちいいのかふにゃりと表情をゆるませた。
いつも凛とした表情とは違う無防備な顔に、雪鈴は手を離すをやめ頭を撫でた。良い家の令嬢らしく手入れの行き届いた髪はさらさらで、手触りの良さについその感触を楽しんでいるとその様子を眺めていた北医官が声をかけた。
「それにしても、木侍女は李女官と随分仲がいいのねぇ」
北医官のにこにこと微笑ましいものを見るような視線に、気恥ずかしくなり手を離した。彼女は朝に交替する医者が来たので、帰る前に少し顔を見せに寄ったとの事だったが、なぜかわざわざよその部屋から椅子を部屋に持ち込んで腰をおちつけると、雪鈴と今日生まれた猫の話などたわいない話を聞きたがった。
ただじっと蓮が目覚めるのを待つよりは、相手がいる方が気もまぎれていいのだけれど、どうして夜番で寝てないのにその時間を削ってまでわざわざ話しかけてくる理由がよくわからなかった。
(医者として一度関わった患者が気にかかるってことなのかな……)
雪鈴は北医官とは初対面だが、いつも怪我を見てくれている英医官の尊敬する上司として、名前だけは何度か聞いたことがあった。
曰く、医者の一族の出で、気まぐれで行動が読めない人だが、国王夫妻の信任も厚くどんな事態になっても落ち着いた態度で冷静に事に対処する優秀な医者であるとのことだった。雪鈴の知る街医者といえば、祭りで羽目を外し過ぎて二日酔いで寝込んでいる男たちを蹴飛ばして「自業自得だ」というような人だったので、どこか粗野な印象があったのだがやっぱり宮仕えともなると色々と違うのだなと感心した。
「そうですか?」
「えぇ、李女官はしっかりしてる子だから、いままで特定の人と一緒にいることがなかったの」
「?それは私が不器用なので、李女官が色々気にかけてくれているだけですよ」
しっかりしていることと、特定の誰かと仲良くする関連性がよくわからなかったが、わざわざ聞くのもはばかられ、適当に言葉をかえすと北医官は雪鈴の足を見てから頷いた。
「確かにそうねぇ。後宮へ入って半月も経たずにここの常連となっているんだもの、英医官も心配していたわよ。献華祭が終わった頃には満身創痍になって後宮から出られなくなるんじゃないかって」
その台詞に苦い笑いが漏れた。後宮にきて以来、特に何かに巻き込まれたわけでもないのに日々増える怪我に散々周りから心配されており、どじな子として―あながち間違いではないが―認識されている。
しかし、後宮の外で働いていた時の方が、物理的な危険は多いに関わらず特にここ一年は殆ど大きな怪我もなく過ごせていた。大体普通に転んでもせいぜい擦り傷程度ですむはずなのに、後宮では何故か色々な要素が重なって怪我が悪化している現状にため息をつきたくなる。
「そういえば、犬の声に驚いて怪我をしたって聞いたけど犬が苦手なの?」
「少し。昔幼い頃犬に襲われたことがあって、それ以来どうも……」
まだ采国に着く前、兄とはぐれ山で迷子になり、飢えた野犬に食べられかけた事がある。丁度山賊退治の帰りに通りかかった軍人に助けてもらい事なき得たものの、以来犬はどうも苦手であったりする。
「そう、それは仕方ないわね。でも不思議ねぇ、一応神犬の血を継いでいて賢い子だからむやみやたらと穴を掘ったり、人に吠え掛かったりしないのだけれど」
繋いでおいてもらうようお願いした方がいいのかしら?と1人ごちる北医官の様子に雪鈴は首を傾げた。
姿を見せて直接唸られたのならともかく、あくまでたまたま怪我をする要因となっただけなので、雪鈴としては正拳に対して特に含むものはないのだが、蓮を派遣した典女官といい、なぜか怪我に正拳が関係している事に対して妙に神経質になっている様に思う。
「あの「ここ……は?」」
理由を聞こうと口を開いた時、寝ていたはずの蓮が雪鈴の声に被さった。寝台の方を見ると、蓮は普段と違う天井を不思議そうに見ていた。
「気が付いた?大丈夫?」
蓮はゆっくりと身を起こすと、雪鈴に目の焦点を合わせた。
「雪……?」
「うん。おはよう、蓮」
再度声をかけると蓮は目を見開いて、はじかれたように寝台から出ようとしたが二日酔いで頭が痛むのか手で頭を抑えた。
「あれ…私、なんで……」
目が覚めたら見知らぬ場所にいることに驚いているのか、そんなつぶやきを漏らした。
「お酒の飲み過ぎで倒れて尚医宮に運ばれたの。はい、水を飲んで」
「あ……ありがとうございます……」
北医官が水の入った茶碗を渡し、それに対しお礼をかえしているもののどこか心あらずの状態だ。心なしか茶碗を持つ手が震えている気がする。
「大丈夫よ、ただの水だから。飲んだらもう一度寝なおした方がいいわ」
そう優しく声をかけられ、蓮は一口だけ水を飲むとゆっくりと体を横たえ目をつぶった。再び寝たのを
確認すると、北医官が雪鈴の方を振り返った。
「私たち、うるさかったみたいね。李女官たぶんまだ寝ていると思うから早くあなたも室に戻って体を休めた方がいいわ。猫たちもまっているでしょう?」
「はい。すみませんこちらこそ、長居して」
「付き添いなんだから遠慮しなくていいのに。そうそう、猫といえば軍医として働いている親戚に猫好きがいるのよ、もしよかったら話通しとくけどどうする?」
「本当ですか?」
先ほどまで猫の話をしていた時は、ただ頷いて聞いているだけだったので、期待していなかった所に貰い手の話題を振られ、思わず北医官の顔を見た。
「後宮から新しく軍の診療所に移動する子がいるから、その子の件も併せて返事もらうのに数日かかるけど、わかりしだい英医官に伝言頼むようにしとくから」
「すいません。では、お願いします」
北医官の話に少し引っかかりを覚えたが、猫の貰い手候補が現れたことが心の大半を占めていたためその疑問のかわりに感謝の言葉を口にして雪鈴は尚医宮を後にした。
※
雪鈴が去った後、尚医宮にある蓮の寝ている部屋に戻った北医官は飲み終わった茶器の片づけをしていた。
茶缶に入っていた“薬”を元あった包装紙に移し替ている最中に、少し手元がぶれて、中身がわずかにちらばったことにより、におってきた花の香りに袖で口元を抑えた。
薬としては害のない部類である。ほんの一つまみ分飲んだだけで眠気が襲ってきて一晩ぐっすり眠れると不眠症の女官に人気の品だ。
しかし、彼女は5杯飲んでも全く影響がないようだった。毎日“飴”を食べいるとしか言っていなかったが、多分知人とやらが後宮に行く彼女に気をきかせて渡した解毒薬の類なのだろう。それを偶然に蓮が食べたことによって蓮に降りかかった危機は回避され、逆にそれを食べた事によって雪鈴に解熱剤がきかなかった事を考えると、皮肉としかいいようがない。
「それにしても李女官は本当に凄いの強運の持ち主だわ。あの将軍といい、尚食長といい、木侍女といい周りと偶然に恵まれてるわね、これで陸帝まで巻き込んだら月麗王妃並みじゃない」
まぁ、陸帝が月麗王妃以外の事で動くことなんてあるはずがないんだろうけど。と最後にその言葉を否定し、こぼれた薬を手でかき集めた。
そうこぼした自分の言葉が、ある意味真実をついていると同時に色んな意味でひっくり返されることになるのだが、北医官がそれを知るのは、献華祭が終わってからさらにずっと後の事であった。
※この後宮では医官は女官試験とはまた別途試験があり、ある意味専門職なので医官よびになります。




