④
三月初めの音楽室は、霞色だった。
がらりと扉を引くと、窓際に白木先輩がいた。窓の外を眺めている。窓から差した薄い陽光が、その横顔を彫刻のように照らしている。その光景は、どこかの絵画のように美しい。
しばらく見つめていると、ふと白木先輩が私に気付いた。
「あ、音羽さん」
目が合い、ぺこりと頭を下げる。
「ごめん、呼び出しちゃって」
ゆるゆると首を横に振り、白木先輩に歩み寄った。見上げて、口パクで『卒業おめでとうございます』と紡ぐ。すると、白木先輩は少し照れくさそうにはにかんだ。
「……うん。ありがとう」
白木先輩は首元を撫でながら、小さく笑った。
「はは。……なんか、実感湧かないな」
背中を向けて窓の向こうを見る白木先輩に、私はちょこちょこと駆け寄って覗き込んだ。
すると、白木先輩はやはり困ったように呟いた。
「……もう少し……」
(……もう少し?)
なんだろう、と首を傾げる。
「……うん。いや、なんでもない」
ムッとする。白木先輩の袖を引き、言いかけた言葉の催促をする。
すると、白木先輩は一度押し黙って、言った。
「……もう少し、寂しくしてくれるかなって期待したんだけど」
息が詰まり、思わず袖を掴んでいた手を離して一歩後退った。
すかさず離した手を握られる。けれど、私は俯いたままその手を握り返せなかった。手を引き、拒むけれど白木先輩は離してはくれない。
恐る恐る見上げると、白木先輩の瞳には熱が宿っていて、ハッとした。すぐに目を逸らし、足元を見る。
(……嘘だ)
だって、私はちゃんと距離を置いてきた。白木先輩には、疎まれているくらいだと思っていた。
それなのに。
「……顔、上げて。音羽さん」
上げられるわけがない。どんな顔で白木先輩を見たらいいのか、まったく分からない。自分が今、どんな顔をしているのかも。ただ、頬がこれ以上ないくらいに熱かった。
「音羽さん。僕、君が好きだよ」
真っ暗闇の中に、突き落とされたような気がした。
違う、と頭の中で否定する。
私は、もう白木先輩のことは好きじゃない。随分前に諦めた。少し憧れているだけで、両想いになりたいとかでは、決してない。
掴まれた手首が熱い。呼吸が苦しい。私は今まで、どうやって息をしていただろう。
口を開く。けれど、唇からは吐息が漏れるだけで、言葉はなにも出てこない。
声が出れば、全部、伝えられるのに。
口を開くけれど、音を失った私は、どう足掻いても声を出せない。
白木先輩はやるせない顔をして私を見ていた。
(……違う。そんな顔、しないで。私は――)
口を開いたとき、白木先輩がふと言葉を止めた。
直後、呻き声が聞こえた。苦しげな声だ。白木先輩が頭を抱えて苦しんでいた。
背中を曲げ、片手でこめかみを押さえている。
もしや。
それは、いつも白木先輩が未来を視るときに起こる症状だった。
(……まさか、また悲劇の未来を?)
おずおずと白木先輩の顔を覗く。すると、白木先輩がパッと顔を上げた。私を見つめて、唇を震わせる。
「……強盗が……」
(強盗?)
眉を寄せ、白木先輩を見る。
「君の家に……強盗が来る。君のお母さんが危ない!」
白木先輩の言葉に、私はごくりと息を呑んだ。
家に強盗が来る。そんな未来を予言されて、私はただ戸惑うばかりで立ち尽くした。
でも、いつ?
混乱する頭のまま、とりあえず私はスマホで警察を呼んだ。一定のコール音が途切れると、女性警察官らしき声が聞こえる。
――けれど、声が出ない。交番に駆け込むならまだしも、電話では、私は状況をなにひとつ伝えることはできない。
混乱状態になると、こんなにも無駄な行動を取ってしまうものなのか。
どうしたら……どうしよう。早くしないと、春子さんが危ない。
考えても考えても、頭はから回るばかりで、涙が滲んだ。
すると、白木先輩が私のスマホを優しく取った。代わりに状況を説明し、通話を切る。スマホの重量が消えた手のひらを、私はぼんやりと見やる。
「……とりあえず家に行こう、音羽さん」
数度頷き、私はなんとか間に合ってと祈りながら、通学路を走った。
家に着き、迷わず中に入ろうとした私を白木先輩は腕を引いて止めた。
「僕が行くから、君はここにいて」
『行く』と口で言う。が、白木先輩は眉を寄せて首を横に振った。
「ダメだ。君はここで待ってて。お願いだから言うことを聞いて」
「…………」
しばらく睨み合うような沈黙が落ちた。けれど、いつになく厳しい口調の白木先輩に気圧され、私は渋々頷いた。
玄関から白木先輩がそっと中へ入っていく。見送ると、私は庭に周ってこっそり中を覗いた。家の中からは、物音などはしない。
見ると、一階の窓ガラスが豪快に割られていた。恐怖で足が竦んだ。割れた窓ガラスの奥に視線をやるが、人気はない。必死に視線だけを動かし、春子さんを探した。けれど、いない。
嫌な想像が脳裏を過ぎったそのとき、背後でかさりと音がした。乾いた草を踏み締めたような音だ。
どくん、と心臓が音を立てて跳ねた。
――誰か、いる。
飛び跳ねる心臓を落ち着けながら、恐る恐る振り返る。
「夏恋ちゃん」
そこにいたのは、春子さんと男性警官だった。はぁ、と息が漏れた。途端に緊張が緩んで、私は春子さんに駆け寄った。緊張が解けたからか、涙が滲んだ。
春子さんは私を抱き留めると、早口で言った。
「あぁ、夏恋ちゃん……!! 良かった、今ね、強盗がうちに来て……!」
春子さんは疲れ切った顔をしながらも、怪我はないようだった。
「あなたが帰ってきたところに鉢合わせなくて、本当に良かった……」
胸が軋んだ。
春子さんだって怖かっただろうに、自分よりも私の心配をしていたなんて。
その後、警察官に白木先輩が中の様子を見に行ったことを伝えた。
警察の話によると、私と白木先輩から通報を受けた警察が春子さんに連絡した直後、強盗が侵入したのだという。
警察から通報を受けていた春子さんは、庭掃除用の熊手で応戦し、なんとか事なきを得たそうだ。
そして、逃げ出した強盗犯は駆け付けた警察官によりあっさりとお縄についたらしい。
うちを狙った理由は、巷で有名な資産家であり、且つ男がいないからということだった。
なにはともあれ、とりあえず犯人が捕まってホッとした。
春子さんは思ったより気丈だった。穏やかな人だが、もともと胆力と度胸のある人だ。
凶器を所持した強盗犯に熊手で応戦したという話は春子さんらしくて納得してしまった。