②
「失礼しまーす……」
その瞬間。夏の朝の澄んだ風が、ふわっと僕を優しく包んだ。
息が、止まる。
視界には、黒光りするグランドピアノ。そのピアノ椅子に、一人の少女が腰を下ろしていた。
窓から吹き込んだ夏風に揺れる、長い黒髪。
お人形のような黒々とした瞳と、真昼の空のように青白く澄んだ白目。
雨上がり特有の薄い陽の光が、彼女のシルエットを女神のごとく照らしている。
ピアノの上に無造作に置かれていた楽譜が、風に舞ってはらりとぼくの足元に落ちる。
少女と夏風に舞う楽譜。
なんだろう、この違和感。どこか、懐かしいような――。
その光景はやけに鮮明に、スローモーションのように僕の脳裏に焼き付いた。
「……君、前に僕とどこかで会ったこと、ある?」
気が付けば、口が勝手にそう言葉を紡いでいた。
口にしてから、ハッと我に返る。
いや、なにを言っているのだろう。これではまるでナンパではないか。
「あ……いや、ごめん、なんでもない」
慌てて前言を撤回していると、
「っ……」
呻くような声を漏らしたあと、少女は僕を見つめて――なぜか、涙を流していた。
大きな目から溢れ出したまるまるとした雫が、綺麗な卵形の輪郭をなぞり、顎先からぽとりと落ちる。いくつもいくつも、ぽっぽっと落ちていく。
「えっ!?」
突然の涙に、僕は文字通り慌てた。
「え、え!? ご、ごめん。今の冗談だから、僕、変な奴じゃないから泣かないで!!」
慌てて弁明しながら駆け寄ると、少女はさらに泣き出した。
声は出さず、ただそれでもわんわんという表現が正しいと思うくらいに泣き続ける。そして、とうとう両手で顔を覆ってうずくまってしまった。
「あの、な、泣かないで……」
突然泣き出した少女に、僕は頭を抱えた。
(や……やってしまった……)
とりあえずハンカチを渡し、彼女が泣き止むのを傍らで待つ。
ひっく、と時折しゃくりあげながらも、ようやく少女の涙が落ち着いてきた頃。
「あの……」
おずおずと口を開いた。
「ごめんね? 驚かせたみたいで」
すると、少女はぶんぶん、と首を横に振った。
雨上がりの音楽室には、僕と少女しかいない。深い海の底のような、ひそやかな沈黙が流れている。
というか、なぜ喋らないのだろう。疑問を抱いたと同時に、少女が立ち上がった。
そのままとことこと黒板の前まで行くと、チョークを手に取り、カツカツとなにやら書き出した。
『驚いただけ』
「ん……?」
『君が、いきなり来たから』
彼女が黒板に書いた言葉を繋げて、ようやく理解する。
「あぁ……僕?」
僕が自分を指さすと、少女はこっくりと頷く。
そういうことか。
「えっと……もしかして、君って」
疑問を尋ねてみようと口を開くが、上手く言葉にできず、口を噤む。
すると、少女はまた黒板に文字を書き出した。
『耳は聞こえる。喋れないだけ』
「なるほど……」
さらに、少女は手を進める。
『音羽夏恋』
チョークの白い粉を手で払いながら、少女はぼくを振り返った。
「……君の名前?」
少女は頷く。
「僕は、白木響介」
こうして僕たちは、雨上がりの陽が差す音楽室で人知れず出会った。