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 扉の前に立っていたのは、白木先輩だった。


(……嘘)


 白木先輩は私を見て、硬直していた。驚いたのは私も同じで――瞬きすらままならない。ただじっと、白木先輩を見つめ返した。


 そうしたら、白木先輩は突然、

「――君、前に僕とどこかで会ったこと、ある?」

 と言った。私は、息を詰めた。


 直後、白木先輩は頬を染めて恥ずかしそうに「なんでもない」と言った。ナンパのようで恥ずかしくなったとかだろう。純朴な彼らしい。


 久しぶりだ。照れたときの表情も、迷子の仔犬のようなその視線の動きも。

 白木先輩の匂いがする。すべてが懐かしくて、目頭がきゅっと熱くなった。


 かと思えば、私はうっかり涙を流していた。


(嘘……もしかして、もしかして……)

 

 抱いたのは、淡い期待。

 もしかしたら、なにかのきっかけで私のことを思い出してくれたのかもしれない、と。


「あの、な、泣かないで……」

 

 ……でも、違った。

 

 白木先輩の様子に特別変わりはなくて、泣き出した私にただ混乱しているだけのようだった。


(……そっか。思い出したわけじゃないんだ)


 それもそうだ。そんな都合のいいことが起こるわけがない。


 差し出されたハンカチを受け取って泣き止むと、私は黒板に立った。

『驚いただけ。君が、いきなり来たから』

 突然黒板に文字を書き出した私に、白木先輩は困惑しているようだった。

 

 もしかして君、と尋ねられたので、再びチョークで文字を書く。

『耳は聞こえる。喋れないだけ』

 続けて名前を書くと、白木先輩も名乗ってくれた。


 白木先輩とまっすぐに目が合うのは、ほぼ二年ぶりだ。

 白木先輩が高校生になってからは、私は詩織ちゃんの友だちという形で影から見守っているだけだった。

 できるだけ接点を持たないよう、白木先輩の家にも行っていなかったから、知り合いですらなかった。


 ただ、電車の中でたまに見かけることができたらそれだけで嬉しかった。

 

 それなのに……。 


 白木先輩の瞳に、私が写っている。そう思うと、心が震えた。涙が止まらない。

 二年ぶりに、私の視界に色彩が落ちた。


 この二年間、ずっと平行線だった私たちの世界。

 それは、あまりにも突然に差し込んだ光だったから、私は目が眩んで立ち尽くした。

 

 雨上がりの音楽室で、再び私と白木先輩の世界は交わったのである。


 音楽室で出会ってから、白木先輩は私を見かけると話しかけてくれるようになった。目が合うと手を振ってくれて、駆け寄ると嬉しそうに笑ってくれた。


 話ができない下級生の私が仲がいいと、白木先輩に傷がつくかもしれないと心配したけれど、当の本人はそれを気にする気配はまったくなかった。


 白木先輩はよく図書室で勉強していた。白木先輩は中学生の頃から変わらず、医者を目指しているらしかった。


 夏休みを目前に控えたとある放課後、白木先輩を図書館で見つけた。

 こそっと駆け寄り、後ろから覗く。勉強しているようだ。

 

 トントン、と肩を叩くと、白木先輩が驚いた顔をして振り返った。

「……あ、夏恋」

 私の顔を見てふっと表情を綻ばせる白木先輩に、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。


 ずっと気になっていた文庫本を本棚から一冊抜き取り、長テーブルに参考書を広げて勉強する白木先輩の向かいに腰を下ろした。 

「……帰らなくていいの?」

 白木先輩が尋ねる。


『邪魔ですか?』と文字を打つが、見せようとしてその手を止めた。こう聞いたところで、白木先輩がはっきり邪魔だと言うわけがない。

 黙って席を立とうとすると、白木先輩がすっとスマホを取った。あ、と口を開ける。


 私が打った文字を見て、白木先輩は呆れたように微笑んだ。

「邪魔なわけないでしょ。僕なんかの勉強に付き合ってもつまらないかなと思っただけだよ」

 首をぶんぶんと横に振る。つまらないわけがない。


 すると、白木先輩は「僕も、君といられて嬉しい」と笑った。

 その笑顔に、私は胸がきゅっと締め付けられた。 


 時計の音が響く静かな図書室には、私たちしかいない。正面に座った白木先輩はこの二時間、黙々と勉強している。

 小説を読み終わってしばらく経つ。

 さすがに飽きてきた。

 白木先輩は真剣な表情で参考書を読んでいる。


 ふと、ノートが目に入った。白木先輩のノートだ。開きっぱなしのまま、私の前にある。


 そうだ、と、私はこっそりそのノートを引き寄せた。

 

 ノートの端に落書きして遊んでいると、「あ、こら」と、気付いた白木先輩に小声で怒られた。


 消そうとすると、消す前にノートを奪われてしまった。白木先輩は、私が描いた猫の絵をじっと見つめていた。

 じわっと頬に熱が集まっていく。

 

『消します』と打ってスマホを見せ、ノートを奪おうとすると、白木先輩は少し考えるように黙って、「いいよ」とノートを閉じてしまった。そのまま、ふいっとそっぽを向いてしまう。


 顔を背けたまま、白木先輩がぽそっと言った。

「……可愛い。この犬」

 猫を描いたつもりだったのだが。


 顔を上げると、白木先輩の耳が赤い。

 ふっと息が漏れた。

「……あ、今、笑ったでしょ」

 白木先輩がムッとした顔をする。そんな白木先輩に、私は『犬じゃなくて猫』と打って見せた。


「えっ!? 嘘? ご、ごめん」 

 私はテーブルに頬杖をついたまま、慌てふためく白木先輩をしばらく見つめていた。

 

 白木先輩は、どんなときでもまっすぐで翳っているところがなくて、太陽に向かって咲く向日葵のようだ。

 一緒にいると、心が洗われていく感じがする。


「……そろそろ帰ろうか」

 ぱたんと参考書を閉じながら、白木先輩が言った。私も立ち上がり、文庫を元の棚へしまう。

 

 一緒に図書室を出て、階段を降りる。白木先輩は私の少し前を降りている。その背中をぼんやりと眺めながら降りていると、一段踏み外してしまった。咄嗟に手すりを掴むが、バランスを崩した体が前のめりに傾く。


 どくん、と心臓が跳ねた。


(落ち……)

 

 思わず目を瞑ると、私の体はふわっと、あたたかいなにかに抱きとめられた。

「……大丈夫?」

 おずおずと顔を上げると、白木先輩が心配そうに私を見下ろしていた。


 少し身じろぎすればキスできてしまいそうなほどの距離に、思わずパッと離れる。

 階段であることを忘れていた。また体がぐらつく私を、白木先輩が抱き寄せた。

「…………危ないよ」


 白木先輩は静かにそう言って体を離すと、私に手を差し出した。私はその手をじっと見下ろす。


「危ないから」と白木先輩はもう一度言って、私の手を取った。触れ合った手のひらはあたたかくて、優しかった。


 一緒に帰ったあの日に連絡先を交換した白木先輩との交流は、平和に続いている。


 夏休み、私と白木先輩はほぼ一緒に過ごした。

 夏休み中、白木先輩は未来を視ることはほとんどなくて、(過去の出来事は数度視ていたようだが)穏やかな日々が続いていた。


 八月もお盆を過ぎ、長い夏休みも終わりが見えてきたある日、私は家で、焼き上がったアップルパイを皿に移し替えていた。

 

 今日は詩織ちゃんと庭でお茶会をする約束なのだ。

 香ばしいバターの香りが食欲をそそる。あとは紅茶を入れる準備だけして、詩織ちゃんが来るのを待とう。

 

 薬缶に水を入れて火にかけたとき、春子さんが二階から言った。

「夏恋ちゃん。詩織ちゃん来たみたいよ」

 同時に呼び鈴が鳴る。


 ぱたぱたとスリッパの底を鳴らして、玄関に向かう。扉を開けると、黄色いワンピースを着た詩織ちゃんがぺこりと頭を下げた。

「こんにちは、夏恋ちゃん」 

 にこりと微笑んで、中に案内する。

 

 詩織ちゃんはおじゃまします、と丁寧に言って、私に紙袋を差し出した。

 首を傾げると、詩織ちゃんが言った。

「クッキーです。私、お菓子作りはできないから、買ったものだけど」

 ありがとう、と微笑んでありがたく受け取る。

 

 一度リビングに案内して、紅茶を淹れる。

 アップルパイを切り分け、お茶会の準備ができると庭のテラスに移った。


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