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 市内の海辺にある緑ケ浜水族館みどりがはますいぞくかんは全国でも割と大きく、ジュゴンやマナティなどの珍しい海洋生物を飼育していることで有名である。


 水族館なんて小学校の遠足以来だった。

 闇に包まれた空間に、青白い光がぽつぽつと光っている。

 

 水槽を観ながら白木先輩は、あの魚の習性は、とか、あの魚はこんな海の中にいて、とか、まったく興味のない話をしてきたので、私はあからさまにつまらない顔をして受け流した。


「……知識をひけらかす人ってウザいですよね」


 白木先輩は苦いものを噛んだような顔をして、黙った。


「……まぁでも、たまに来ると楽しいですね、水族館」

 

 ちろっと白木先輩を見ながら言うと、彼はぽっと頬を染めて唇を引き結んだ。

 

 私はかまわず、水槽を眺める。

 鮮やかな色をした魚たちが流れるように泳いでいる。黄色と黒の縞模様(しまもよう)や深い青色に黒斑(くろぶち)の魚、ゆったりとたゆたう亀。

 

 水の中をゆうゆうと泳ぐ魚たちは自由だった。


 私はそっとガラスに手を添える。

 

 この中にも、カーストはあるのだろうか。それを感じさせない魚たちは優雅だ。


「……羨ましい」


 呟いた直後、隣から視線を感じた。けれど、白木先輩はなにも言わなかった。

 

 しばらくぼけっと泳ぐ魚を鑑賞していると、ふと白木先輩が立ち止まった。

 

「……ごめん。やっぱり帰ろうか」

 私はきょとんと白木先輩を見上げる。

 

「……え、なんでです?」

「……音羽さん、全然楽しそうじゃないし……その、無理やり連れてくるようなところじゃなかったよね……」


 その言葉に、すうっと心が冷えていく心地がした。


(……やっぱりこの人は)


 どこまでも人がいい。

 白木先輩と話をするたび、自分のことをどんどん嫌いになっていく。


「……このぼんくら」

 私は眉をひそめたまま、次の水槽へ進んだ。

 

「……今さらですし、そもそも入館料払ったのに途中で帰るとか有り得ないんですけど」

「……そ、そう……だよね」


 あからさまにホッとした顔でついてくる白木先輩に、私は強い罪悪感を覚えた。


 どうして、この人はこんなにもまっすぐなんだろう。打算とかないのだろうか。


 どんな人の笑顔にも裏を探ってしまう私は、白木先輩は眩しくて、どうしようもなく羨ましかった。


 そして、嫌いだった。

 いくら邪険にしても、白木先輩は怒るどころか子犬のようにしょんぼりと落ち込むばかりで。


 ――だから私は、白木先輩からの告白に、あんなふうに言ってしまったのだ。



 * * *


 

 出会って三ヶ月が経った、九月のことだった。


 白木先輩は相変わらず私にべったり懐いていて、私は塩対応ながらも純朴(じゅんぼく)な白木先輩を突き放せずにいた。


「夏も終わりだね」

「そうですね」

 抑揚のない声で答えながら、私は窓の外を見つめた。

 

 音楽室の窓の向こうでは、静かに雨が降っていた。まるで髪の毛のような細く頼りない雨だ。

 空は灰色で、霞んでいる。

 

 音楽室に来たはいいが、こうも暗くて湿気がひどいとピアノを弾く気にもならない。とはいえこうして灰色の空をじっと見ていても、気分が下がるだけなのだが。


「もうすぐ卒業かぁ」


 珍しく白木先輩は感傷的(かんしょうてき)になっていた。受験に怖気付いたのだろうか。

 

「はぁ……まだあと半年ありますけどね」

「半年なんて、あっという間だよ」

「……というか、その前に受験じゃないですか」

「あ……うん。まぁそうなんだけど」


 白木先輩はすっと窓の外を見上げた。私もつられるようにその視線を辿った。

 

 そうか。暖かくなる頃にはもう、白木先輩はこの音楽室にはいないのか。

 喉がきゅっと詰まるような、よく分からない感情が胸に広がった。

 

「……合格するといいですね」 

「でも、落ちたらエスカレーター式で霞原附属高校に進級することになるよ。すぐ隣の敷地だし、もしかしたら登下校で会えるかもしれないよ?」

「べつにいいです。会いたいと思ったことないんで」

 

 つっけんどんに言うと、白木先輩は少しだけ言い返そうと考えたようで、けれどやっぱりなにも浮かばなかったらしく、しゅんと口を閉じた。


 懲りない人だと思った。そして私もまた、懲りない。

 

「……だって、会いたいって思う前に、いつもいるじゃないですか」

 

 なに言い訳してるんだと呆れながら、私は白木先輩から目を逸らした。


 どうして私は、この人のこういう顔に慣れないのだろう。自分でも自分がままならなくて、妙に腹が立つ。


 もう一度窓の外に視線を流すと、ふと顔に影が落ちた。顔を上げると、すぐ近くに白木先輩が立っていた。


 驚きに瞬きをする。

 

「……音羽さん」

 すっと手を取られ、顔を上げる。白木先輩はまっすぐに私を見下ろしていて、ほんの少し頬が赤かった。

 白い頬にさっと薄い桃色が乗って、まるで女の人のようだ。


「あの……僕、好きなんだけど」


 息が詰まった。


「……ピアノがですか?」


 いらいらした。しどろもどろな白木先輩にも、心拍数(しんぱくすう)が上がっている自分自身にも。

 

「ピアノじゃなくて……君のことが」

「……だからなんです?」

「だ、だから……その、付き合ってくれないかな?」


 人生で、初めてされた告白だった。


「……私は、白木先輩といるといらいらします」

「……え」


 白木先輩は青ざめた。


「私が失礼なこと言っても白木先輩はなにも言い返してこないし、そのくせ落ち込むし。ボンボンで苦労なんてしたことないって顔して、しれっと失礼なことを言って、空気もまるで読めなくて……」


 そういう育ちの良さが、私はどうしても……。

 ぎゅっと拳を握った。

 

「……そっか。それはその……ごめん」

 白木先輩は俯きがちに呟いた。

 堪らず私は立ち上がり、白木先輩から離れる。

 

「……どうせ、卒業したらもう会わなくなるんですし、付き合うとか無理です」

「……そっか」


 吐き捨てるようにそう言うと、白木先輩はそのときだけはなぜか悲しそうな顔はしなくて、ただ小さく笑った。


「……分かった」


 もう少ししつこくされるかと思ったけれど、白木先輩は思いの外あっさりとしていた。

 

 そして鞄を肩にかけると、 

「……また、明日」

 と言葉を残して、音楽室を出ていった。



 * * *


  

 告白を断ってからというもの、白木先輩はぱったりと音楽室に来なくなった。


 ひとりきりの音楽室は、なんだか色を失ったように霞んでいた。

 白木先輩が来なくなって初めて、私は雨の中にいたことを思い出した。


(……静かな場所だと思っていたのに)


 随分と雑音が耳の奥で響いていた。


 濡れるのもかまわず窓を開けて、雨の音で雑音を消す。雨粒混じりの風がふわっと私を包んだ。


(……ピアノ、弾く気にならないなぁ……)

 

 今までは、あんなにひとりきりになりたいと思っていたはずなのに。


 ひとりきりになる口実で来ていた音楽室。気付けばそこにはもうひとりの住人がいて、いつの間にか私はそれを受け入れていた。


「……帰ろ」


 鞄を持って音楽室の鍵を閉める。

 次第に私の足も、音楽室から遠のいていった。


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