姉に毒を盛られまして
そのワインを一口飲んだ途端に、私は教会内の執務室の床に崩れ落ちた。
視界がぐるぐると回り、手足に力が入らなくなる。喉が焼けるような痛みに、息が止まりそうになった。
「お姉……様」
私は必死に力を振り絞って顔を上げ、傍らに立つ女性に助けを求める。
すると、彼女は薄ら笑いを浮かべてこう言った。
「ごめんなさいねえ、アリアナ」
その瞬間に私は悟った。これはお姉様の仕業なのだ、と。
「残念だけど、あんたはこれで終わりよ」
お姉様がこちらに背を向けた。
私の瞼は徐々に重くなり、指の先から体が冷たくなっていく。そして、お姉様が執務室の扉を閉めるのと同時に、私の視界は真っ暗になった。
****
私が聖女に選ばれたのは、十年前のこと。先代の聖女が亡くなる前に神託によって、私を名指ししたのだ。当時の私は十歳だった。
聖女になるのは名誉なこと。平凡な貴族令嬢の私に降って湧いた幸運を、周囲は祝福してくれた。
たった一人を除いて。
それが一つ年上の私の姉だった。
お姉様は小さい頃からなんでもよくできた。それに引き換え、私は勉強でも、作法でも、ダンスでも、昔からお姉様に勝てたことがない。
それは容姿についても同じこと。お姉様は美しかった。艶めく金髪は華やかで、手足はすらりとしている。
私はそれとは正反対だ。
濁ったような金の髪は鳥の巣みたいに広がっているし、体型だってぽっちゃり気味。顔立ちもぱっとせず、低い鼻の周りにはソバカスが散っている。
それなのに、神が選んだのはそんな冴えない妹のほうだったのだ。お姉様の不満は爆発した。
――なんでこのあたしを差し置いて、あんたなんかが聖女になれるわけ?
お姉様は荒れに荒れた。当然、その被害を受けるのは私だ。
聖女の姉妹は、補佐役になるというしきたりがある。その慣例に従って、お姉様も聖女補佐官になった。
けれど、お姉様が補佐役の仕事をしたことなど一度でもあっただろうか。
――あんたは偉い聖女様なんだから、このくらい自分でできるでしょう?
そう言って、お姉様はいつも怠けていた。お陰で私は、目の下にクマを作りながら、毎日毎日お姉様の仕事までこなす始末だ。
それだけならまだしも、私は日常的にお姉様から嫌がらせを受けていた。ものを壊されたり、水をかけられたり。ひどい時には階段から突き落とされそうになったこともある。
だから、もっと警戒するべきだったのだろう。
お姉様がくれたワインに毒が入っているかもしれないと、飲む前に気づくべきだったのだ。そんなことは思いもしなかったせいで、私はこうして執務室の床に倒れている。
けれど、かえって良かったのかもしれない。
過酷な状況に置かれた私は、この十年間、ずっと聖女になんてならなければよかったと悔いていた。
でも、そんな日々に終わりが来ることになったのだ。お姉様に毒殺されるという、思ってもみない形ではあったけれど。
ああ、どうかあの世は楽しいところでありますように。できれば天国へ行って、そこで悩みのない生活を送れますように……。
「そんなまさか!」
突然の金切り声がして、私の意識は覚醒した。といっても、跳ね起きたり、目を開けたりしたわけじゃない。体が重たくて、指一本、動かせなかったから。
「聖女様! どうか目を覚まして……!」
この声は……大司教様? 聖女を除けば、教会で一番偉い方だ。
「無駄ですよ」
グスグスと鼻をすすりながら言ったのは、お姉様だ。
「あたしが見つけた時は、もう息をしていませんでした。近くにこれが……」
カサカサと紙が擦れる音がする。大司教様が何かを音読するような口調になった。
「私は聖女に相応しくありません。ですから、死をもって辞任することにいたします。後任の聖女は、私の姉に任せます。姉は私と違い、とても優秀ですから……」
一呼吸置いて、大司教様が続ける。
「……これは遺書ですか?」
「かわいそうなアリアナ!」
お姉様はわざとらしく嘆いてみせた。
「聖女の責務の重みに耐えかねて自殺するなんて! あの子がこんなに悩んでいると知っていたら、姉としてもっとできることがあったはずなのに……!」
「補佐官殿、そんなに落ち込まないでください」
大司教様が慰めるような声を出した。
「とにかく、このことを皆に知らせなければ。補佐官殿も一緒に来てくださいますか?」
「ええ、もちろん。ところで、後任の聖女についてですが……」
「私としては、できれば聖女様の意思を尊重したいと思っております……」
ドアが閉まる音がした。状況が見え始めた私は愕然となる。
お姉様は私を自殺に見せかけて殺した。そして、聖女の座を乗っ取る気でいるのだ。ご丁寧に偽物の遺書まで用意して。
お姉様の唯一の想定外といえば、こうして私が生きていることだろう。
……いや、本当に生きているといえるだろうか?
今の私は話すこともできなければ、動くこともできない。呼吸もしていないかもしれないし、心臓だって止まっているかも。体だって冷たいに違いない。
意識のある死体。
そういう言葉がピッタリだ。私は奇跡によってまだあの世行きになっていない死体なのである。
もしかして、生か死か、私は未来を選べたりするんだろうか。
だったら、死の一択だ。ここで生き延びてしまえば、また聖女を続けることになる。そうしたら、お姉様にいじめられる日々に逆戻りだ。
そんなことを考えている間に、私の遺体はどこかのベッドに寝かされた。教会の関係者が次々にやって来て、枕元で悲しみの言葉を口にする。
「きっと補佐官殿がいじめたせいだわ」
「こんなことになるくらいなら、脅しなんかに屈しないで庇ってあげればよかった」
脅し? お姉様がそんなことを? 教会の関係者を口先で騙して、自分の所業を隠しているのは知っていたけれど……。
お姉様の被害者が私だけではないと知って、私は動揺していた。もしこのまま私が死んだら、お姉様が皆を脅迫した件も闇に葬られてしまうんだろうか?
「アリアナ!」
教会の関係者が引き上げていったあと、辺りに大声が響いた。続いて聞こえてくる、お姉様の慌てたような声。
「マーカス殿下、落ち着いてください!」
「落ち着けだって!? 死んだのは俺の婚約者なんだぞ!?」
スプリングが荒々しく沈む感触がした。誰かが私の傍らに寄り添ったのだろう。近くから聞こえてきたのは、先ほどとは打って変わって、気落ちした男性の声だった。
「アリアナ……どうして……」
マーカス様はすっかり意気消沈しているようだった。こんなに感情的に振る舞う彼は初めてだったから、私は戸惑ってしまう。
「マーカス殿下、しっかりなさってください」
マーカス様が落ち込んでいるのが意外だったのか、お姉様の声にも驚きが表れていた。
「もうどうやってもアリアナは戻ってきません。そんなことより、未来に目を向けましょう? 次の聖女にあたしが選ばれるという話はご存知ですか? 明日、アリアナの葬儀が終わり次第、叙任式を行うことになっているのです。もしよろしければ、その場であたしを殿下の新しい婚約者に……」
「黙れ」
マーカス様に静かに威嚇され、お姉様は言葉を切った。
「婚約だって? 妹が死んだばかりだというのに、よくもそんなことが言えたな」
「ですが、殿下……」
「出ていけ」
冷たく突き放され、さすがのお姉様もこれ以上しつこくする気にはなれなかったらしい。扉が閉まる音がした。どうやらお姉様は退室したようだ。
やっぱり今日のマーカス様は変だ。
マーカス様は王太子。そして、私の婚約者だ。
けれど、マーカス様は私にはあまり興味がないようだった。
お互いに公務が忙しいから滅多に会えないし、たまに顔を合わせることがあっても、マーカス様はいつも難しい顔をして黙り込んでばかり。
王太子という責任重大な立場にいるのだから、ストレスだって溜っているだろうし、無理もないだろうけど。
それなのに、この変わりよう。彼は私の死を真剣に悼んでいるようだった。
これじゃあまるで、私を愛してくれているみたいじゃない?
「アリアナ……」
マーカス様が私の手を握った。
「お前の手はこんな感触だったんだな」
マーカス様の声は震えていた。
「こんなに冷たくなってから知るなんて……」
私もマーカス様と同じで、初めて知る婚約者の手の感触に心を動かされていた。ゴツゴツして骨張っている。けれど、肌は滑らかだ。
「今まで婚約者らしいことを何もしてやれなくてすまなかった。聖女の重責を担うお前の負担にならないように、一歩引いた態度で接しようと決めていたばっかりに……。……俺は本当に愚か者だ」
マーカス様が体を動かす気配がした。耳元に彼の息がかかる。
「今まで一度も言えなかったが……。愛してる、アリアナ」
マーカス様が離れていく気配がした。私はとっさに、「行かないで!」と叫びそうになる。けれど、声は出ず、体も動かない。
「やり直せるのなら、いくらでも償おう。けれど、もうそんな機会は……」
そう呟きながらマーカス様が部屋から出ていった。一人取り残された私はポカンとなる。
――愛してる、アリアナ。
あれは夢? それとも、私の聞き間違い?
……ううん、そうじゃない。マーカス様は確かに言った。私を愛していると。
思いもかけずに知った意外な真相に、私は困惑していた。マーカス様は私に興味がなかったわけではない。ただ、遠慮していただけだったんだ。
そして、それは私も同じだった。王太子という彼の立場を思って、積極的にマーカス様の心を知ろうとしなかった。
私たち、ひどいすれ違いをしていたものだ。
ごめんなさい、マーカス様。謝らなければならないのは、私も同じです。私もあなたにとって、冷たい婚約者だったでしょう?
ああ……、もし生き返れるのなら、やり直したい。
ふとそんな思いが芽生えて、私は心底驚いた。何を考えているの、私。生き返ったら、どうなるのか考えてみなさい。またお姉様にいじめられるのよ? それでいいの?
……でも、ここで死んでしまったら、誰も救われないんじゃないの?
聖女を守れたかもしれないと後悔する教会の関係者。
もっと婚約者に愛情を注げば良かった、と嘆くマーカス様。
それから……お姉様に軽んじられ続けた挙げ句、こうして殺されてしまった私。
……ダメだ。やっぱりこんなのは間違っている。
間違っているから……チャンスをください。
もう一度だけ、やり直すチャンスを。
私は一心に祈りながらその時を――奇跡が起きる瞬間を待ち続けた。
****
聖女アリアナの葬儀は、翌日執り行われた。
聖女の突然の死に誰もが胸を痛め、出席者たちのすすり泣く声が教会の天井までこだまする。
そんな中、大司教が長い弔辞を読み終わり、次の聖女を発表すると宣言した。
「この決定は、聖女アリアナ様のご遺言によるものです」
大司教が厳かに出席者たちに告げる。
「次代の聖女は、アリアナ様の姉君の……」
葬儀の場に不似合いな甲高い悲鳴が聞こえてきて、大司教は言葉を切った。
大声を上げたのは、先ほど名指しされたばかりの聖女補佐官だった。
「い、今、う、動いて……!」
補佐官は、祭壇に立てかけられた蓋の閉まっていない妹の棺を指差して、まっ青になっている。彼女の近くに座るマーカスが、「静かにしろ」とたしなめた。
けれど、その声は補佐官には届いていないようだった。相変わらず、彼女の視線は棺に釘付けだ。
補佐官の異様な怯え方に好奇心を刺激され、出席者の目が祭壇に吸い寄せられる。
その時だった。信じがたい出来事が起こったのは。
「私はまだ死んでいません」
堂々とした声が、遺体の口から発せられる。
そっと目を開けた聖女は、ユリが敷き詰められた棺の中から、ゆっくりと身を起こした。
****
私が祭壇の前に立つと、辺りは一瞬、しんと静まり返った。
けれど、誰かのひとことが、その静寂を破る。
「奇跡だ!」
ざわめきはあっという間に広がっていく。あちこちで歓喜の声が上がった。
「聖女様が蘇った!」
「神がアリアナ様をお守りくださったんだ!」
「アリアナ様! 聖女アリアナ様!」
皆の喜びが爆破する中、お姉様だけが血の気の引いた顔をしていた。
「嘘よ! 嘘だわ!」
お姉様が髪を振り乱して叫ぶ。
「アリアナは死んだのよ! あたしの毒はちゃんと効いたわ! 生きてるなんてあり得ない……!」
「……おい、今何と言った?」
半狂乱になっていたお姉様だったけれど、マーカス様に鋭い口調で問い詰められて、ぎくりと身を竦ませる。
「お前の毒だって? どういうことか説明してもらおうか」
「や、やだ! そんなことは言っていませんわ」
お姉様は顔を強ばらせながら首を振った。
「聞き間違いではなくって? ……ねえ、皆さん。あたしが大切な妹に毒を盛るわけないでしょう?」
お姉様が同意を求めて、周囲の教会関係者を見渡した。
けれど、お姉様の期待したような反応は得られない。皆は顔を見合わせると、意を決したように首を横に振った。
「補佐官殿はひどい方です」
「今までずっと、聖女様をいじめていました」
「だから、面白半分でアリアナ様に毒を飲ませてもおかしくありません」
「あ、あんたたち……!」
お姉様の美しい顔が怒りで歪んだ。大司教様がお姉様の肩に手を置く。
「補佐官殿。どうやら詳しいお話を聞く必要がありそうですね。……連れていきなさい」
大司教様が衛兵に目配せする。
衛兵に教会の外へ引きずられていきながら、お姉様が私に向かって叫んだ。
「アリアナ! 毒を飲むふりをして、あたしを陥れたのね!」
「いいえ、お姉様」
私ははっきりと否定した。
「私が蘇ったのは、私が聖女だからですよ。……でも、悪人のあなたに救いはないでしょうね」
お姉様の姿が見えなくなる。
聖女が生き返り、殺人犯が捕縛された。
こうして私の葬儀は、慌ただしく中止となったのだった。
****
それからしばらくして、お姉様の追放処分が決まった。財産も身分も取り上げられたお姉様が乗る異国行きの船が出航するのを、私は港で見送る。
そんな私に着いてきてくれたのはマーカス様だった。
「一件落着、だな」
マーカス様が私の肩に手を回す。
やり直せるならいくらでも償う、という言葉どおり、今のマーカス様は以前とは別人のようだった。
昔の彼なら、こんなふうに親密に触れてくることはなかっただろう。それどころか、一緒に外出すらしなかったかもしれない。
「戻ろう。潮風に当たりすぎると髪が傷む。アリアナの体に何かあったら大変だ」
私のふわふわした金髪にマーカス様が頬を寄せる。私たちは馬車に乗り込んだ。
「最近はどうだ? 困ったことはないか?」
隣のシートに座ったマーカス様が尋ねる。まだ手は肩に回されたままだ。
「問題ありませんよ。今まで私を助けられなかったことを反省しているのか、皆さんよくしてくれています。……でも、そんなことはご存知でしょう?」
公務で忙しいだろうに、マーカス様は毎日私に会いに教会に顔を出していたのだから。
「だが、不便はないか? 聖女補佐官の座はまだ空席だろう?」
「ええ。ですが、大司教様がもうすぐ新任が来るとおっしゃっていました」
「そうか……」
なぜかマーカス様は残念そうだ。私は「どうなさいました?」と尋ねる。
「いや、俺が立候補しようと思っていたものだから……」
「マーカス様が補佐官に……?」
「いい思いつきだろう? これでアリアナともっと一緒にいられる」
毎日私に会いにきているというのに、マーカス様にとっては、それでもまだ足りないらしい。
彼は今まで、こんな豊かな愛情をどこに隠していたのだろう。私は心が満たされていくのを感じる。
「そのお気持ちだけで充分です」
私は優しく言った。
「それに、補佐官は聖女がしない仕事をする係ですから、あまり私とは一緒にいられないと思いますよ」
「なんだ、そうなのか」
マーカス様は拍子抜けしたような顔になる。
「それなら、何の役職なら同じ時間を過ごせるんだ? 鞄持ちか? 給仕係か? ……いや」
ふと、マーカス様は目を輝かせた。
「王太子妃、か?」
マーカス様にうっとりと囁かれ、私の心臓が跳ねた。知らず知らずの内に頬が緩む。
「ええ、そうですね」
はにかみながら同意すると、マーカス様が私を引き寄せた。私は彼の腕の中にすっぽりと収まる。
「愛してる、アリアナ」
それは、死の淵でも聞いた愛の言葉。
けれど今回はあの時と違って、きちんと返事ができる。
「私も愛しています、マーカス様」
このひとことを言うためだけでも、もう一度生きることを選択した意味はあっただろう。
そう思いながら、私はマーカス様に寄り添って微笑んだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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