2028年、灰色の春①
私はずっと、灰色の世界にいた。
空は一時も晴れることはなくて、いつだって雨が降っていた。
傘を持っていない私は、ずぶ濡れのままその世界に晒されている。
水は私に、ねっとりとまとわりつくようで。
だから、雨は大嫌いだった。
君に出会うまでは――。
* * *
新しい学び舎にも少しずつ慣れてきた六月初め。
中学に入って初めての中間テストが終了したその日、私はさっさと教室を出る支度をしていた。
クラス内の喧騒が耳朶を叩く。テスト直後の教室内は、開放感が凄まじい。
中学のテストは小学校とは違って結果や順位が張り出されるし、特にうちのような名門の私立中学は成績重視なところがあるから、みんなかなり努力したのだろう。
もちろん、それは私も例外ではない。
とにかく、テストは終わった。あとは結果を待つのみだ。
ようやくピアノを弾ける。鞄を手に椅子を引き、いそいそと教室を出ようとすると、前の席の友人、田辺あいに声をかけられた。
「あー夏恋! 今日カラオケ行かない? 中西たちも来るの」
中西とは、中西陽太。クラスで女子から一番人気の男の子だ。
スポーツが得意で、とりあえずいつも騒いでいる。
私は正直どこがいいのかまったく分からないけれど、あいは彼が好きなのだから、その想いを無下にするようなことを言うのはご法度だ。
なにごとも相手を否定することは良くない。
私は顔の前でパン、と両手を合わせて嘘の顔を作る。
「ものすごく行きたいんだけど……ごめん! 今日は……」
そっと視線を床へ流す。あいはなにかを察したようににやりと笑った。
「ははん。もしかして、また音楽室? 好きだねぇピアノ」
「えへへ」
「……ま、夏恋からピアノ取ったらなんにも残んないしね。仕方ない。また今度行こうね」
さりげなくひどいことを言われた気がするが、まぁいいだろう。
「うん。次は行くから」
「絶対だからね! じゃ、また明日ね」
「うん。バイバイ」
笑顔であいと別れる。
クラスメイトとは、そこそこちゃんとやっている。
いじめの標的になるのはごめんだし、かといっていじめる側につくのも嫌だから、ほどほどの距離感を保つのは必須だ。
創設が大正と古く、家柄や芸術的分野に重きを置くエリート校のクラスメイトたちは、プライドの塊が服を着ているようなもの。
子供だけでなく親も繊細だから、対応は気を付けなければならない。
あいや他のクラスメイトたちに、にこやかに手を振って教室を出ると、私は職員室へ向かった。
中学に入学してさっそく、私は音楽室に入り浸っている。
私が通う私立霞原中学校は、吹奏楽部などの芸術系の名門校でも知られる。
そのため、文化部にはそれぞれ特別に作られたホールが練習場所として与えられている。
つまり放課後の音楽室は、担任に許可さえ取れば一個人でも独占できるのだ。
今日は午前で授業が終わりだったから、下校の規定時刻まで六時間もある。弾き放題だ。
職員室の扉を叩いて、中を覗く。
「失礼します」
「あら、音羽さん」
私の声に気付いた担任が、にこやかに手招きをした。まっすぐ先生の元へ向かう。
担任教師の北角雪子だ。
北角先生は温厚な性格の年配女性で、彼女自身もこの学校の卒業生だという。お金持ち学校の出身らしく、話し方も雰囲気もおっとりとした人だ。
「テストお疲れ様。今日も音楽室?」
「はい。いいですか?」
「もちろんよ」
頷くと、北角先生は人の良さそうな顔に微笑を浮かべて鍵がしまわれている鍵棚へ向かう。
「音羽さんは本当に音楽が好きなのねぇ。そんなに好きなら、吹奏楽部とか入ればいいのに。今からでもどう?」
鍵をもらいながら、私は愛想笑いを浮かべる。
「いえ、私は自由に弾くのが好きなので」
「あらそう。あぁ、もちろん無理に誘ってるつもりはないのよ。でもなんかもったいない気がしちゃってついね。いやだわ、歳かしらね」
北角先生は私の家の事情を知っているからか、割と気楽に話すことができる。
よく気にかけてくれるし、今までの担任の中では一番好きだった。
「下校時刻までには返しに来ます」
「はい。よろしくね」
担任に鍵をもらって職員室を出る。
渡り廊下を抜け、三階に上がって一番右奥が音楽室である。
中に入ると、少し埃の匂いがした。でも、それすら私にとっては心地いい。
誰もいない音楽室では、時計の音とモノクロームの音だけが響く。生き物の音は私の呼吸音しかしない。なにより落ち着く空間だ。
友だち同士のおしゃべり、女子会、カラオケ。考えただけでも吐き気がする。
私は、人付き合いが苦手だ。
友だちはそれなりにいるけれど、友だちと過ごすよりもひとりでいた方がいい。
その口実としてやっているのが音楽――ピアノだった。
音楽は好きだけど、のめり込むほどでもない。
私は、なにをとっても本気になれない人間なのだ。
ピアノ椅子に腰掛け、ふうっと息を吐く。
やっとひとりになれた。
(……って、そもそも私はひとりだった)
既に両親を失っている私に本物の家族はいない。
いるのは仮初の友だちと、同情で私を飼った変わり者の親族。
資産家だったその人の養子になった私は、偽物のお嬢様になっていた。
グランドピアノの鍵盤を優しく叩いて、私はひとり音の余韻を楽しむ。
今日は頭が冴えている。
(何曲か作れそう)
窓の外から聞こえてくるのは、スパイクが地面を蹴る音。金属バットが球を打ち上げる音。歓声にかけ声。風に乗って聞こえてくる音は、とてもみずみずしい。
インスピレーションが湧き上がってくる。
流れるように動き出す指先と、弾む鍵盤。メロディが耳を突き抜けて、全身の血をふつふつとさせる。
無我夢中で、白紙の楽譜におたまじゃくしを書き込んでいく。
「……よし。できた」
完成した譜面をもう一度弾き、耳で感じた違和感を修正していく。それを何度も繰り返す。
「はぁー……楽しい」
一曲が完成して、私はごろんとピアノの下に転がった。
集中し過ぎたせいか、瞼が重い。そういえば、しばらくテスト勉強で睡眠時間を削っていたのだった。
眠いわけだ。
私は散らばった楽譜を片付けることもせずに、そっと目を閉じた。