憧れの騎士様は、私のことだけを忘れてしまったようです
◤片思い────
彼のことは、遠くから見つめているだけだった。もう、好きになったきっかけも思い出せない。気がついたときには、好きで好きでどうしようもなかった。
何でこんなに好きなんだろう。交わした言葉も数える程なのに。
彼が通りかかると目で追ってしまうし、挨拶できた日は一日幸せ。
望みの無い片思いであることは自分でもよく分かっていた。
私は地方貴族の娘で、王室併設の研究棟に務めるヒラ研究員。彼は王室に連なる家系の嫡男で、婚約者こそいないものの王配候補という噂まで出ている。それに加えて騎士らしい均整の取れた体に、美しいお顔。無表情に見えるけど実は分け隔て無く優しいし、私のような取るに足らない者にだって微笑んでくれる。
◤始まらなかった恋────
(午後からはまず書類整理かな。)
そんなことを考えながら研究棟に戻っていると、ふと目に入った背中だけですぐ分かってしまった。
(アシュレイ様!)
この道を通っているということは研究棟に用があるんだわ。
相変わらず背筋が伸びて、後ろ姿だけでも美しい人なのが分かる。王宮で働く女性達がチラチラと彼を見ているのはいつものことね。騎士服の下にしなやかな筋肉が隠されていることは容易に想像がつくがどこか流麗な所作は変わらない。でも、どこか足取りが重いような?
事故に遭われて、でも、噂では大したお怪我は無かったと聞いたけど…
交わしたことのある言葉は挨拶程度。
それなのに、どうしても気になって、思わず話しかけてしまった。いつもの私ならそんな無謀なこと絶対しないのに。
「あの……失礼いたします!」
アシュレイ様が立ち止まり、こちらを振り返る。
「……はい?」
目が合った瞬間、胸が詰まる。けれど、彼の方は明らかに戸惑ってる。アシュレイ様の怪訝な表情に一瞬で後悔が押し寄せた。
「あの、事故のこと……お加減、いかがかと……」
言いながら、なんだか自分が場違いなことをしている気がして、だんだん声が小さくなる。
アシュレイ様は一瞬、考えるように間を置いて、やがて静かに口を開いた。
「ご心配ありがとうございます。おかげさまで今のところ後遺症も全くなく、この通り無事でした。失礼ですが、お知り合いでしたか?」
言葉は丁寧だけど、私を訝しんでいるのがありありと伝わってきた。それはそうだ。これまで挨拶程度しかしたことない女が、立場も場も身分も上の彼にずけずけと体調のことを聞くなんて、身の程知らずもいいところだった。
途端に自分の愚かな行動が恥ずかしくなる。
「あっ、いえ……何度か研究棟の廊下ですれ違った程度で……ご挨拶したくらいで……」
「研究棟の方でしたか。それは大変失礼しました。実は──事故以来、あまり面識が無い方から突然ご心配のお声がけをいただくことも多くなってしまって」
態度は柔らかくても、拒絶だと思った。彼のような立場の人には、事故後の混乱に乗じて取り入ろうとする人も多いのだろう。私もそのうちの一人と思われたのね。
「そ、そうですよね……! 申し訳ありません。私なんかが軽率に……本当に、すみませんでした……っ」
慌てて頭を下げ、アシュレイ様に背を向けた。
「失礼いたしました!」
小走りでその場を離れて研究棟を目指した。後悔と、恥ずかしさと、胸の痛みが、ぐちゃぐちゃで何も考えられなかった。誰にでも優しいと思って調子に乗って話しかけたりなんてするから!
「あの……っ」
後ろでアシュレイ様が何か言いかけたようにも聞こえたけど、その場から逃げるので精一杯で、聞き取れなかった。
◤騎士の戸惑い────
彼女の姿が見えなくなったあとも、アシュレイはその場から動けずにいた。
「……知らない女性、だったよな?」
アシュレイには妙なひっかかりだけが胸に残っていた。名前も知らない女性なのに妙に心がざわつく。自分の予期せぬ反応に戸惑っていると、後ろから気安い声がした。
「あーあ。女の子泣かせちゃって~。相変わらず悪い男だね~。みんなこんな堅物の何がいいんだか」
振り返ると同僚のカイルが立っていた。彼はアーデン家の子息で、境遇も近いことから子供の頃から親しくしている数少ない友人の一人でもある。
「いきなり話しかけられて驚いただけだよ」
「何言ってんだよセイラちゃんだぞ。何だ?脈なしだからって知らないふりでもすることにしたのか?」
「セイラ…」
カイルに名前を告げられても、記憶の中にはどこにもその名は見つけられなかった。しかし、胸のざわつきだけはいつまでも治まらなかった。
◤失恋────
『面識が無い』
彼にそう言われた時、本当にこの恋に望みは無いのだと思い知らされた。
研究棟で自己紹介はしたことがあるし、その後会うたびに挨拶くらいしていた。それすら忘れられているくらい興味がない存在なのだと突きつけられて、さすがに落ち込む。
別に望みがあると思っていた訳じゃないけど…
研究棟に来たとき、いつも微笑みかけてくれていたと思ったのは勘違いだったのね。ああ、恥ずかしい。
後から入ってきたアシュレイ様と、そのご友人のカイル様が見えて、すぐに研究室に逃げようとしたけど間に合わず、彼らの会話が聞こえてしまった。
『お、おいセイラちゃんだぞ?いつも彼女に会うたびにデレデレしてたじゃないか』
私の姿は二人からは見えてないみたい。
『人聞きの悪いこと言うな。俺はあんな子見たことも無い』
彼が不快そうに返すのが聞こえてしまって、私の初恋は決定的に終わりを告げた。
始まっても無かったけど。
◤仕事に生きよう────
元々遠くから眺めているだけのつもりだった恋だったけど、意図せず自分で終わらせに行ってしまった。顔も覚えられていないなんて、友人にすらなれないじゃない。
もう仕事に生きるしか無いわ!先輩のローラさんも長年の彼氏と別れてから生き生きとしてるし、私には恋なんて必要ないのよ!
いま研究してる強化魔法の術式、ちょっと改善すれば見込みがあると思うのよね。あれが上手くいけば使用する魔力も大幅に削減できるし、遠征先でも有用だ。
その後もアシュレイ様の姿を研究棟で見かけることはあったけど、顔を見ても辛くなるだけなので、できる限り顔を合わせないようにした。元々騎士団のトップと、研究棟のヒラ研究員には仕事上の関わりはほとんど無かったのは不幸中の幸いだった。
初恋を忘れるために仕事を頑張っていたのに、その結果、初恋と仕事をすることになるなんて、このときは思いもしなかった。
***
「最近がんばってるじゃない」
新しい魔法の実験を繰り返しているところに、先輩のローラさんに声をかけられた。
「あ、おつかれさまです。あと少し上手くいかないところがあって色々試しているところなんです」
「あなた、才能あるんだからがんばりなさいよ。しょうもない男に惑わされたりしないようにね」
後半は妙に実感がこもっていて重みがある。
「はい、肝に銘じます」
「その調子よ。あなたさえよければ新しいプロジェクトにも推薦しておくわ」
ちょうど今やっている実験も一段落する見通しが立ってきたので、その推薦を受け入れることにした。
それなのに、忘れるための努力をしている初恋が、やりがいと共に目の前に現れることになった。
◤再会と交流────
「…よろしく」
「よろしくお願いします」
ほらきっとまた忘れてる。忘れられてるどころか、前回より素っ気ない気がする。
ローラさんが推薦してくれたプロジェクトは何と、アシュレイ様が所属する騎士団との共同研究案件だった。武器や防具を魔法で強化しているが、時間の経過と共にその効果は薄れてしまう。平時である今のうちに、それを改善しようという中々の重要なプロジェクトだった。
プロジェクト自体にはもちろん二人だけでなく多くの人が関わっている。でも、騎士団の中でも実力と発言力を兼ね備えたアシュレイ様と、手前味噌ながら強化魔法の理論に精通した私が直接やりとりをする機会が多くなるのは必然だった。
いざ始まると、研究は面白いように進んだ。何しろ息がぴったりで。アシュレイ様が次にやりたいことが手に取るように分かったし、アシュレイ様も私の考えをすぐさま理解してくれた。まるで昔から組んでいたように。彼のことを諦めようと思ったら、逆にこんなに近づいてしまうなんてなんて皮肉なんだろう。
でも、研究は楽しかったけど、それが上手く行けば行くほど一層苦しさが募った。アシュレイ様と距離は近づいたように勘違いしてしまいそうになるが、あくまで仕事上の関係だ。
だから、仕事以外の時はなるべく近づかないようにしていた。
この仕事が終わったらまた離れなくちゃいけない。いつでもそのことを心にとどめておかなくてはいけないことは苦しかった。
***
私が騎士団の訓練場に出向いたり、アシュレイ様が研究棟を訪ねてくれたり。この日は私が訓練場を訪れていた。実践での剣の動きについて、素人の私にはどうしても分からないところがあって、アシュレイ様に直接訊ねざるを得なかったのだ。名指しすることは基本的に無いのだけど、剣の腕で右に彼の出る者はいなくて、必然的にアシュレイ様がその対応者となった。
「この動きを強化するには、どこを重点的に扱えばいいのか分からなくて」
私がアシュレイ様に聞くと、なるほどといった風に言葉で説明してくれる。それでも私が納得しかねていると、おもむろに紙とペンを取り出した。そして、鎧をまとった騎士をさらさらと描き、図解してくれた。それも、騎士の動きまで捉えた見事な絵で。
「なるほど!やや内側寄りになるんですね!!全然違うところを強化しようとしていました」
芸術的と言ってもいいアシュレイ様の筆致に感動し、また、ここしばらく悩んでいた課題に解決の糸口が見えたことに安堵して、私は油断してしまったのだと思う。ふだんしないように心がけている雑談を、自分から振ってしまった。
「絵、お好きなんですよね。確か、普通のお家に生まれていたら画家になりたかったって」
その瞬間に、アシュレイ様の表情が固まるのがはっきり分かった。
「それをどこで…」
思いもよらないアシュレイ様の恐い顔に怯む。
「え、前に言ってるのを聞いたような?誰かに聞いたのかな?」
あ、また失敗した。私ごときが踏み込んでいいところじゃ無かったんだ。
「誰にも言ったことは無いはずだ…」
仕事相手に言うようなことでは無い、プライベートの領分と言うことね。やってしまった。誰から聞いたか覚えてないけど、きっと噂か何かで聞いたことだったんだわ…
いつもはあちこちに話が飛んで、あっという間に時間が過ぎるけど、その日はそれ以降会話が続かなかった。用件を終えると、私は早々に訓練場を後にした。
***
(私が絵を描くことを知っているのはカイルくらいだ。しかしアイツが人に喋るとは思えない。いや、まさか二人は隠れて付き合ってでもいるのか?恋人につい漏らしてしまうことはあるかもしれない…)
それはアシュレイの心の底にある、誰にも話したことのない本音だ。しかし、隙を見せてはいけない公爵家の長男であるアシュレイが、『普通の家に生まれていれば』などと不用意に発言するはずが無かった。
◤騎士の異変────
(一度でも会っていたら、忘れるわけが無い)
彼女に会ってから、事故後ずっとモヤモヤしていたものが少しだけ晴れた気がしていた。後遺症は無いと言ったが、もしかしたら心身に何らかの影響が残っているのかもしれない。
あの日もカイルが研究棟に行くというのを聞いて、胸騒ぎのようなものがして、やや強引に付き添って来たのであった。その結果、彼女に出会った。研究棟にはやはり何かあるのかもしれない。
それ以来、理由をつけては職務や訓練の合間に研究棟に顔を出すが、中々彼女には会えなかった。姿を見かけても、あっという間に自身の研究室に引っ込んでしまう。
カイルとの会話を聞かれていたとは思いもせず、アシュレイは素っ気ない彼女の態度に戸惑っていた。
アシュレイは公爵家の長男であり、容姿も女性に好まれるものであることが自分でも分かっている。過度なごますりなどに遭遇すると鬱陶しいが、それらの恩恵は所与のものとして当然に受け取っていた。
それなのに彼女が──セイラがその他の女性と同じ反応を見せないから、興味を引かれているだけかもしれない。そうも考えたが、一目見たときから何か胸がざわざわと落ち着かなくなったのは勘違いじゃないと思う。事故以来感じている違和感とも何か関連がある気がしている。
彼女に話しかけられた日からしばらく経って、騎士団と研究棟の共同研究の話が持ち上がった。そのメンバーの一人にセイラが推薦されているという。それを聞いて、アシュレイはホッとしつつ、一人納得していた。
(避けられていたのでは無く、ただ研究が忙しかったんだな。)
***
「お前は彼女と付き合っているのか?」
唐突にアシュレイはカイルに言った。カイルは、本気で誰だか分からないと言った風情で返す。
「彼女?俺は誰とも付き合っていないよ。俺は特定の女性とは付き合わないって知ってるでしょ」
(じゃあ大勢のうちの一人かとも考えたが、カイルは相手はちゃんと選ぶ奴だ。セイラは遊びに向いているタイプには見えなかった)
「やっぱりもう一度医者にかかった方がいいんじゃないか?」
カイルが改めて事故のことについて訊ねてきた。事故での怪我はほとんど無かったし、長く意識を失うようなことも無かったので、事故直後に診察を受けたのみだった。しかし、改めて医師の診察を受けてはどうかと言うのだ。
「事故後しばらく経ってから症状が出ることも無いとは限らないだろ?」
そう言うカイルの言葉にも一理あると思い、診てもらうことにした。その場に何故かカイルも同席していたが、深くは追求しなかった。
「体にもご異常はございませんし、記憶障害や健忘も無いようです。改めて、異常なしと判断してよろしいかと思います。ただ、カイル様のおっしゃるとおり、後からということもございますので、引き続きお気をつけください」
黙って診察の様子を見ていたカイルが、そこで初めて口を開いた。
「記憶の一部だけが失われることはありますか?」
「無いとは言えません。ただ、アシュレイ様の場合は事故前後の記憶もしっかりしておられますし…」
「特定の人物に関することだけを忘れると言うことは?」
「それもあり得ることではありますが…よほどのショックな出来事があったときなどはあるいは。ただ今回は物理的な爆発事故なので考えづらいですね」
医師が帰った後、残ったカイルにアシュレイは先程の質問の意図を質した。
「何を考えている?」
「いや、問題無くて何よりだよ」
幼馴染みがそれ以上何も話す気は無いのが伝わってきたので、アシュレイは会話をそこで切り上げた。
◤騎士の拒絶と彼女の決心────
私が不用意にプライベートに踏み込んで以来、アシュレイ様とはギクシャクしていた。当然だ。顔も覚えられていないと分かったときに、これ以上傷つかないよう距離を置くべきだったのに、懲りずにこっちから話しかけたりなんてしちゃうから。
アシュレイ様の方もこれ以上、踏み込まれたくないだろう。そう思って、仕事以外の話をしないように気をつけた。
それなのに。
共同研究の目処が立ちもう少しでプロジェクトも終わりにさしかかっていたある日、研究棟に移動しようと狭い廊下の角を曲がった瞬間、なぜかアシュレイ様の腕をそっと掴んでしまった。まるで恋人にするみたいに、彼を引き寄せてしまった。
「っ!」
私が自分の行動に驚くより前に、アシュレイ様の身体が瞬間的に強張るのが分かった。顔を上げると、アシュレイ様の顔は不快そうに歪んでいた。彼の瞳は私を見ているようで、どこか焦点があっていないようにも見えた。そして、一瞬お互いに動きが止まって、その直後、アシュレイ様が私の手を振りほどいた。
「ご、ごめんなさい。不躾に……」
声が震えているのが自分でも分かった。それに対するアシュレイ様の言葉を待たず、小さく頭を下げ、逃げるようにその場を走り去った。
***
もうさすがに引き際かも。今の仕事は楽しいけど、研究自体はこの身一つで出来るし、研究棟での出世にも興味は無い。
これ以上アシュレイ様の近くにいるのは、限界だ。調子に乗ってアシュレイ様と腕を組もうとするなんて。正気じゃ無かったとしか思えない。
(でも、アシュレイ様の腕、見た目より逞しかったな…)
普段騎士服のシャツに覆われていて見えないその腕は、思っていた以上に硬くて逞しかった。騎士なのだから当然だけど、男の人と腕を組んだことなんて無いから分からない。でもどこか懐かしいような気がした。
(はあでもこれが最初で最後よ。)
アシュレイ様の立場からすれば、年齢を考えても結婚も時間の問題だと思う。
共同研究が一段落したところで、研究棟は辞めて王都を出よう。
とは言え、家はすでに兄が家を継いでいて、両親は隠居している。兄嫁を含め、家族みんな歓迎してくれるし、自由にさせてくれるとは思う。でも、都会から帰ってきた若い女を放っておいてくれる人間ばかりではないことは容易に想像できた。数多の結婚話が持ち込まれるだろう。もちろん善意で。
実家には帰らないで、王都から少し離れた街で、魔物除けの道具とかを売って暮らせばいいわ。研究棟で働いている時はあまりお金を使う機会も無かったし、それなりの金額をもらってたし、研究を続けつつ暮らして行く分には支障も無さそう。
──こうしてセイラは初めての恋を終わらせる決心をしたのだった。
◤知らされた彼女の近況────
その日、アシュレイは資料室で部下のヨハンと文献を探していた。
「そういえば、セイラさん辞めちゃって残念ですね」
アシュレイの手が止まる。動揺を隠し、部下に顔を向けずに答えた。
「……そうなのか?」
部下のヨハンは意外だと言わんばかりに返す。
「あれ、知らなかったんですか?セイラさん先月で辞めちゃったんですよ。研究員用の居住区からも引っ越したって。前から辞めるつもりだったって言ってましたよ」
バサッ!
アシュレイの手から書類の束が床に滑り落ちた。
「引っ越し……?」
「えっ、あ……すみません。てっきりご存じかと」
アシュレイには部下の声はもう届いていない。頭の中で、彼女の言葉と表情が交錯する。
『ごめんなさい。不躾に』
傷ついたような彼女の顔と、逃げるように去っていった背中。あのとき手のひらに残った彼女の手の感触と、眼前に浮かんだ彼女の顔。そして、自分は彼女の手を振り払った。
(あの時浮かんだ彼女の顔は何だったんだ…幻とは思えないほどリアルだった)
◤新天地────
新しい生活を始める土地に選んだのはグランペンテという街。王都ほど都会でも無いし、領地ほど田舎でも無い。領地と王都以外の土地で暮らすのは初めてだったけど、何とかやっていけそう。街の人も快く受け入れてくれた。
王都にいるとき仕事で何回か顔を合わせたことのあるクラウスという青年に偶然街で再会して以来、たまに会っている。クラウスは知り合いのいない街に暮らす私のことを気遣って誘ってくれていて、それが押しつけがましくなくて、心地いい。忘れた頃に誘われるのがまた気楽で、今の私にはちょうど良かった。
「ご両親は心配してるんじゃ無い?」
王都での仕事から帰ってきたクラウスとお茶をしていると、そんなことを言われた。
「うーん、王都の研究所に働きに出た時点で諦めてると思う。毎月手紙を書くことで、妥協してもらってる。もう私と同じくらいの女性はみんな結婚してる人が多いけど、私はあんまり興味が持てなくて。しないと決めてる訳でも無いんだけどね」
「じゃあしたくなったら僕はどう?実家は裕福だし、仕事は続けてもらってもいいし、結構優良物件だよ?」
「そのときはお願いするわ」
彼は冗談めかして優良物件だと言っているけどたぶんいい家の出なのは事実で、容姿もいい。周りに女性がたくさんいるのは容易に想像がつく。お互い好意を持っているのは分かるけど、本気でじゃ無いのがまた気楽で楽しかった。
もう辛いばかりの片思いは卒業したし、こんな風に軽口を言い合って楽しく暮らせるなんてクラウスには本当に感謝だわ。
◤会いたい────
アシュレイはセイラが王都を離れてから、片時も彼女のことを忘れたことは無かった。しかし、追いかける理由は自分達の間に何も無い。仕事でしばらく組んでいたのに、食事を共にしたことすら無かった。
彼女には明確に一線を引かれていたし、アシュレイの方でも色んなしがらみがよぎり、近づくことをためらっていた。
しかし、彼女への思いは募るばかりでいかんともしがたかった。
(彼女にとって私は転居を知らせる程の相手ですらないと言うのに。)
打つ手無く時間だけが過ぎていく日々の中で、ある日、思いがけずセイラの名前を耳にした。
『最近腕のいい魔術師が王都から越してきたんですよ』
(あの男はグランペンテの領主の息子だ。クラウスと言ったか。貴族には珍しく手広く商売をしてるのだったな。)
すぐにでも彼女の様子を問い質したい気持ちを抑えて、黙って様子を見る。
『聞き及んでおりますよ。クラウス様がご執心だと言うことも』
『そういう訳では無いのですが…いや、そうなのかな』
以来、それまで以上に政務にも集中できず、夜は浅い眠りのまま目を覚ます。
セイラが手を伸ばし、咄嗟にそれを振り払ってしまったあの夜。彼女に手を掴まれた瞬間、眼前に浮かんだ彼女の紅潮した頬、濡れたようにわずかに開いた唇、切なく潤んだ瞳。熱を含んだ吐息と肌のぬくもりの感触が体中に駆け巡った。
(あれは何だったんだ)
アシュレイの胸の奥にある綻びが次第に大きくなっていく。
あのときの残像はあまりにもリアルで、自分の願望が眼前に表れてしまったのかと、焦って手を振り払ってしまった。
(会いたい…)
◤繕えなくなった綻び────
何かがおかしい。
アシュレイはその思いを強くしていた。分岐点は、明らかにあの事故の日だ。何の気なしに、何か手がかりは無いかと執務室をぐるりと見回した。
ふと、書棚のノートが妙に気になった。そう言えば以前は日誌をつけていたのに、すっかりそれを忘れていた……?日々の活動記録をつけるのは、騎士団に所属して以来の習慣だったはずだ。それを忘れることなどあるのかと不思議に思いながら日誌を手に取った。
>【X月X日】晴れ
>部下のヨハンが騎士服を宿舎に忘れた。
>宿舎と言っているが女性の家のようだ。鍛える必要がある。
(結局このときの女性と結婚したのだったな)
>【X月X日】曇り
>城壁の外で魔獣が目撃されたとのこと。種類不明。要警戒。
何のことは無い、ただの業務日誌だ。そう思ってパラパラとページをめくっていると──
***
日誌を見つけた翌日、アシュレイはグランペンテに向かっていた。何か叫びながら走って追いかけていくるヨハンの姿がちらりと見えたが構わず馬車を走らせた。
彼女がすでに誰かを選んでいたら、そのとき自分は正気でいられるか──
馬車の中で彼は静かに目を閉じる。町の入り口に差し掛かると、すでに心臓の鼓動が速まっているのを自覚する。すぐに彼女の姿を探してしまう。
「セイラ!!」
まずは姿を見るだけと思っていたのに、姿を見かけた途端アシュレイは走り出していた。
「アシュレイ…様…」
驚く彼女の横には予想通りクラウスが寄り添っている。
「先に帰っとこうか?」
「ううん、せっかく予約してくれたから」
(一緒に住んでいるのか…)
「突然すまなかった」
そう言ってアシュレイは去って行く。
「彼、誤解してるんじゃ無いの?まあ僕は構わないけど」
クラウスがセイラに声をかける。
「…いいの」
「全然良くないでしょ。君の心にはいつも誰かがいるのが分かってたよ」
クラウスは少しだけ口の端を上げ、優しくセイラの背中を押した。
「アシュレイ様っ」
セイラがそう彼の背中に叫ぶと、彼はゆっくりと振り向いた。
「セイラ…」
***
見てほしいものがあるとアシュレイ様が言うので、私の部屋へと向かった。
「公爵様をお招きするような家では無いんだけど。お茶くらいはお出しできるわ」
「連絡もせず突然来たのは私の方だ。手間を取らせて申し訳ない」
そう言いながらアシュレイ様は一冊のノートを差し出した。
「私の執務室にあったものだ」
私はおそるおそるノートを受け取り、そっとそれを開く。すると一枚の紙がハラリと宙に舞う。床に落ちたそれに描かれた女性を見てとても驚いた。
そこに描かれているのは私、だと思う。その線はどこか柔らかく、温かい空気をまとっていた。何かを読んでいるのだろうか、下を向いてリラックスしているのが分かる。
頭の奥にうずくような違和感があった。懐かしいのに思い出せない、夢の続きのような感覚。
「でも、こんな絵いつ…」
──紙のすれる音。鉛筆が走る音。彼のアシュレイ様の息づかい。
そうだ。私はこのとき、過去の文献を読んでいて。アシュレイ様はそれに付き合ってくれていた。
「ああ、私、そうだった…」
私は彼を愛していたこと。私たちは一緒にいたこと。そして、私たちの記憶を消したこと。
全部私が決めたことだ…。
◤騎士の日誌────
>【X月X日】曇
>本隊所属のヨハンが徽章を紛失。処分要検討。
>【X月X日】曇
>徽章の拾得者、来所。登録番号からヨハンのものと特定。懲罰訓練メニュー要作成。
>女性。推定20代前半。
>印象:白衣にインク。髪は後ろで束ねている。天使のよう。
>【X月X日】晴
>機密実験の期間中の、研究棟警備任務拝命。
>先日の拾得者が当該実験立案者とのこと。
>午後、物資買い出しに同行。途中予定外のルートでパン屋に立ち寄る。
>心拍の上昇を確認。体調管理留意。
>【X月X日】雨
>研究棟からの魔力漏出事案。急行。
>【X月X日】晴
>護衛任務なし。
>研究棟の周辺警備に当たる。
>偶然研究棟から出てきた研究員と昼食。
ここからしばらく日付が空いている。
>【X月X日】雨
>本日も連絡取れず。
>多忙とのこと。
>【X月X日】雨
>城壁の結界強化実験につき臨時警備
>朝のうちに剣の手入れを終え、研究棟に向かい、本日直帰。
そしてここで日誌は途絶えていた。事故の日だ。
◤彼女の回想──
いつかは終わりが来ることは分かっていた。
私は彼のことを愛していた。
落ちていた徽章を騎士団に届けたのをきっかけに、私たちは会うようになった。彼は堂々と会おうと言ってくれたけど、人目を避けて過ごした。私はそのことを誰にも言わなかったし、彼も同じだと思う。
彼には事実上の婚約者──世継ぎたる王女殿下──がいるのが分かっていたし、今以上関係を進めるつもりは無かった。それでも、婚約が正式に決定するまでと言い訳をして、会うことを止められなかった。
実際、私たちの間には問題が多過ぎた。王女殿下のことが無くても彼は王家に連なる高位貴族で騎士団の要職を担う雲の上の存在。一方、私はしがない地方の下位貴族出身の研究員で、王室の研究所の末席で細々と魔術の研究をしている身だ。
それなのに。仕事の合間に少し話をするだけ。たまたま時間が一緒になって昼食をとるだけ。休日に一緒に調べ物をするたけ。そう自分を誤魔化して、彼との距離はどんどん近づいてしまった。
そうして、私と彼の距離はゼロになった。
夜が明ける前の薄明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。私はシーツにくるまったまま、ゆっくりと目を開ける。すぐそばには、まだ微かな温もりが残っていて。
(夢じゃ無かったのね。)
気恥ずかしさもあって、昨日のことを思い出して頬が熱くなるのを感じた。
目線だけを動かすと、アシュレイはシャツを羽織って窓辺に立っていた。私が目覚めたことに気づいたのか、ゆっくりこちらを振り返る。
その顔に、どこかためらうような影があるように見えた。それでも私は小さく微笑んで「おはよう」と言いかけた、その瞬間──
「すまなかった」
私はその言葉を聞いて、凍りついた。
優しく触れる手、切なく私を呼ぶ声、彼の温もり。昨夜のすべてが急に遠いものに思えた。
「後悔…してるの?」
私が問いかけても彼は答えない。私はそれを肯定と受け取り、もう何も言えなかった。胸の奥がズキズキと痛んだ。
彼は一瞬、何か言いかけていったん止めた。でも、私から背を向けて言った言葉は私が期待していたものとは違っていた。
「ゆっくりしてくれて構わない。部屋を出るときは鍵をかけて衛兵に預けておいてくれ。衛兵には他言しないよう言い含めておく」
そう私に告げて、彼は特別に与えられている騎士団の私室を出て行った。私は昨夜とたった今の出来事との落差について行けず、ただ呆然としていた。
(後悔するくらいなら、なんで私を抱いたの?)
私は初めての恋に舞い上がっていて、彼の気持ちがその程度だったということにこうなるまで気づかなかったのだ。
***
アシュレイは扉の前で立ち尽くしていた。本当は彼女のそばを離れたくなど無かった。
(後悔なんかしてない。これからもずっと一緒にいて欲しい。)
すぐさまそう言えれば…
しかし、アシュレイとセイラの間には乗り越えるべき問題が多すぎた。身分、立場、家族──
共に乗り越えて欲しいと言うのは簡単だったが、彼女の負担の方が遥かに大きいことは明らかだった。彼女に犠牲を強いるようなことは簡単には言い出せなかった。
それでも彼女を諦めるという選択肢は無く、結婚の根回しをしてから関係を進めるつもりだった。それなのに、日々募る思いに、彼女の魅力に、抗うことがついに出来なくなった。
セイラはとても賢い人だ。私達の間にある多くの問題に気づいていないはずは無い。それでも自分を受け入れてくれた。
まだ絡み合った問題は完全にクリア出来ておらず結婚を進めるのは不本意だ。しかし、こうなっては早急に動かなくてはならない。
環境を整えてからという後悔と同時に、多少無理を通してでも結婚を申し込めるという喜びでいっぱいだった。
思いが通じ合ったのだからと油断と甘えがあったのかもしれない。結婚の障壁はゆっくり解決していけばいいと。
それでも彼女に正式に結婚を申し込む手筈をアレコレ考えていたところに、あの事故が起きたのだった。
***
あのあと、私はいつもと同じように研究所に出勤し、その後も日々研究を続けた。何も変わらない。ただ、胸が痛むだけ。
アシュレイ様からは何度か会いたいと連絡があったが、私は毎回理由をつけてそれを拒んだ。
元々仕事では彼と会う機会がほとんど無かったのは今となっては良かった。たまに魔獣討伐に使う武器の強化の依頼などに彼が来るときも、部屋から出ないようにして顔を合わせないように注意を払った。
時間がこの気持ちを昇華してくれると思ったのに、彼への思いは強くなる一方だったのは誤算だった。
彼が研究棟に来ていると聞けば部屋から飛び出して会いに行きたかったし、彼とよく会っていた資料室でたわいない話をしたかった。
苦しさがどんどん積み上がっていって、もう限界だと思った。
(記憶を消してしまおう)
他人の感情を操るのは非常に高度な術で、その技術は確立されていない。でも、消すのが記憶だけならそう難しいものでは無かった。
消すのは彼の私に関するすべての記憶。私からは二人で会ったことや、もちろんあの夜の記憶も。そして、私の恋心も消してしまおう。そうすればもう苦しくないはず。
消そうとするのが感情であっても、操るのが自分のものなら難しいものじゃない。そう思ったのに。
術が暴発した結果、アシュレイ様は一時的に意識を失い、私の方も記憶だけが抜け落ち、一番消したかった彼への恋心だけが残ってしまった。
◤消せなかった想い────
一年後、私はアシュレイ様と祖国から遠く離れた島国にいた。国を追われた訳では無い。アシュレイ様は王宮の権力闘争とは距離を置き、外交活動を担うという名目で国内外を自由に移動することを認められた。貴族社会のしがらみから簡単に抜け出せたということは無く、「閑職に追いやられた」と言う体裁を取ることで決着したのだった。
公爵家はアシュレイの下の弟である三男が継ぐことになった。彼はまだ10代の若さと聞いているけど、非常な優秀な男で、有能なブレーンも自らスカウトして来るような頼もしい後継者らしい。
(大体私もまだまだね。術が不完全で途中で解けるなんて!次こそ完璧にかけてみせるわ!)
「やめてくれ…」
心の中で意気込んだつもりが声に出てしまっていたみたい。滞在先の居室で絵を描いていたアシュレイ様が慌ててすがるような目で見てくる。
あのときクラウスの手を取れば、穏やかで温かな日々は約束されるだろうことは分かっていた。でもやっぱり私はアシュレイ様が好き。彼と一緒にいたい。
もし嫌になったらいつでも違う道を選べばいい。私はどんな未来も選べるんだから。