2031年、雨の音楽室①
2031年、夏。
玄関の扉を開け、「行ってらっしゃい」という春子さんの言葉に背中を押されるように外へ出た。
頬に当たるかすかな刺激に顔を上げる。雲の隙間から、朝の陽光が漏れていた。
風が雲を流し、陰ったり晴れたりを繰り返しているが、全体的に雲が多い。朝見たテレビのお天気お姉さんが言っていたとおり、今日は雨の確率が高そうだ。
梅雨明けはまだもう少し先らしい。傘を持ってきてよかった、と、私は手に持っていた透明なビニール傘を握り直した。
この春、私は高校生になった。
「夏恋! おはよ!」
背後から肩を叩かれて振り返ると、親友のあいがいた。
あいの制服は、紺色のブレザーだ。赤いリボンが高校生らしくて可愛らしい。対して私は、白色のブレザーを着ている。シャツは紺色で、スカートは白と赤のチェック柄。
「相変わらず早いわね。今日も音楽室に行くの?」
あいの問いに、うん、と頷く。
あいは霞原中学附属の高校にそのまま進学し、私は外部受験をして白木先輩と同じ高校に入学したため、高校は別々である。
だが、あいはたまに朝早い私の通学時間に合わせて家を出てきてくれる。一緒に歩けるのは駅方面と高校方面で別れる交差点までの十分ほどだが、その時間が私は大好きだったりする。
「最近、目はどう? 白木先輩とはもう知り合った?」
スマホを取り出し、文字を打ってあいに見せた。
『目の方は変わりない。白木先輩とはまだ全然』
見せた文字に、あいは苦い顔をして黙り込んだ。私は再び文字を打つ。
『そんな顔しないで。私は大丈夫。元気だから』
両手に力を入れて、ぐっと力こぶを作って見せる。あいが苦笑した。
『詩織ちゃんに聞いたけど、最近は未来も視てないみたい』
「そう。それならよかったけど……」
あいはまだなにかを言いたそうにしていたが、諦めたように小さく微笑んだ。そして、私を見つめて優しい声音で言った。
「……うん。まぁ、夏恋が元気ならいいの。でも、あんまり無理しちゃダメだよ。ちゃんとご飯食べて、寝るんだからね?」
お母さんのようなことを言うあいに、私は勢いよく抱きつく。
「わっ、ちょっとなにするのよ」
文句を言うあいにかまわず、私は顔をぐりぐりとあいの胸に押し付けた。
「こら夏恋。私の胸は彼のものって決まってるのよ。お安くないの」と、あいがわざとらしく大人っぽい口調で言う。
あいには今、彼氏がいる。
相手は高校で新しく出会った編入組の男の子だそうだ。私はまだ会ったことはないけれど、あいの話を聞く限り、あいはその彼にかなり惚れ込んでいる様子だった。
好きな人と一緒にいられるあいを羨ましいと思いつつ、親友が取られてしまったようで少し寂しいとも思う。
私はわざとあいから離れ、しゅんと俯いた。すると、あいが狼狽した。
「……あ、いや。でもまぁ、今日は夏恋にも許してあげなくもない……けど。夏恋は親友だから、特別」
頬が緩んだ。
やっぱり、あいは変わらない。出会ったときからずっと優しい。再びあいにぎゅっと抱きつきながら、私は、あいのことが大好きだな、と改めて思った。
交差点につき、足を止める。
あいは幼い子どもに言い聞かせるように、まっすぐ私の目を見て言った。
「ホームでは、絶対パネルより前に出ちゃダメだからね。信号も、周りを見てから……」
『分かってる』と口を動かす。あいが口を閉じた。
私は白木先輩を救うたび、ひとつずつ体の一部の機能を失っている。
最初は声だった。
失う機能は、たぶん祈りの大きさに関係しているのだと思う。
声を失ったときの願いは、白木先輩を生き返らせたときだった。そのほかで今のところ私が失っているのは、色だけだ。代償が比較的軽いのは、そこまで大きな祈りをしてないからなのだろうと思っている。最初の祈り以外では、そこまで道理に反した祈りをしていない。
私が今分かる色は、赤色だけ。ほかは、白色か黒色か灰色かだけだ。
信号の色は赤以外分からないし、色彩がないせいでちょっとした段差なども前より見えづらくなって、転ぶことも増えた。
だからか、育ての親である春子さんや親友のあいは、私が外部の高校へ進学するのを反対した。
それでも私は自分の意志を押し通した。理由はもちろん、白木先輩だ。
「……じゃあ、気を付けてね」
また、と私も手を挙げた。あいと交差点で別れると、私は駅の方向へ歩いた。
私が住む街から高校までは、電車で四駅ある。徒歩の時間を含めると、通学には約一時間ほどかかる。
長いとは思わない。勉強する時間に充てられるし、人が少ない早朝の電車は、なにより心地いい。
がたんごとん、と電車の揺れを感じながら、私は目を閉じる。
静かな電車の中でひとりでいると、ふと水の中にいるような心地になる。体が深く暗い場所に沈んで、どこまでも落ちていくような。
でも、その感覚はいやではなかった。
最寄り駅に着き下車すると、雨が降っていた。階段を昇って改札を出て、透明なビニール傘を広げる。駅から学校までは、徒歩で二十分弱だ。
雨の匂いに浸された街。いくつかの交差点を過ぎ、長い坂を登る。
この坂を初めて昇ったとき、帰りは楽だが夏の朝は辛いだろうな、と思った。たしか、高校見学のときだ。
懐かしい。
あれからもう一年が経とうとしていた。
私は今、在校生としてこの坂を登っている。思ったとおり、夏の湿気の中のこの坂はキツいな、と思った。真昼の太陽の下よりはましだと思うが。
学生の姿は、まだない。なぜなら私は、部活の生徒すらまだいない時間に登校しているからだ。
校門を過ぎ、昇降口に入ってサンダルに履き替える。鞄を持ったまま、音楽室に向かった。
中学のときとは違って、高校の音楽室に鍵はかかっていない。公立と私立の差なのかな、と思ったりもしたが、ただこの高校が田舎にあるから平和ボケしているだけかもしれない。実際のところはよく分からないが。
窓を開けて、ピアノ椅子に座り、蓋を開ける。白と黒の鍵盤は、中学のときからなにも変わらない。
いくら色を失っても同じ景色だから、唯一落ち着くのだ。
白紙の楽譜を床に散らして、私は指を流した。心の赴くまま、指の動くままに音を鳴らす。
雨音のような、柔らかな陽の光が転がるようなピアノの音が耳に心地良い。最初はにわか雨のような、そして、すっと陽が差して青い空に虹がかかるような、そんな曲がいい。
テーマは雨のち晴れにしよう、なんて思った。それなら題名はなに色がいいかな、と考える。
青、赤、オレンジ、緑……。もうほとんどの色で曲を作ってしまった。
(うーん……)
内心で唸りながら、ピアノの向こうの窓を見る。いつの間にか雨は上がり、太陽が顔を出していた。
綺麗、と思った瞬間、風が私の横をすり抜けて、床に散らしていた楽譜を舞い上がらせた。
小さく、がらりと扉が開く音がして、振り向く。
振り向いて、目を瞠った。