⑤
警察の聴取を終え、ようやく一息つけた私たちは、改めて白木先輩に礼を言った。
春子さんは白木先輩とは初対面だ。
会話の中で何度か名前を出したことはあったと思うが、直接うちに来るのは初めてだった。
春子さんは、白木先輩に深く頭を下げた。
「白木くんも、本当にありがとうね。怖かったでしょう」
「いえ。無事で良かったです」
「おかげですごく心が落ち着いたわ。正直、女ふたりだからビクビクしてたのよ」
たしかに、こういうとき、男の人がいてくれると言うのは、とても心強い。
実際私も怖くて堪らなかったし、白木先輩がいなかったらと考えるだけでも足が竦んだ。
白木先輩は一息つくと腰を上げた。
「じゃあ、僕はこれで」
「あら、もう帰るの? それなら、後日改めて親御さんにもお礼にうかがわせてもらうわ」
「いえ、おかまいなく。今回の件は、本当にたまたまですから。……じゃあ、またね。音羽さん」
白木先輩は人好きのする笑みを浮かべ、そう言うと、帰っていく。
家の前に出て、その背中を静かに見つめた。
(……帰っちゃう)
『――僕、君が好きだよ』
耳に木霊する、甘い言葉。
もう、明日から白木先輩は学校に来ないのに。いや、それだけじゃない。白木先輩は明日になれば、たぶん私のことを忘れるだろう。
明日、私と白木先輩の繋がりは完全に切れる。
(……これで、いいんだよね)
私と彼は、どうしたって一緒には生きられないのだから。胸が突き刺されるような痛みを覚えるけれど、大丈夫。すぐには忘れられなくても、今は怖くても――。
涙を堪えながら、じっと立って白木先輩を見送る。
(……また、応えられなかったな)
告白してくれたのに。やっと……両想いなのに。
黙って苦しみに耐えていると、そっと隣に立つ気配があった。春子さんだ。
春子さんは、彼いい子ね、とでもいうような笑みを私に向けている。
「……ねぇ夏恋ちゃん、あなた、あの子のことが好きなんでしょ?」
驚いて振り向くと、春子さんはとびきり優しい笑みを浮かべて私を見ていた。
「行っちゃうわよ。行かなくて、いいの?」
春子さんの言葉に、私はもう一度白木先輩の背中を見た。
行きたいけれど、怖い。
また『君、誰?』と言われるのが、怖い。面と向かってそれを言われる勇気がない。
これまでいくら祈っても、白木先輩の記憶を取り戻すことはできなかった。
だからもう、期待するのはやめようと決めた。
(……決めたはずだったのに)
もう、白木先輩の一番にはならない。望まない。私はただの友人A。
(……弱いなぁ、私)
白木先輩の背中を見つめて動けないままでいると、春子さんが言った。
「……そう。夏恋ちゃんは、とってもあの子が大切なのね」
顔を上げる。
「大事に思えば思うほど、恐ろしくなるのよね。でも、ときには踏み込まないと、ずっとすれ違ったままよ。いいの? それで」
その言葉は、ずしんときた。
私は唇を噛み、頷いた。そして、スマホを開く。文字を打とうとすると、その手を春子さんに掴まれた。
「いいから、ほら早く行ってきなさい」
春子さんに背中を押され、私は白木先輩の元へ駆け出した。
白木先輩の背中がどんどん近付いてくる。こういうとき、声があれば呼びかけられたのにといつもやきもきする。でも、それでもこれは勲章なのだからと言い聞かせた。
白木先輩の命と引き換えに失ったものなら、たとえ命だろうと惜しくはない。
空の色も、花の色も、星の輝きも、今の私にはそのすべてが失われているけれど、それでもまだ、白木先輩を認識することはできるから悲しくはない。
ぐい、と思い切り袖を引いた。声もなく袖を引かれ、驚いて振り向いた白木先輩は、私を見てさらに驚いた顔をした。
「音羽さん? どうしたの」
息が弾む。深呼吸をして息を整えてから、改めて顔を上げて白木先輩を見つめた。
『好き』
袖を掴んだまま、口を動かす。伝わっただろうか。スマホで文字にした方が良かっただろうか。でも、どうしても言葉で伝えたかった。音にはならなくても、せめてこの口で……。
私の口元を見た白木先輩は、固まっている。
沈黙が落ち、時間とともにどんどん自信がなくなっていく。
いよいよ怖くなって、掴んでいた手を離して一歩下がろうとすると、今度は白木先輩が私の手を掴んだ。頬がほのかに紅潮している。
「……自惚れじゃなかったら、今、すごく欲しかった言葉を言われた気がしたんだけど」
伝わっていた、と実感した瞬間、瞼がぬるく熱を持った。
私の瞳が潤んだことに気が付いたのか、白木先輩が狼狽し出す。
「あ、いや……ごめん、やっぱり違う? い、今のは僕の妄想かも」
ぐ、と唇を噛みつつ、スマホを掴んだ。指を動かす。
好き。
私を忘れないで。置いていかないで。どこにも行かないで。
私は、君がいなくちゃ生きていけない。息ができない。
君を煩わせるとわかっていても、どうしてもこの想いを手放すことができない。
溢れ続ける想いを打っては消して、を繰り返す。
どれくらいそうしていただろう。白木先輩は、なにも言わず私を待ってくれていた。
ようやく文字を打ち終えると、私はおずおずとスマホを見せた。
『水族館と、海に行きたい』
白木先輩は数度瞳を瞬かせて、微笑んだ。
「今から、行こうか」
そっと手を引かれる。
その手は、私の胸のうちの汚い思いすべてを掬って海に返してくれるような手に思えた。
(……今日で最後だから)
これで、今度こそ終わりにすると決めて、私はその手を握り返した。
* * *
前来たときは時間が遅過ぎて見られなかった午後最後のイルカのショーを見たら、少し濡れた。でも、手を繋いでいたから少し暑くて、ちょうどいいと思った。
その後サメを観て、ジュゴンを観た。前に来たときにいたマナティは、高齢のため死んでしまったのだという。
献花台には、たくさんのぬいぐるみや子どもが描いた似顔絵が置かれていた。それを見て、ちゃんと時は流れているのだな、と思った。
あの日ふたりで行った水族館。
同じ場所のはずなのに、あのときとはすべてが違った。
すべてがきらきら宝石のように輝いていて、瞬きも惜しくなるほどで。
私はその光景を、しっかりと目に焼き付けた。
魚を観て回ったあと、白木先輩に「お土産にお揃いのなにか買おうよ」と言われたけれど、やんわりと断った。
思い出を残す勇気は、なかった。
水族館が閉館すると、海辺に来た。
海は穏やかで、月の光を反射して輝いていた。空には雲はない。今日は、満点の星空なのだろう。
目を閉じて、イメージする。
けれど、記憶に閉じ込めたはずの星空や宝石を宿した魚たちは、ぽろぽろと砂のように消えていく。
行かないで、と手を伸ばしても、私にはそれを繋ぎ止める術はない。
「……音羽さん」
不意に名前を呼ばれた。目を開けると、白木先輩が私を見ていた。
「――なにが怖いの?」
問われた言葉に、息が詰まった。見上げると、視線を彷徨わせた白木先輩がいる。白木先輩は眉を下げて笑った。
「……君、いつもなにかに怯えてるようだから……特に、僕といるといつも」
両手を掬われる。
「……なにが怖い?」
目の奥がつんとした。白木先輩の優しさには、いつもいらいらした。その理由を、ようやく知った。
自分を省みないから、いつも誰かのために動く人だから、いつか私の前からいなくなってしまうんじゃないかと、怖かった。それでいらいらしていたのだ。
(……今になって気付くとか、馬鹿過ぎる)
とうとう堪え切れなくなった涙が、目の縁からぽっと落ちた。目の下を、白木先輩の指が優しく撫でていく。
「僕は、ここにいるよ。どこにも行かない。ずっと音羽さんを想ってるよ」
瞬きと同時に、また涙が落ちる。
嘘ではない。心からの言葉なのだと分かるからこそ、胸が引きちぎられるように痛みを訴えた。
優しく抱き寄せられる。とんとんと、背中をあやすように優しく叩かれた。
私は声にならない声を上げて泣きじゃくった。
* * *
目を覚ますと、隣に寝息を立てる白木先輩がいた。すやすやと寝息を立てるさまは、仔猫のようだ。ふたつも歳上とは思えない。
ふ、と笑みが零れた。
こういう人だから、好きになったのだ。こんなにすてきな人を好きになれてよかったと、心から思う。
叶うかどうかではなくて、ただ、想えたことが幸せだと思えた。
さよなら、と口を動かして、白木先輩の頬にキスをする。
海の向こう、遥か彼方に薄らと紫色の光が見えた。私たちにとって最後の夜が明けた。
ひとり、家まで歩く帰り道に見た空は、悲しいくらいに美しかった。