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 喉と胸がぎゅっと詰まり、瞼が熱くなる。

「――夏恋」

 その情景は驚くほどの解像度で、僕の目に飛び込んでくる。

 楽譜が落ちても、風に揺れていたカーテンが落ち着いても、動くことができない。

 

 夏恋が、いる。

 ずっと、この三年間ずっと僕を見守ってくれていた夏恋が。まっすぐ、僕を見ている。


「……白木、先輩」


 かすかな声が聞こえた。


 夏恋が、喋っている。僕の名前を呼んでいる。それだけで、涙が溢れ出しそうになる。


 嘘みたいだ。だって、彼女はずっと――。


 奥歯を噛んだ。涙を堪えて、ゆっくり彼女に歩み寄っていく。

 

 夏恋は信じられないものでも見るように、僕を見つめている。

「……あの」 


 なにから言おう。なんて、言おう。

 心臓が口から飛び出すんじゃないかというくらい、激しく鳴っている。


 言葉が出てこないまま、それでもなにかを言いたくて口を開いては閉じ、開いては閉じ、を繰り返す。


 迷っていると、夏恋が立ち上がった。僕には知らんぷりして、散らばった楽譜を拾い集めている。

 僕も、慌てて近くに落ちていた楽譜を拾った。手に取ったのは、一ページ目だった。

「青の……音……?」

 ハッとしたように彼女が顔を上げる。その顔は、みるみるうちに赤く染まっていった。


 これは、僕がつけた――。

 ばっと、楽譜を奪われた。夏恋は泣きそうな顔をして、僕から背を向けてうずくまる。その背中は、とても小さかった。

 

「……夏恋」

 そっと声をかけてみる。

「誰ですか」

 感情を押し殺すような、抑揚のない声が返ってくる。

「僕だよ、夏恋」

「……知らない」と、不機嫌そうな声が返ってきた。

 

「……僕は、知ってるよ。君のこと」

 夏恋は黙ったまま、答えない。

「ピアノが好きで、甘いものが好きで、運動が嫌いで、水族館と海が好きな女の子」


 ぴくりと、夏恋の肩が揺れた。

「それから……命懸けで、ずっとずっと僕を守ってくれてた女の子。……夏恋。僕、全部覚えてるんだよ。全部思い出したよ」


 夏恋はようやく、僕を振り返った。その目は、まるで怯えた仔猫のようだ、と思った。


 僕は夏恋に手を差し出す。


「僕に、君のことをもっと教えてほしい」

 すると、夏恋は僕の手をパッと振り払った。息が詰まった。


「……忘れるから、嫌です」

 ぴしゃりと言われた。にべもない。仔猫というより、警戒心の強い野良猫だ。


 ぐ、と奥歯を噛む。


 でも、そうさせたのは僕だ。彼女の反応は、これまでのことを考えたら当たり前のことだ。むしろ、話してくれるだけでも寛大だと思う。


「……もう、絶対忘れない」

「嘘」

「嘘じゃない」


 口調がつい、強くなってしまう。夏恋がぎゅっと唇を引き結んだ。


 夏恋は少しの間黙り込んで、そしてからゆっくり口を開いた。

「……私は、いつも置いていかれるの。もう、置いていかれるのはいや。怖い。私はもう、白木先輩のこと、なにも知りたくない」


 夏恋のかすかに震えた声に、どうしようもないほどの切なさが胸を締め付けて、涙が溢れた。


 置いていかないで。

 彼女がずっと、飲み込み続けてきたであろう言葉。ずっと、ずっと……。


「夏恋……」

「もう……誰、って言われるのはいや。はじめましてなんていや。好きだって言われるのも怖い。もう……もう」


 なにも聞きたくない、と夏恋は両手で耳を塞いだ。


 どうすればいいだろう。

 彼女に信頼してもらうには、彼女を安心させるには……。


 いくら考えても、言葉は見つからない。


 これまで絶望を何度も視てきた彼女には、もう、どんな言葉だって届かないかもしれない。


 それでも、夏恋がずっと僕を諦めないでいてくれたように、僕も諦めたくない。ずっと、追いかけたい。今度こそ、僕が。


「……この前の事件の未来は、視えなかったんだ」

 夏恋が顔を上げる。

「今日、虹を見てすべてを思い出したんだ。この三年間、僕がどんな未来を歩んできたのか」 


 でも、今は今だ。僕が今朝視たのは、未来じゃなくて、過去だ。

 記憶はべつとして、今のところ、僕は未来なんてものを視たことは一度もない。


「ずっと苦しい思いをさせた。今さら、夏恋は僕のことなんて見たくもないかもしれない。ようやく普通の暮らしを取り戻せて、べつの、新しい恋をしようと――」


 言い終わる前に、夏恋が抱きついてきた。受け止めながら、強くその体を抱きしめた。


(こんなに小さな体で、夏恋はずっと僕を……)

 

「そんなわけない……私は、私は白木先輩以外なにもいらない!!」


 嬉しくて、切なくて、どうしようもないほどの愛おしさが全身を駆け巡る。夏恋の体温を確かめるように、夏恋の肩に顔を埋める。

「……ずっと、悲しい思いをさせてごめん。僕を守ってくれてありがとう」

 

 夏恋は僕の胸に顔を押し付けて、ぐりぐりと首を振った。


「私……ずっと言いたかったことがある」

「ん?」

「白木先輩を見てると、いらいらする」

「……う、ご、ごめん」

「でも、違った……いらいらじゃなかった。私、ずっとどきどきしてた。私……知らない感情だったから怖くて、白木先輩にはもう近付きたくないって思った。好きになるのが怖かった……私には、なにもないから。私が好きな人は、みんないなくなっちゃうから。だから……逃げたかったの」


「……うん」

「……白木先輩が、音楽室に来なくなって……すごく、寂しくて」


 夏恋を抱きとめたまま、うん、と頷く。

 

「……好き」

 呟くように言った。夏恋の震える声が、僕の胸にすっと沈みこんでいく。

「今さらだけど、私、白木先輩のことが好き。大好き」

 抱き締める手に力が篭もる。愛おし過ぎて、どうにかなりそうだった。

「……僕も、好きだよ。大好き」


 夏恋が顔を上げた。

「もう、忘れられるのはいや」

「……うん」

「私より先に死ぬのもダメ」

「うん」

「……もう、私を置いていかないで」


 怯えるように僕にすがりついてくる夏恋を、しっかりと抱き締め返す。


「約束する。もう絶対、置いていかない。どこにも」

「……それから、もうひとつ」

「うん?」

 

 夏恋は頬を染めて、もじもじとし始めた。僕は首を傾げて見守る。

「私と、その……つ、付き合っ……」

 ぎょっとした。言われる前に、思わず手で夏恋の口を塞いだ。

「むっ……!?」


 その口を塞いだ瞬間、なにするんだ、という顔を向けられる。

「ま、待って待って。さすがにそれは僕が言いたい」


 夏恋は眉を寄せ、目を細めた。文句が言いたいらしい。


 手を離すと、「はぁ?」だの「そういうところがめんどくさい」だのと言われる気がしたので、彼女の小さな口を手で覆ったまま、僕は口を開く。


「結婚してほしい」

 僕の声は、静かな音楽室にまるでトライアングルの音のようにりんと響いた。

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