②
「――君。ねぇ、君」
体が直に触れていた床が、とんとんと小さく揺れる。誰かがすぐそばの床を叩いているのだと気付いて、私はゆっくりと瞼を開ける。
目の前に、見知らぬ男子学生がいた。私を心配そうに見下ろしている。
まだ寝惚けた頭のまま、むくりと起き上がる。前髪をかきあげながら、眉をひそめた。
今何時だろう。
(……というかここ、どこだっけ……)
「よかった。床に倒れてるから、急病人かと思ったよ」
私を見て心底ホッとしたような顔をするこの人は、一体誰なのだろう。
床に手を置き、身を起こすと、手のひらになにかが触れた。視線をやると、それは楽譜だった。
すぐ真横には、光沢感のあるグランドピアノ。開け放たれた窓から聞こえてくる声。
ようやく、ここが音楽室であることを思い出す。もう陽はすっかり傾いているようだった。
「……ねぇ君、本当に大丈夫?」
低く、柔らかい声だった。顔を上げると、思いの外すぐ近くで視線がかち合った。
息を呑む。
夕暮れの強い西陽が、その人の輪郭を鋭く照らしている。
さらさらの黒髪。少し長めの前髪から覗く、飴色の瞳はくっきりとした二重をしていた。
鼻筋はすっと通っていて、目元には長く優雅な睫毛の影ができている。
まるでそういう景色のように美しい人だった。私は美術館にいるような心地でその人を見つめた。
「……?」
「……あ、あの?」
男子学生は眉を八の字にして、私を見つめていた。
私は、目の前のその人を見つめて思う。
「……誰?」
眉を寄せて私が視線を返すと、男子学生はおどおどとした様子で私から離れる。
「……あ、いや、僕は怪しい者じゃないよ」
「……?」
だから誰なんだ、となにも言わず眉を寄せていると、男子学生は私が怒っていると勘違いしたのか、
「だ、だって、誰もいないと思ってた音楽室で人が倒れてたら、誰だって驚くでしょ」
と、引き気味に言う。そこで私はハッと我に返った。
「……もしかして、ここ、これから使いますか? それならすぐ片付けます」
北角先生から鍵を借りたときは、終日空いてるから下校時刻までは好きにしていいと言われたはずだが。
楽譜を拾い集めていると、声が降ってきた。
「いや……ただ扉が少し開いてたから、入ってみただけだよ」
「……使わないんですか?」
「うん」
なんなんだ、と思い、楽譜を拾い集めていた手を止めた。用事がないならさっさと出ていってほしいのだが。
「……ねぇ、それよりさっきピアノ弾いてたのって、君だよね?」
「……そうですけど」
そもそも私以外に誰もいないのに、他に誰が弾くというのだ。
馬鹿なのだろうか。見たところ、私より歳上な気がするが。
「……校庭を歩いてたら綺麗なピアノの音が聞こえてきたから気になって来たんだけど……音が止んだなって思ったら、君が倒れてるものだから驚いたよ」
そういうことか。
「……楽譜が完成したら眠くなっちゃって」と、私は目を合わせないまま答えた。
「えっ! じゃああの曲、もしかして君の手作りなの?」
音楽に興味があるのだろうか。食いついてきた。
「……まぁ」
正直に頷くと、男子学生は嬉しそうにはにかんだ。
「ねぇ君、名前は? 僕、白木響介」
「…………はぁ……」
なぜ名乗る。そしてなぜこちらまで言わなければならないのだ。私は白い視線を送る。
「ねぇ、名前教えてよ」
ずいっと顔を寄せられた。近い。私は眉を寄せた。
「……音羽……夏恋です」
押され気味に答えると、
「音羽さん。もう一回聞きたいなぁ」
「……は?」
ぽかんとする私とは対照的に、白木さんはにこにこしていた。
「さっきのピアノ、僕めちゃくちゃ好き」
ため息が出た。なぜ見ず知らずのあんたのために、と、内心ツッコむ。
それからはひどかった。
音羽さんって何年生なの? どこ小? ピアノはいつからやってるの? ……え、独学? すごいね。作曲家は誰が好きなの?
……など、しばらく彼の質問攻めを受け止める羽目になった。我ながらついてない。面倒な人に捕まった。
かく言う白木さんは、三年生だった。二組で、外部受験を検討している。理由は今の学校に飽きたから、だそうだ。聞いてもいないのに、ぺらぺらとよく喋る。
とりあえず私はこの人のことを先輩と言わなくちゃならないのか、と思いながら隣の彼をちらりと窺い見た。
すらりと細く、長い体躯。少し幼げな印象の二重。唇は薄めで、鼻筋はすっと通っている。きっと、誰が見ても好青年と呼ぶだろう風貌。
歳がふたつも違うと、こうも違うものなのか。というか、元々持ち合わせた素質が違うのか。
学ランを着ているからまだ学生だと分かるけれど、多分私服だったら、大人の男の人のように見えるだろう。
背も高いし声も低くて、クラスの男の子と全然違う。
なんというか、品がある。さすがお金持ち校のおぼっちゃまだ。
白木先輩はなぜか私を気に入ったらしく、その後もずっと音楽室に居座って喋り続けていた。
「ねぇねぇ、君って家この近く?」
「……まぁ」
「ひとりっ子?」
「……はい」
「僕、三つ下に妹がいるんだけどさ、まだ小学生なのにこれがもうすごい生意気で」
いつまで続くのだろう、これ。これではピアノも弾けないし、ひとりにもなれない。
「…………あの」
「ん? なになに?」
「一体なんなんですか」
「……なんなん……って?」
白木先輩はきょとんとした顔で首を傾げた。なんだか腹が立つ顔だ。
「用がないなら、もう帰ったらどうですか」
「え、どうして? 君がいるじゃん」
「……はぁ?」
ぽかんとする。
「……もういいです」
ダメだ。こういうタイプは話しても無駄だ。
ため息をつく。家に帰ろうか、でも、早く帰ってもやることもないし、と悩む。
しばらく適当に相槌を打っていると、下校を促すチャイムが鳴った。
私は、これ幸いと楽譜をまとめる。
「……あ、そろそろ帰る?」
気付いた白木先輩が言う。
「そうですね。チャイム鳴ったんで」
おかげでせっかくのひとりの時間が台無しだ。
「じゃあ僕も帰る。一緒に帰ろう」
片付けていた手が止まった。思わず真顔で白木先輩を見る。
「ん?」
「……いえ、べつに」
とほほ、と思う。
帰る準備をすれば、さすがに察してくれるかと思ったのだが。まさか一緒に帰る羽目になるとは。
本当はもう一曲くらい作りたかったのに。
私は仕方なく楽譜を拾い集めてファイルにしまった。
帰り道、白木先輩はやはり当たり前のように私の隣を歩いていた。
座っていると気付かなかったけれど、白木先輩は随分と上背がある。ぴっと姿勢を正しても、私の頭は白木先輩の胸の辺りの高さしかなかった。
歩きながらふと思う。
(そういえば私、もう中学生なんだなぁ……)
踏切に差し掛かる。
警報が鳴り響く踏切のバーの前で立ち止まると、白木先輩は少し顔を寄せて話しかけてきた。
「ねぇ、さっきのってなんていう曲なの?」
たぶん聞こえやすいようにという彼なりの配慮なのだろうが、突然鼻先に顔が現れたこちらからすると驚き以外のなにものでもない。
吐息まで触れそうな距離感に、どきりとする。後退り、不機嫌を隠さずに言う。
「近いです、白木先輩」
「あ、ごめん」
白木先輩は慌てて顔を離しながら謝った。少し頬が赤い。照れるならやらなきゃいいものを。
「で、なんて曲なの?」
「なんてって……」
なんだってよくないか。ど素人が作った譜面なんて。
と、内心ボヤく。
「曲名だよ。普通あるだろ?」
いや、普通ないだろ。
こちとら独学なのだ。ぼんぼん世界の普通など知らないし、曲名なんてこれまで考えたこともなかった。
「名前なんてないですよ」と、私はツンとした口調で答えた。
「え、そうなの? どうして?」
白木先輩は心底驚いた顔をする。
「……べつに。ノリで作った曲なので」
と、答えると、白木先輩は瞳をキラキラとさせて、私にぐっと顔を寄せた。
「じゃあ付けようよ!」
「は?」
「オリジナルなら、それこそ名前があった方がいいじゃん!」
「いやいや……」
笑顔が眩しいというか、ウザいというか。とりあえず、私の一番嫌いなタイプだった。
「べつに、自己満足で作ってるだけですし」
「えぇ……あんなに綺麗な音なのにもったいない……誰にも聞かせたことないの? 一度も?」
「……ネットに上げたりはするけど、曲名なんていちいち付けてませんよ。プロでもあるまいし」
「自分の子には、名前付けてあげなきゃダメじゃない?」
「……はぁ。そういうものですかねぇ」
アホくさ、とか思いながら踏切を見やる。遮断機のバーが降りてからだいぶ経つというのに、電車はまだ来ていなかった。
「あの曲、すごい爽快感だったけど。なにをイメージして作ったの?」
「なにをって言われても……」
線路に落としていた視線を、空へ向けた。
見上げると、抜けるような青空があった。端の方にひとつ、すっと筆を流したような薄い雲がある。
太陽を視界に入れなければ、ソーダのような淡い青だ。
「……強いて言えば、部活してる生徒の声を聴きながら、部活をイメージして作ったかな……」
「おぉ。じゃあ、まさに青春だね」
「青春……」
たしかにそうかもしれない。
「青春か……青春……」
白木先輩はなにやら考えるように黙り込んだ。
「あっ! 青の音、とかどうかな? 青春だとまんまだし」
「青の……音」
すっと顔を線路に戻した。
直後、電車が大きな音を立ててレールの上を流れていく。
プツッと車両が消えると、波が引くように音が止む。遮断機のバーが上がった踏切の先には、大きな夕陽があった。
眩しい光に目を細めながら、肩にかけていたスクールバッグの持ち手をぎゅっと握った。
なんだかこっ恥ずかしくなってきた。白木先輩の付けた名前を、ちょっといいかも、なんて思ってしまった自分に。
「……なんですか、それ。付けませんよ、今さら」
ふん、とそっぽを向くと、白木先輩はちょっとだけ嬉しそうに私を見た。
「でも今、ちょっと悩まなかった?」
「悩んでません!」
遮断機のバーが上がる。私は白木先輩を追いてけぼりにして、すたすたと歩を進めた。
「……結構いいと思ったんだけどなぁ」
しかし、足の長さが違い過ぎた。白木先輩は涼しい顔ですぐに追いついてきた。
「青の音」
「音に色なんてありません」
「ちぇっ! 真面目だな。つまんない」
「白木先輩がふざけ過ぎてるんじゃないですか」
「イメージだよ、イメージ! 芸術にイメージは重要だろ? 僕たち一応、芸術系の学校の生徒なんだから」
「……白木先輩って、お気楽でいいですね」
「お、お気楽……」
ついいらいらして、思わず口からそんな言葉が飛び出した。
言ってからハッとする。自分の時間を邪魔されたとはいえ、彼は一応先輩だ。対応は気をつけなければ。
「……あ、あの、ごめんなさ……」
「あ、ねぇ、音羽さんってもしかして、朝とかも音楽室にいる?」
「……は?」
謝ろうと口を開くと、被せるように尋ねられた。全然気にしていないようだ。気にして損した。
「明日の朝」
ピタリ、と足が止まる。嘘だろ、と、思わず振り向いた。
「……まさか、また来る気ですか」
思わずそう尋ねると、白木先輩はキョトンとした顔で頷いた。
「そうだけど? まさかってなに?」
「……いや、だからなんで来るんですか」
今日が初対面なのに、懐かれる意味が分からないのだが。
「なんでって好きだからだけど」
そう、白木先輩はきょとんとした顔で言った。
「好き?」
「うん。音羽さんのピアノ」
意味が分からない。頭を抱えたくなった。
「……白木先輩、外部受験を考えてるってことは受験生ですよね。勉強とかしなくていいんですか」
「うーん、勉強も大事だけど、息抜きも大事じゃない? それに僕、勉強にはそこそこ自信あるし、たぶんこのままの学力でも志望してる公立校は受かると思うんだよね」
石を投げてやろうかと思った。これが嫌味でないというのならなんだというのだろう。
「……そもそも、なんで私が白木先輩の息抜きに付き合わなくちゃいけないんですか」
ぴしゃりと言う。直後、沈黙が落ちた。
「それは……」
しょんぼりと捨てられた子犬のようになっている白木先輩を見て、しまった、と思った。
ため息が漏れる。
「……いや、そんな落ち込まないでくださいよ」
「……べつに落ち込んでないし」
言い返しながらも、白木先輩の語句には覇気がなく、歩く姿もリストラ通告を受けた直後のサラリーマンのようでいたたまれない。
私はため息をついた。
「……朝と昼休みと放課後は、だいたい音楽室にいます。邪魔しないならまぁ……べつに来てもいいですよ」
ぼそりと言うと、白木先輩はびゅん、と音がしそうなほどの勢いで私を見た。
「いいの!?」
やっぱり犬のようだ。私は飼い主ではないのだけど。
「……邪魔はしないでくださいよ」
「うん! ありがとう」
白木先輩は私よりふたつも歳上なのに、まるで弟の相手をしているようだと思った。
その日、苛立ちのような胸焼けのような、よく分からない感情が、私の胸を支配していた。