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風が強く吹いてきた。
雪鈴は落ち込んだ気分のまましばらくぼんやりとしていたが、にわかに強くなってきた風にあおられる洗濯物に気が付きあたりを見回すと、周囲が薄暗くなり、空を雲が覆い始めていた。雨が近いのかもしれない。
足をかばうように立ち上がり、洗濯物が乾いているのを確認すると、手早く近くにおいてあった籠に取り込んでゆく。
(落ち込んでいても、現状がどうにかなるわけでもないのよね)
どんな事情があろうと一度後宮に入った以上少なくとも献華祭が終わるまでは、よほどの理由がなければ出ることはできない。たとえ、陽賢の言われたことがろくにできてなかろうと、菖歌姫や燈蛍の足をひっぱっていようと致命的な失敗を犯さない限りはできることをやるしかないのだ。
一時は後宮の下女を志願したこともあるが、これでは落とされるのも当然だ。王城での下男の仕事は体力的にきつく上司や同僚は男ばかりだが、身分もそれほど変わらず気さくな人が多い。気兼ねしないという部分ではとても楽だった。
そういう意味では、自分は本当に恵まれた境遇にいたのだとしみじみと思う。献華祭の間は体調不良で休みということになっており、かわりに朱雀一族の人に働いていてもらっているが戻ったら精一杯働こうと心に決めた。
淑貴宮で菖歌姫に与えられた建物の一室に籠を運び込み、洗濯物を畳みはじめようとした時、とぽつぽつと雨音が聞こえてきた。
どうやら雨が降るという予想は当たっていたらしい。他の女官達は突然の雨に急いでどこかの軒下まで走る気配を感じる。
雨の音だけが聞こえる静かな空間に、なにとなくむかし聞いた童歌を歌いだす。
歌詞は覚えていないので、いい加減な言葉の羅列を音程に乗せているので歌としてはほとんど形を成していないが、小さい声で紡ぐ歌は雨音に消されて周りには聞こえないだろう。
雨は好きだ。
もう顔も覚えていない母が雨の日はこの歌を歌いながら針仕事をしていた。いつも畑に出ていた父もこの日ばかりは家にいて、兄と一緒に縄を編んでいた遠い記憶を思い出す。
今より実りが少なく、若い人手もいないから生活も大変だったはずなのに、父も母も笑っていた思い出しかない。
懐かしい記憶に浸りながら、丁寧に衣服を畳んでいると入り口の方から声が聞こえてきた。
もしや、燈蛍がきたのだろうかと振り向くと薄茶色の雌猫が雨に濡れた体のまま入り口の前に座っていた。
「にぁー」
妊娠しているのだろう、痩せた体に不釣り合いに膨れた大きなお腹がそれを主張していた。猫はなぜか室に入ってこないで、しきりに入り口の前で鳴いていた。
「どうしたの?」
最初は猫がいるな程度の関心しか持たなかったのだが、段々ひどくなる鳴き声に無視ができなくなり、汚れてもよさそうな布を持ち出すと、猫の方へ歩みよる。
妊娠中の動物は警戒心が強く、めったなことでは触ることができないのに猫は自ら近づき布を持った雪鈴の手にすり寄るようにして喉をならした。
体についた水滴をふき取ると、猫はさらに体全体を使って甘えるような仕草をする。
(ずいぶんと人懐こいけど、後宮の猫なのかしら?だとしても、飼っているのならこんなに痩せているはずもないし)
不思議に思いつつも、可愛らしく甘えてくる生き物を邪険にできるはずもなく、頭を撫でさする。
猫はそれを嬉しく思ったのか、高い声でにぁと応えるように鳴いた。
しばらくされるがままになっていた猫はしかし、こちらに向かってくる足音が聞こえると先ほどまでの様子が嘘のように雪鈴から離れ、さっと急ぐように室をでていってしまった。
「ちょ、猫……」
「雪。ここにいたの?」
さっさと姿を消してしまった猫の代わりに入り口から顔を現したのは、蓮だった。
「雨が降ってきたのに、洗濯物が取り込んであるって燈蛍小姐がいっていたからもしやとおもって来てみたけど畳んでくれてたんだ。足痛めてるんだから無理しないでいいのに」
「……でも、私他に何もできてないし」
「してるじゃない、今。それより畳み終わったやつ運ぶの手伝うわ。さっき花淋姫が菖歌姫のとこからやっとでてってくれたからあとは夕方まで暇みたいだし、これ片づけたら一休みしましょう」
そういうと、蓮は積まれた衣服を持ち上げる。雪鈴も残った衣類を畳み終えると、二人は一緒に室を出た。
その際、室のすぐそばに生えている茂みに薄茶色のしっぽが見えたので蓮に声をかける。
「そういえば、後宮って猫も飼っているんですか?」
「猫?尚食長が対ねずみ用に何匹か飼っているらしいけど、それ以外は迷い込んだ野良猫よ。後宮は正拳の縄張りのせいかあんまり数はみないけどね。それがどうかしたの?」
「さっき猫をみかけたので」
ではあれは後宮の野良猫なのだろうとあたりをつける。 先ほどの猫は雨に濡れたので、雨宿りをしにきただけだろうしそうでなければ臨月も近い野良猫が人の見える場所に近づくとは思えない。
甘えてきたのは、猫のきまぐれだろうと勝手に結論づけて雪鈴の猫に対する思考はそこで終わった。
しかし雪鈴の考えとは裏腹に、それからも猫は人のいないところで雪鈴の元に姿を見せることとなる。




