④
とぼとぼと廊下を歩いていると、クラスメイトの中堂裕翔と出くわした。
「おっ、響介! なにしてんの」
裕翔はクラスのお調子者担当男子である。
「……今から帰るところ」
「あれ、今日彼女は? というかなんか暗くね?」
きょろきょろとしながら、中堂が言う。
「今日は別々。友達と会う約束してるんだって」
すると、中堂はにやっと笑いながら、楽しそうに尋ねてきた。
「へぇ。なに、もしかして別れた? ふられた?」
「別れてないし、ふられてもない」
そもそも付き合っているかどうかすら怪しいところだ。中堂には絶対、口が裂けても言わないけれど。
「なんだ、つまんねー」
「なんだよ、つまんないって」
僕は足を早めて階段に向かった。しかし、中堂はまだ話したいらしく、僕についてくる。
「そういえばお前ってさ、知ってんの? 彼女の噂」
「噂?」
足が止まった。振り向き、尋ねる。
「噂ってなんだよ?」
「俺も部活の後輩から聞いた話だから、詳しくは知らないけど」
「なんだよ、今さらもったいぶるなよ」
「彼女ってさ、魔法使いなんだって」
「……は? 魔法使い?」
思考が停止する。けれどそれはほんの一瞬で、僕はすぐに我に返った。再び足を前に踏み出す。
「……真面目に聞いて損した。じゃ、また明日な中堂」
「ちょちょ、待って! マジなんだって! 俺の後輩が彼女と同中だったらしいんだけどさ、中一のときは彼女、全然普通に喋ってたんだって」
そういえば、僕は夏恋がどうして喋れないのか、理由を聞いたことがなかった。
何度も聞こうと思った。
でも、聞いたところで夏恋が喋れるようになるわけでもないし、夏恋が嫌がるかもしれないと思うと怖くて、聞けなかった。
「じゃあ、なんで」
中堂は声をひそめた。
「それがさ、あるとき突然喋れなくなったんだって。その子と仲が良かった子に後輩が聞いたら、大切な人を助けた代償……って、言ってたらしいぜ」
「大切な人を助けた代償……?」
眉を寄せる。
意味がわからない。分からないけれど、それはとても恐ろしいことのような気がした。
「それからさ、今度は色がひとつずつ識別できなくなっていったんだって。最初は黄色、次は緑……って感じで。さすがに彼女の親が心配して、いろいろ病院に連れていったみたいだけど……治る見込みはないんだってさ。可哀想だよな。あんなに可愛いのに」
「…………」
指先まで通っていた血がすうっと冷えていく心地がした。
「でもさ、彼女、好きな人が染めてくれたから寂しくないんだって、笑ってたらしいぜ」
「好きな人……?」
「そう。好きな人」
僕はもやもやとした嫌な気分のまま階段を降りて、昇降口の傘立てに差しておいた赤い傘を掴んだ。
そのときだった。
脳内にビジョンが弾けた。
灰色の雨空。大きなトラックと、響くクラクション。歩行者用の青信号、透明のビニール傘と、舞う血飛沫……。
ハッとして、赤い傘から手を離す。
ビジョンが消えたあとも、心臓は激しく打っていた。手が震えている。
なんだ、今のは。
いや。なんだ、じゃない。
これは、これから起こるであろう未来。これから起こる悲劇の前兆だ。
「……夏恋」
舌が痺れて、うまく言葉が出てこない。
しかし、次の瞬間。
ぼくは弾かれたように、タイルの地面を蹴って走り出した。
校門を出て、長い坂を下る。はるか前方に夏恋の姿が見えた。
「夏恋っ!」
しかし、雨と脇を通り過ぎていく車のせいで、僕の声は夏恋には届かない。
僕は必死に走った。走るたび、振動が脳に伝わる。
あぁ、僕はまた記憶を失うのか。きっと失うのは夏恋の記憶だ。でも、今回ばかりは心から未来を視られてよかったと思う。
夏恋を助けられるなら、記憶くらいいくらでも差し出してやる。
「夏恋っ! 止まれ!」
しかし、夏恋は僕に気付かない。
夏恋の前には大きな交差点の横断歩道。歩行者用の信号は、赤だ。
景色が加速する。
信号が、パッと切り替わった。灰色の街の中に、鮮やかな青が咲く。
信号機から赤が消えたことを確認した夏恋が、足を踏み出す。
「夏恋っ!!」
上がる息の中で必死に叫ぶと、ふと夏恋が立ち止まり、振り返った。
きらり、と夏恋の顔半分を、車のライトらしきものが照らす。
僕は力の限り地面を蹴り、夏恋を押し倒した。
次の瞬間。
大きなクラクションが夕方の街中に響き、数羽の鴉が空に舞い上がった――。
遠くで雨の音がした。
全身が水に浸かっている。海の上に浮いているような感覚ではなく、水溜まりの中に寝そべっているような感覚だった。
『――先輩!』
知らない声がする。明るく弾む、可愛らしい声だ。まるで、花がそよぐような……。
知らないはずなのに、どうしてか懐かしい。すごく、耳触りのいい声だった。
夏恋がもし話せたら、きっとこんな声をしてるのかな、なんて場違いなことを考えた。
『――響介くん』
今度は悲しそうな声だ。今にも泣きそうで、放っておけない。ずきん、と直接脳を突き刺すような痛みが、突然僕を襲った。
(この声は、誰……?)
* * *
ジリリリ、と無機質な目覚ましの音が耳朶を叩く。重い瞼を開けると、見慣れた天井がぼやけた視界に映った。家だ。
(あれ……僕ってば、いつの間に帰ってきたんだろう……)
目覚ましを止めたとき、ふと、昨日の記憶が蘇った。
青信号の横断歩道。猛スピードで向かってくるトラック。
けたたましいクラクションの音に重なって響く、急ブレーキの音。驚いて飛び立つ鴉の群れ――。
「夏恋っ……!!」
弾かれたように飛び起きる。
行かなくちゃ。
急いで制服に着替え、玄関に置いてあった赤い傘を手に、家を飛び出した。
青紫色の雨が降る早朝の街を傘も差さずに駆け抜け、電車に飛び込む。
ぽろぽろと、指の隙間からなにかがこぼれ落ちていく。けれど、なにが零れていったのか、分からない。
学校の最寄り駅で下車すると、空は霞んでいた。土砂降りだ。
傘はない。けれど僕はなぜか、迷うことなく走った。そして、交差点の前で立ち止まる。制服が水を吸って体が重い。
瞬きをした。
視界は白く煙っている。雨に打たれながら、僕はあれ、と首を傾げる。
スマホのロック画面には、六時三十二分とある。
「……コンビニで傘買えばよかったかな」
こんなにびしょ濡れになって学校に来る必要なんて、なかったのに。
とはいえ今さら傘なんて買ってもしょうがないから、僕は小走りで長い長い坂を昇った。
二○三一年、九月十七日のことである。