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 夏恋(かれん)は僕より二つ年下の一年生だった。彼女は口が聞けないだけでなく、いくつかの色も分からないという。

 

 赤は分かるが、青や緑、黄色の識別(しきべつ)ができないらしい。けれど、そんなハンデを感じさせないくらい、夏恋は明るく無邪気な少女だった。おまけにすごく懐っこい。

 

 休み時間や昼休みに顔を合わせると、夏恋はぱたぱたと駆け寄ってきては僕のノートにいたずらして帰っていく。

 

 最初は落書きだったそれが、連絡先に変わって、いつしか二人で会う待ち合わせの場所や時間になった。

 

 最寄(もよ)り駅が同じだと知ったときは、思わず笑ってしまった。夏恋もにこにこしていた。


 僕たちは、たぶん出会うべくして出会ったのだ。そんな馬鹿(ばか)げた言葉を心から信じられるくらいに、お互い強く()かれ合った。


 好きだと言ったのは、夏恋と出会って二ヶ月が過ぎた残夏(ざんか)だった。

 

 夏休みに入ると、僕たちは毎日のようにカフェや図書館で勉強したり、映画館や水族館に行ってデートしたりした。

 

 まさに青々とした日々を送っていた。

 

 夏休み最後の日、僕たちはふたりで海辺の街へ行った。

 波打ち際で裸足になってきゃらきゃらとはしゃぐ夏恋は、やっぱり可愛くて、どうしようもないくらいに愛おしいと思った。

 

 近くのハンバーガーショップに入って、ポテトとナゲットを分け合いながらノートを広げて、勉強したり勉強に飽きたら会話したり落書きして遊んだ。

 

 その後は、手を繋いで人気の商店街を観光した。

 

 夜になって海に戻ってくると、辺りはすっかり真っ暗で、人気はなくなっていた。

 藍色の(とばり)の下では、波の音しか聞こえない。まるでこの世界にふたりきりになってしまったようだった。

 

 夏恋の手には、ついさっき商店街で買った花火セット。

  

 ぱちぱちと小さく()ぜる線香花火を、ぼくたちは隣り合ってぼんやりと見つめていた。

「…………」

 沈黙はもう慣れたものだったのに、お互いどこかそわそわしていた。

 まあるい火球(かきゅう)が、僕の指先からぽっと落ちる。夏恋のはまだぽとぽとと灯っていた。

 

 顔を上げる。言うなら、今しかない。 

「……夏恋、あのさ」

 

 名前を呼ぶと、夏恋が僕を見た。

 澄んだ泉のような瞳の中には、淡い火花が咲いていた。

 

「夏恋、僕……」

 

 ――好きだ。

 そう言おうとして、言葉が途切れた。唇にあたたかな感触が広がって、僕は目を(みは)る。


 夏恋に、キスされていた。一瞬にも満たないくらいの、ほんのわずかな触れ合いだった。

 

 ぽっと、光が落ちる。

 ハッとして夏恋を見た。その瞬間、息が詰まった。


 夏恋は泣いていた。


 帰りの電車で、夏恋はずっと僕の手を握っていた。

 僕は夏恋の手を握り返しながら、悶々(もんもん)としていた。 


(これは、どっちなんだろう……)

 

 告白を(さえぎ)られて、キスされて。


(夏恋も同じ気持ち……? いや、でも……あぁ、分からない……!)

 

 車窓(しゃそう)には眉間(みけん)(しわ)を寄せた僕と、僕の手を握ったり離したりして遊ぶ夏恋が写っていた。


(……ダメだ。このままじゃダメだ。やっぱり聞くしか……)

 

「夏恋、あの……」

 隣を見ると、頭一つ分小さい夏恋がパッと顔を上げた。思いの外距離が近くて、どきりとする。


『なに?』と、夏恋が口パクで尋ねてくる。 

 あまりの可愛らしさに、頭が真っ白になった。


「あ……うん、あの……今度また、ふたりで来ようね、海」

 

 夏恋はじっと僕を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをする。

 どんどん顔が熱くなる。

 断られたら、と嫌な予感が過ぎって俯きかけたとき、夏恋がぎゅっと僕の手を握って、微笑んだ。

 

 夏恋は再び口を開いた。そして、『や、く、そ、く』と口を動かす。

 その笑顔に僕は心からホッとして、口元を緩めた。


「……うん、約束」 


 それから駅に着くまで、僕はほとんど喋らなかった。喋れなかった、というのが本音だけれど。


 駅に着き、電車から降りて外に出ると、

「……雨」

 しとしとと、糸のような雨が降っていた。すぐに止みそうだ。

「……止むまで少し待とうか」

 その雨に、僕は少し救われたように思えた。誰もいない待合室に並んで座ると、夏恋の手が離れる。

 僕の手を離した夏恋が、パッとノートを見せてきた。

 

『初めて会ったときも、雨だった』と書かれている。

「あのときは上がってたよ。陽が出てたじゃん」

 

 思わず彼女の文字に突っ込むと、夏恋はくすくすと吐息混じりに笑った。

 

『そうだったっけ? よく覚えてるね』

「そりゃ……や、普通でしょ」

 墓穴を掘りはぐって、ハッと口を噤む。夏恋はくすくすと肩を揺らしている。僕はつんとして、夏恋から視線を逸らした。


 時計の音がやけに大きい。雲が厚いせいか、通り過ぎる電車の音もいつもより近くに感じる。

 

 ふと窓の向こうを見ると、雨は止んだようだった。


 今にも止みそうだったもんな、と心の中でボヤく。もう少し降っててくれてもいいのに。

「……そろそろ帰ろうか」

 

 僕の言葉に夏恋は小さく頷くと、椅子に置いていたバッグを手に取った。


 夏恋の家は僕の家から二十分くらい離れたところにある。

 初めて夏恋を送りに来たとき、案外近いんだな、と思った。

 

 夏恋とは中学校が被っていた。

 僕が通っていた中学は私立霞原中学校しりつかすみはらちゅうがっこうという、都内(とない)でも有名な音楽系(おんがくけい)名門校(めいもんこう)である。


 当時のクラスメイトたちは、僕以外全員附属(ふぞく)の高校へそのまま進学した。外部受験(がいぶじゅけん)をしたのは僕だけだった。


 外部受験自体珍しいのに、夏恋も同じ中学からの外部受験組だなんて、逆に運命(うんめい)を感じてしまう。

 

 夏恋を自宅に送り届けると、僕は少しの間空の下に突っ立って、灰色の雲に覆われたぼやけた空を眺めていた。

 

 どれくらいそうしていたのだろう。ぽつ、と一雫の雨が頬に当たって我に返る。

 そろそろ帰らないと怒られるな、と親の顔を思い出し、僕はひとりきりの夜道を歩き出した。 


 夏休みが明けて、学校が始まった。 

 僕と夏恋は相変わらず仲良くやっているが、距離感がいまいち掴めないままでいる。


 九月の初め。放課後、僕はひとり、音楽室で雨のそぼ降るグラウンドを眺めていた。

 視線の先では、青春の音が弾けている。 

 小雨(こさめ)とはいえ()れるだろうに、運動部が部活を中断する気配はない。


 何気なく昇降口を見ていると、透明のビニール傘を差した女子学生が一人、駅の方へ向かう姿が見えた。遠くても分かる。

 夏恋だ。

 夏恋は今日他校の友達と用事があるからと言って、僕たちは別々に帰ることになっていた。

 

 夏恋の後ろ姿を眺めていると、胸がふっと締め付けられるような感じになった。

 たまに、遠くにいる夏恋を見るとこういうふうになる。

 

 これは、なんなのだろう。

 彼女に対して、ずっと感じていた違和感。


(僕はもしかしたら……夏恋と前に、会ったことがある……?)


 心の奥の柔らかいところが、かたりと音を立てた。

 

 僕はスマホを取り出した。

『夏恋。音楽室見て』

 歩いていた夏恋が、ブレザーのポケットを気にして立ち止まる。ポケットからスマホを取り出して、そして――僕の方を振り向いた。

 

 かちりと目が合った……気がする。

 

 夏恋はぴょんぴょんと飛んで手を振ってくれた。

 可愛い。文字にして伝えようかとも思ったが、きりがないのでやめておいた。

 

 僕も手を振り返しながら、メッセージを送った。

『また明日ね』


 彼女の姿が見えなくなると、僕は(かばん)を手に取り、音楽室を出る。

 歩きながら、(いもうと)詩織(しおり)に連絡を取った。


 妹の詩織は今中学三年生で、僕と夏恋が通っていた私立霞原中学校に通っている。


 夏恋とは一歳差だ。僕の能力のことを知る詩織なら、もしかしたらなにか知っているかもしれない。

 

『もしもし、なに? お兄ちゃん』

「あ、あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」

『聞きたいこと?』

「音羽夏恋、って知ってる?」

 

 スマホの向こうで、詩織が息を呑んだ。

 

『……お兄ちゃん、もしかして思い出したの?』

「……え」

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