②
喉と胸がぎゅっと詰まり、瞼が熱くなる。
「――夏恋」
その情景は驚くほどの解像度で、僕の目に飛び込んでくる。
楽譜が落ちても、風に揺れていたカーテンが落ち着いても、動くことができない。
夏恋が、いる。
ずっと、この三年間ずっと僕を見守ってくれていた夏恋が。まっすぐ、僕を見ている。
「……白木、先輩」
かすかな声が聞こえた。
夏恋が、喋っている。僕の名前を呼んでいる。それだけで、涙が溢れ出しそうになる。
嘘みたいだ。だって、彼女はずっと――。
奥歯を噛んだ。涙を堪えて、ゆっくり彼女に歩み寄っていく。
夏恋は信じられないものでも見るように、僕を見つめている。
「……あの」
なにから言おう。なんて、言おう。
心臓が口から飛び出すんじゃないかというくらい、激しく鳴っている。
言葉が出てこないまま、それでもなにかを言いたくて口を開いては閉じ、開いては閉じ、を繰り返す。
迷っていると、夏恋が立ち上がった。僕には知らんぷりして、散らばった楽譜を拾い集めている。
僕も、慌てて近くに落ちていた楽譜を拾った。手に取ったのは、一ページ目だった。
「青の……音……?」
ハッとしたように彼女が顔を上げる。その顔は、みるみるうちに赤く染まっていった。
これは、僕がつけた――。
ばっと、楽譜を奪われた。夏恋は泣きそうな顔をして、僕から背を向けてうずくまる。その背中は、とても小さかった。
「……夏恋」
そっと声をかけてみる。
「誰ですか」
感情を押し殺すような、抑揚のない声が返ってくる。
「僕だよ、夏恋」
「……知らない」と、不機嫌そうな声が返ってきた。
「……僕は、知ってるよ。君のこと」
夏恋は黙ったまま、答えない。
「ピアノが好きで、甘いものが好きで、運動が嫌いで、水族館と海が好きな女の子」
ぴくりと、夏恋の肩が揺れた。
「それから……命懸けで、ずっとずっと僕を守ってくれてた女の子。……夏恋。僕、全部覚えてるんだよ。全部思い出したよ」
夏恋はようやく、僕を振り返った。その目は、まるで怯えた仔猫のようだ、と思った。
僕は夏恋に手を差し出す。
「僕に、君のことをもっと教えてほしい」
すると、夏恋は僕の手をパッと振り払った。息が詰まった。
「……忘れるから、嫌です」
ぴしゃりと言われた。にべもない。仔猫というより、警戒心の強い野良猫だ。
ぐ、と奥歯を噛む。
でも、そうさせたのは僕だ。彼女の反応は、これまでのことを考えたら当たり前のことだ。むしろ、話してくれるだけでも寛大だと思う。
「……もう、絶対忘れない」
「嘘」
「嘘じゃない」
口調がつい、強くなってしまう。夏恋がぎゅっと唇を引き結んだ。
夏恋は少しの間黙り込んで、そしてからゆっくり口を開いた。
「……私は、いつも置いていかれるの。もう、置いていかれるのはいや。怖い。私はもう、白木先輩のこと、なにも知りたくない」
夏恋のかすかに震えた声に、どうしようもないほどの切なさが胸を締め付けて、涙が溢れた。
置いていかないで。
彼女がずっと、飲み込み続けてきたであろう言葉。ずっと、ずっと……。
「夏恋……」
「もう……誰、って言われるのはいや。はじめましてなんていや。好きだって言われるのも怖い。もう……もう」
なにも聞きたくない、と夏恋は両手で耳を塞いだ。
どうすればいいだろう。
彼女に信頼してもらうには、彼女を安心させるには……。
いくら考えても、言葉は見つからない。
これまで絶望を何度も視てきた彼女には、もう、どんな言葉だって届かないかもしれない。
それでも、夏恋がずっと僕を諦めないでいてくれたように、僕も諦めたくない。ずっと、追いかけたい。今度こそ、僕が。
「……この前の事件の未来は、視えなかったんだ」
夏恋が顔を上げる。
「今日、虹を見てすべてを思い出したんだ。この三年間、僕がどんな未来を歩んできたのか」
でも、今は今だ。僕が今朝視たのは、未来じゃなくて、過去だ。
記憶はべつとして、今のところ、僕は未来なんてものを視たことは一度もない。
「ずっと苦しい思いをさせた。今さら、夏恋は僕のことなんて見たくもないかもしれない。ようやく普通の暮らしを取り戻せて、べつの、新しい恋をしようと――」
言い終わる前に、夏恋が抱きついてきた。受け止めながら、強くその体を抱きしめた。
(こんなに小さな体で、夏恋はずっと僕を……)
「そんなわけない……私は、私は白木先輩以外なにもいらない!!」
嬉しくて、切なくて、どうしようもないほどの愛おしさが全身を駆け巡る。夏恋の体温を確かめるように、夏恋の肩に顔を埋める。
「……ずっと、悲しい思いをさせてごめん。僕を守ってくれてありがとう」
夏恋は僕の胸に顔を押し付けて、ぐりぐりと首を振った。
「私……ずっと言いたかったことがある」
「ん?」
「白木先輩を見てると、いらいらする」
「……う、ご、ごめん」
「でも、違った……いらいらじゃなかった。私、ずっとどきどきしてた。私……知らない感情だったから怖くて、白木先輩にはもう近付きたくないって思った。好きになるのが怖かった……私には、なにもないから。私が好きな人は、みんないなくなっちゃうから。だから……逃げたかったの」
「……うん」
「……白木先輩が、音楽室に来なくなって……すごく、寂しくて」
夏恋を抱きとめたまま、うん、と頷く。
「……好き」
呟くように言った。夏恋の震える声が、僕の胸にすっと沈みこんでいく。
「今さらだけど、私、白木先輩のことが好き。大好き」
抱き締める手に力が篭もる。愛おし過ぎて、どうにかなりそうだった。
「……僕も、好きだよ。大好き」
夏恋が顔を上げた。
「もう、忘れられるのはいや」
「……うん」
「私より先に死ぬのもダメ」
「うん」
「……もう、私を置いていかないで」
怯えるように僕にすがりついてくる夏恋を、しっかりと抱き締め返す。
「約束する。もう絶対、置いていかない。どこにも」
「……それから、もうひとつ」
「うん?」
夏恋は頬を染めて、もじもじとし始めた。僕は首を傾げて見守る。
「私と、その……つ、付き合っ……」
ぎょっとした。言われる前に、思わず手で夏恋の口を塞いだ。
「むっ……!?」
その口を塞いだ瞬間、なにするんだ、という顔を向けられる。
「ま、待って待って。さすがにそれは僕が言いたい」
夏恋は眉を寄せ、目を細めた。文句が言いたいらしい。
手を離すと、「はぁ?」だの「そういうところがめんどくさい」だのと言われる気がしたので、彼女の小さな口を手で覆ったまま、僕は口を開く。
「結婚してほしい」
僕の声は、静かな音楽室にまるでトライアングルの音のようにりんと響いた。