③
夏恋は僕より二つ年下の一年生だった。彼女は口が聞けないだけでなく、いくつかの色も分からないという。
赤は分かるが、青や緑、黄色の識別ができないらしい。けれど、そんなハンデを感じさせないくらい、夏恋は明るく無邪気な少女だった。おまけにすごく懐っこい。
休み時間や昼休みに顔を合わせると、夏恋はぱたぱたと駆け寄ってきては僕のノートにいたずらして帰っていく。
最初は落書きだったそれが、連絡先に変わって、いつしか二人で会う待ち合わせの場所や時間になった。
最寄り駅が同じだと知ったときは、思わず笑ってしまった。夏恋もにこにこしていた。
僕たちは、たぶん出会うべくして出会ったのだ。そんな馬鹿げた言葉を心から信じられるくらいに、お互い強く惹かれ合った。
好きだと言ったのは、夏恋と出会って二ヶ月が過ぎた残夏だった。
夏休みに入ると、僕たちは毎日のようにカフェや図書館で勉強したり、映画館や水族館に行ってデートしたりした。
まさに青々とした日々を送っていた。
夏休み最後の日、僕たちはふたりで海辺の街へ行った。
波打ち際で裸足になってきゃらきゃらとはしゃぐ夏恋は、やっぱり可愛くて、どうしようもないくらいに愛おしいと思った。
近くのハンバーガーショップに入って、ポテトとナゲットを分け合いながらノートを広げて、勉強したり勉強に飽きたら会話したり落書きして遊んだ。
その後は、手を繋いで人気の商店街を観光した。
夜になって海に戻ってくると、辺りはすっかり真っ暗で、人気はなくなっていた。
藍色の帳の下では、波の音しか聞こえない。まるでこの世界にふたりきりになってしまったようだった。
夏恋の手には、ついさっき商店街で買った花火セット。
ぱちぱちと小さく爆ぜる線香花火を、ぼくたちは隣り合ってぼんやりと見つめていた。
「…………」
沈黙はもう慣れたものだったのに、お互いどこかそわそわしていた。
まあるい火球が、僕の指先からぽっと落ちる。夏恋のはまだぽとぽとと灯っていた。
顔を上げる。言うなら、今しかない。
「……夏恋、あのさ」
名前を呼ぶと、夏恋が僕を見た。
澄んだ泉のような瞳の中には、淡い火花が咲いていた。
「夏恋、僕……」
――好きだ。
そう言おうとして、言葉が途切れた。唇にあたたかな感触が広がって、僕は目を瞠る。
夏恋に、キスされていた。一瞬にも満たないくらいの、ほんのわずかな触れ合いだった。
ぽっと、光が落ちる。
ハッとして夏恋を見た。その瞬間、息が詰まった。
夏恋は泣いていた。
帰りの電車で、夏恋はずっと僕の手を握っていた。
僕は夏恋の手を握り返しながら、悶々としていた。
(これは、どっちなんだろう……)
告白を遮られて、キスされて。
(夏恋も同じ気持ち……? いや、でも……あぁ、分からない……!)
車窓には眉間に皺を寄せた僕と、僕の手を握ったり離したりして遊ぶ夏恋が写っていた。
(……ダメだ。このままじゃダメだ。やっぱり聞くしか……)
「夏恋、あの……」
隣を見ると、頭一つ分小さい夏恋がパッと顔を上げた。思いの外距離が近くて、どきりとする。
『なに?』と、夏恋が口パクで尋ねてくる。
あまりの可愛らしさに、頭が真っ白になった。
「あ……うん、あの……今度また、ふたりで来ようね、海」
夏恋はじっと僕を見つめたまま、ゆっくりと瞬きをする。
どんどん顔が熱くなる。
断られたら、と嫌な予感が過ぎって俯きかけたとき、夏恋がぎゅっと僕の手を握って、微笑んだ。
夏恋は再び口を開いた。そして、『や、く、そ、く』と口を動かす。
その笑顔に僕は心からホッとして、口元を緩めた。
「……うん、約束」
それから駅に着くまで、僕はほとんど喋らなかった。喋れなかった、というのが本音だけれど。
駅に着き、電車から降りて外に出ると、
「……雨」
しとしとと、糸のような雨が降っていた。すぐに止みそうだ。
「……止むまで少し待とうか」
その雨に、僕は少し救われたように思えた。誰もいない待合室に並んで座ると、夏恋の手が離れる。
僕の手を離した夏恋が、パッとノートを見せてきた。
『初めて会ったときも、雨だった』と書かれている。
「あのときは上がってたよ。陽が出てたじゃん」
思わず彼女の文字に突っ込むと、夏恋はくすくすと吐息混じりに笑った。
『そうだったっけ? よく覚えてるね』
「そりゃ……や、普通でしょ」
墓穴を掘りはぐって、ハッと口を噤む。夏恋はくすくすと肩を揺らしている。僕はつんとして、夏恋から視線を逸らした。
時計の音がやけに大きい。雲が厚いせいか、通り過ぎる電車の音もいつもより近くに感じる。
ふと窓の向こうを見ると、雨は止んだようだった。
今にも止みそうだったもんな、と心の中でボヤく。もう少し降っててくれてもいいのに。
「……そろそろ帰ろうか」
僕の言葉に夏恋は小さく頷くと、椅子に置いていたバッグを手に取った。
夏恋の家は僕の家から二十分くらい離れたところにある。
初めて夏恋を送りに来たとき、案外近いんだな、と思った。
夏恋とは中学校が被っていた。
僕が通っていた中学は私立霞原中学校という、都内でも有名な音楽系の名門校である。
当時のクラスメイトたちは、僕以外全員附属の高校へそのまま進学した。外部受験をしたのは僕だけだった。
外部受験自体珍しいのに、夏恋も同じ中学からの外部受験組だなんて、逆に運命を感じてしまう。
夏恋を自宅に送り届けると、僕は少しの間空の下に突っ立って、灰色の雲に覆われたぼやけた空を眺めていた。
どれくらいそうしていたのだろう。ぽつ、と一雫の雨が頬に当たって我に返る。
そろそろ帰らないと怒られるな、と親の顔を思い出し、僕はひとりきりの夜道を歩き出した。
夏休みが明けて、学校が始まった。
僕と夏恋は相変わらず仲良くやっているが、距離感がいまいち掴めないままでいる。
九月の初め。放課後、僕はひとり、音楽室で雨のそぼ降るグラウンドを眺めていた。
視線の先では、青春の音が弾けている。
小雨とはいえ濡れるだろうに、運動部が部活を中断する気配はない。
何気なく昇降口を見ていると、透明のビニール傘を差した女子学生が一人、駅の方へ向かう姿が見えた。遠くても分かる。
夏恋だ。
夏恋は今日他校の友達と用事があるからと言って、僕たちは別々に帰ることになっていた。
夏恋の後ろ姿を眺めていると、胸がふっと締め付けられるような感じになった。
たまに、遠くにいる夏恋を見るとこういうふうになる。
これは、なんなのだろう。
彼女に対して、ずっと感じていた違和感。
(僕はもしかしたら……夏恋と前に、会ったことがある……?)
心の奥の柔らかいところが、かたりと音を立てた。
僕はスマホを取り出した。
『夏恋。音楽室見て』
歩いていた夏恋が、ブレザーのポケットを気にして立ち止まる。ポケットからスマホを取り出して、そして――僕の方を振り向いた。
かちりと目が合った……気がする。
夏恋はぴょんぴょんと飛んで手を振ってくれた。
可愛い。文字にして伝えようかとも思ったが、きりがないのでやめておいた。
僕も手を振り返しながら、メッセージを送った。
『また明日ね』
彼女の姿が見えなくなると、僕は鞄を手に取り、音楽室を出る。
歩きながら、妹の詩織に連絡を取った。
妹の詩織は今中学三年生で、僕と夏恋が通っていた私立霞原中学校に通っている。
夏恋とは一歳差だ。僕の能力のことを知る詩織なら、もしかしたらなにか知っているかもしれない。
『もしもし、なに? お兄ちゃん』
「あ、あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
『聞きたいこと?』
「音羽夏恋、って知ってる?」
スマホの向こうで、詩織が息を呑んだ。
『……お兄ちゃん、もしかして思い出したの?』
「……え」