③
白木先輩の口元に耳を寄せる。かすかに呼吸音がして、あたたかい吐息が触れた。
ホッとして、肩を優しく揺する。
眉が歪んだ。
「……ん」
白木先輩が目を覚ました。眩しそうに目を細めて、視線だけを動かしている。
生きている。白木先輩はちゃんと、生きている。
私は思わず、泣きながら白木先輩に抱きついた。
「わっ」
驚いた白木先輩が声を上げるけれど、かまわない。
「えっと……音羽……さん?」
白木先輩は、私のことは忘れてはいなかった。たぶん、彼の中で私の存在はまだそんなに大きくないのだろう。
私は白木先輩から離れると、スマホに文字を打ち、見せた。
『痛いところはないですか?』
「ないけど……って、音羽さん、声どうしたの……?」
一瞬、顔が引き攣るけれど、いつものポーカーフェイスを繕ってスマホを見せた。
『白木先輩が起きなさ過ぎるので、呼び掛けすぎて声が枯れました』
「えっ! 嘘!?」
嘘だが。
白木先輩は分かりやすくおろおろし始めた。面白い。
ハッとした顔で、白木先輩が私を見た。
「そうだ! 子どもたちは!?」
『大丈夫。みんな無事に家に帰りましたよ』と、スマホを見せる。
「……そう」
ホッとしたように息を吐いたあと、白木先輩は私を見て眉を下げた。
「ごめん、音羽さん……僕、君のこと巻き込んだよね。怪我はなかった?」
首を横に振る。
『大丈夫だから、帰りましょう。もう十九時過ぎちゃってます』
「……でも、その声……」
白木先輩はまだ心配そうな顔をしている。私はその手を取って、引っ張った。
「あ、わ、分かったよ……」
白木先輩は私に手を引かれ、仕方なく立ち上がった。そして、歩き出そうとして固まった。
どうしたのだろう。私は首を傾げる。
「……あれ」
白木先輩は泣きそうな顔をして首元を掻いている。
「……家って、どこだっけ……」
私は目を伏せた。
つまり今回未来を視た代償は、自分の家の記憶――。
私は白木先輩の手を取った。ぎゅっと握って、『だいじょうぶ』と口パクでゆっくり言う。
「……音羽さん」
帰り道を忘れ、捨てられた仔犬のようにしょぼくれた白木先輩の手を引いて、私は工事現場を離れた。
見上げると、雲の切れ間から覗くのはビーズを散らしたような紺色の空。雨はすっかり止んでいた。
手を引かれるまま素直に着いてくる白木先輩を見て、私は堪らなくなった。
片手でスマホを持ち、詩織ちゃんに連絡する。
白木先輩が未来を視たこと、工事現場で起きたこと、それから――家のことを忘れてしまっていること。
白木先輩を無事に家に送り届けると、詩織ちゃんは申し訳なさそうな顔をした。
彼女には、私の声が出なくなったことやその理由を簡単に伝えておいたので、責任を感じてしまったのだろう。
初めて会ったときから思っていたが、詩織ちゃんは歳のわりに随分としっかりした子だ。まだ小学生なのに、白木先輩なんかよりずっと大人っぽい気がする。
詩織ちゃんを見た白木先輩は、安堵したように息をついていた。
「……お兄ちゃん、遅いよ。もう夕飯だよ」
白木先輩は家の場所を忘れただけで、詩織ちゃんのことは覚えているようだ。
「……あぁ、うん。ごめん」
「夏恋ちゃん、送ってくれてありがとう」
『あとはよろしくね』と口パクで伝え、頭を下げる。
「……あの、夏恋ちゃん」
帰ろうとすると、詩織ちゃんに呼び止められた。
振り向くと、眉を八の字にした詩織ちゃんが駆け寄ってきた。
「……夏恋ちゃんは怪我してない?」
大丈夫、と頷くと、詩織ちゃんは悲しげに俯いた。
「……声……ごめんなさい。私、お兄ちゃんのことが心配で、夏恋ちゃんが危険になること全然、分かってなくて……」
俯いた詩織ちゃんの頭にぽんと手を置いた。顔を上げた詩織ちゃんと目が合う。
彼女の目を見て、もう一度静かに首を横に振る。
私は既に決めていた。
白木先輩を助けられるのはきっと、この世界で私しかいない。
残酷な世界。神様なんていない、救いなんてないと思ってた。
けれど、違った。神様はたしかにいたのだ。
まっすぐに詩織ちゃんを見つめる。
詩織ちゃんが手に持っていたスマホが振動した。メッセージを確認した詩織ちゃんの喉元がゆっくりと、小さく上下した。
『これからは、私が白木先輩のことを守るから安心して』
詩織ちゃんは私を見て、ぐっと唇を噛んでいた。
帰り道、見上げた空は真っ暗だったけれど、私にはとても美しく輝いて見えた。
それから、約半年間。
私は白木先輩の友だちとして、そばに居続けた。白木先輩が未来を視るたびに、怪我をしないよう見守って、ときには祈りの力を使った。
白木先輩を初めて助けた日、家に帰ると春子さんは喋ることができなくなった私を抱き締めて泣いた。
理由は言っていない。言っても信じてもらえるかは分からないし、変な子だと思われるのもいやだから。
ただ、春子さんは一生懸命だった。私をいろんな病院に連れて行って、原因を調べて、治そうとしてくれた。
結局、私が声を取り戻すことはなかったけれど。
でも、私が案外ケロッとしていたからか、春子さんはその日以来泣くことはなかった。
今でも、声を取り戻す方法を探してくれてはいるけれど。
あいには正直にすべてを話した。非現実的過ぎる話だし笑われるかと思ったけれど、あいはじっくり私の話を聞いて、決して笑わなかった。
こんなに周りに恵まれていたことを、白木先輩に出会わなかったら気が付かなかった。
両親が死んでから、勝手に殻に閉じこもって壁を作って、ひとりでも大丈夫だと強がっていた。
でも、全然そんなことはなかった。
私ひとりでは、なにもできない……。
「夏恋? 大丈夫?」
ぼんやりしていると、あいが私を覗き込んでいた。
『大丈夫』と答えるが、それでもあいは心配そうに私を見つめていた。
今日は、卒業式だ。
白木先輩は、無事外部の高校に合格した。春から高校生になる。
「夏恋、体育館行こう」
頷き、席を立つ。
空はどこまでも澄んでいて、風もなく陽の光がほのかにあたたかい。まさに卒業式らしい天気だった。
晴れの日なのに、私の心はどんより灰色だった。もう、明日から会えなくなる。
(……白木先輩は、どう思ってるんだろう)
私と離れるのは特別なんとも思っていないのだろうな、と思うと心が冷たくなった。
白木先輩にとって私は、友だちというよりもただ付きまとってくる後輩という認識程度だろう。優しい人だから、困ったように笑っても、邪魔だと言われることはなかったが。
告白されないように、白木先輩の一番にならないように、と予防線を張っていたのは私なのに、悲しくなるなんて勝手が過ぎる。
卒業式は滞りなく終わり、三年生はそれぞれ親たちと帰って行った。
私たち在校生も、今日はホームルームだけでおしまいだ。先生の話をぼんやり聞いていると、スマホが振動した。筆箱と本で隠して、こっそりスマホを見る。
『今日会えますか』
白木先輩からだった。
どうしたのだろう。また未来を視てしまったのだろうか。
すぐに液晶画面を叩いた。
『音楽室でいいですか?』
『うん、待ってる』
そわそわしながら、ホームルームが終わるのを待った。