②
私は赤くなった顔を見られないように俯いて、咄嗟に髪で顔を隠した。
「……ピアノが好き。甘いものも好き。勉強はそんな好きじゃないけど、音楽は好き。運動は嫌い。……あと、水族館と海は好き」
「お、おう……」
思ったより喋ったと思ったのか、白木先輩は少し驚いた反応を返してきた。
「……あと」
白木先輩の袖口をそっと摘んだ。
「もっと、白木先輩のことも知りたいと思ってます」
「え……」
ちろっと見上げると、白木先輩は頬を染めながらも、困ったように目を泳がせていた。
「……教えてください」
じっと見つめると、白木先輩は観念したように少し微笑んだ。
「……えっと、僕は勉強は、暇つぶしになるから結構好きかな。特に化学工学とか。親が医者だから、僕もいずれ医者になりたいと思ってる……けどどうだろう。未来のことはよく分かんないや」
言いながら白木先輩は、恥ずかしそうに照れていた。可愛い人だな、と思った。胸の中に、じんわりとあたたかなものが広がっていく。
「じゃあ、好きな食べ物は?」
白木先輩はぼんやりと空を見上げて考え始める。
「好きな食べ物……うーん、たこ焼き?」
足が止まった。
「はぁ?」と言いかけた。
「意外過ぎるんですけど……ミルクティーは知らないのに、たこ焼きは知ってるんですか」
「ミルクティー?」
白木先輩が怪訝な顔をする。
「……いや、なんでもないです」
(……そっか。私のことを覚えてないんだから、私との会話も……)
覚えていないのか、と目を逸らしたそのときだった。
突然、ぐっ、と白木先輩が呻いた。体をくの字にして、苦しそうに頭を押さえている。
「えっ……ちょっと、白木先輩? どうしたんですか」
驚き、駆け寄る私に、白木先輩は呻きながらも手のひらを私に向けた。
「う……ん、大丈夫……いつものことだから」
「いつものって……」
ハッとする。
「もしかして……未来が視えましたか」
息をついていた白木先輩の顔が、凍りついた。信じられないものでも見たかのような顔で私を見る。
「……どうして」
「……すみません。詩織ちゃんから聞いてます。事情も知ってます。過去や未来が視えること、未来を視た場合、記憶を失うこと」
「……君」
私は白木先輩の言葉を遮って、尋ねた。
「視たのはどっちですか?」
「……たぶん、未来だ。ごめん、話してる暇ない」
言いながら、白木先輩が駆け出す。
「あっ……先輩!」
空から薄水色の雫が落ちてきた。頬を濡らす。雨だ。とうとう降り出した。
私は白木先輩の背中を慌てて追いかけた。
白木先輩が向かったのは、建設途中の工事現場だった。
まだ未完成のようだが、ずいぶんと背の高い建物だ。ビルかなにかを建てる予定なのだろうか。
敷地内には、クレーン車やら名前も知らない重機やらがいくつも置いてある。
おずおずと建物の中に入る。中は鉄骨がむき出しの状態で、吹き抜けになっていた。見上げると、吹き抜け部分のクレーンから伸びたワイヤーに数本の鉄骨が括り付けられていた。風が吹き込み、鉄骨はゆらゆらと揺れている。
建物の中に、雨が降り注いでいる。雨足はかなり強くなっているようだった。
周囲を見回す。人気はないように思えたが――いや、いた。
かすかに声が聞こえる。子供だろうか。楽しそうにはしゃいでいる。かくれんぼでもしているのだろうか。
白木先輩は迷わず奥に入っていく。
「あっ! ちょっと、先輩!」
様々な恐怖で足が竦む。けれど、白木先輩を守るためには、入るしかない。
彼はきっと、これからここで起こる悲劇を回避するためにきているのだから。
「白木先輩! ちょっと待って……」
ここで一体、どんな未来を視たというのだろう――。
考えながら上を見る。クレーンから吊るされたワイヤーに括り付けられた鉄骨が危うく揺れているのが見える。
その真下に、子どもたちの影が見えた。
「……まさか」
ひやりとする。
金属の匂いがする。キィンキィンと、骨を削るような、不気味な音が響いている。
非常用の階段を駆け上がるカンカンという無機質な音が、私の耳朶を震わせていた。
息が乱れる。それでも足を踏み出した。白木先輩を見失わないように。
「君たち!」と、白木先輩が叫ぶ。子どもたちが白木先輩に気付いた。
「わっ! 大人にバレた!」
「ヤバいヤバい! 逃げろ!」
子どもたちの無邪気な声が聞こえる。そんな場合ではないのに。
白木先輩がもう一度叫んだ。
「今すぐそこから離れるんだ!」
私も続けて叫ぶ。
「みんな、早く逃げて! 鉄骨が落ちる!」
その瞬間、ぐら、とひときわ大きな風が吹いて、鉄骨が揺れた。
見上げると、鉄骨を括っていたワイヤーのうちの一本が、弾け飛ぶように切れた。
びぃん、と鈍い音がした。
息を呑んだ。
傾いた鉄骨はさらにワイヤーに負荷をかけ、滑車がするりと滑った。ワイヤーから外れた錆びた鉄骨数本が、一気に子どもたちのところへ落下していく。
それはまるでスローモーションのように、子どもたちの真上に、大きな影を作っていった。
「わぁぁ!!」
子どもたちがてんでんばらばらに散っていく。その中にひとり、取り残されている子がいた。白木先輩が走った。
「白木先輩っ!!」
直後、凄まじい音がビル内に響き渡った。
* * *
錆びた細長い鉄骨数本が、地面に落下した。
私は土煙に巻かれ、足を踏み出せないままでいた。
雨が土煙をさらうと、目の前には、朱色の光景が広がっていた。鉄骨の錆び付いた鈍い色と、鮮血。
ひとりの子どもを抱えて倒れている白木先輩がいた。
数分かけて、よろよろと傍らに立つ。
「白木……先輩」
呼びかけても、返事はない。
代わりに動いたのは、子どもの方だった。私の声で我に返ったのか、白木先輩に抱えられていた子どもは泣き出した。
おかっぱ頭の女の子。それくらいしか、情報が脳に入ってこない。
「……みんなを連れて、ここから今すぐに離れて」
辛うじてそう言うと、子どもたちはその場から立ち去った。
これが、悲劇。
白木先輩が視たものは、自分が巻き込まれるものではなかったはずだ。あの子たちが巻き込まれて、死ぬ未来だったはずだ。
「白木先輩が巻き込まれてどうするの……」
腰から下が鉄骨の下敷きになった白木先輩は、ぴくりとも動かない。鉄骨の下からは、赤黒い血が染み出している。
「いやだ……いやだ」
白木先輩の肩を揺する。
「白木先輩、起きて。いやだよ、起きてよ、先輩……」
涙で滲む視界の中で、懸命に手を動かす。
「先輩、先輩!」
頭からも、血が出ていた。顔は、すべての血を抜かれたように青白い。
いやだ。
息が詰まる。全身から汗が吹き出す。
私は、強く願った。
――どうして。どうして、神様。私の好きな人を取らないで。なんでもするから。なんでもあげるから。
白木先輩。君が変えた未来なのに、君がいないなんておかしいよ。
「お願いだから、先輩を返して……先輩を助けて」
――私を、ひとりにしないで。
震える声で、いるかも分からない神様に願ったその瞬間、雨が止んだ。
いや、止んだのではない。
時が止まったのだ。顔を上げると、ビルの向こうの街並みが見えた。
交差点に侵入していた車も、傘を差して歩いていた人たちも、空から落ちてくる雨粒も。すべてが止まっている。
目を瞠る。
カチリ、と音がして、時と同じく私の思考も停止した。
どうなっているのかと冷静に頭を回そうとした途端、鉄骨がすうっと空中に浮かび上がった。
切れたワイヤーが時が戻るように繋がり、するすると鉄骨に巻き付いてクレーンに繋がれる。
呆然と見上げていると、視界にかすかな光が映った。
見ると、白木先輩が光に包まれている。地面にこびりついていた血がぷくっと浮かび上がり、傷口から白木先輩の体に戻っていく。青白かった白木先輩の顔に血色が戻っていく。
肺の辺りがきりきりと痛み、全身が震えた。涙が滲んだ瞳で、白木先輩を見守る。
ものの数分で、白木先輩の傷はすべて綺麗になくなっていた。
ホッとしたからか、足の力が抜けてしまった。膝から崩れ落ちる。両手を見つめた。
今のは、なんだったのだろう。
(……幻? ううん……違う。手がなんか、熱かった)
「私の……力……?」
もしかしたら、私も白木先輩と同じようになにかを失うのだろうか。恐怖で震える。
――と、ポケットの中のスマホが振動した。
(……そうだ、詩織ちゃんに連絡……)
返信を打とうとするが、指を滑らせた途端ずぅんとさらに瞼が重くなる。
ダメだ、目を開けていられない。
白木先輩を包んでいた光が消えると同時に、私の意識はそこで糸がぷつっと切れるように途切れた。
ふと、全身が凍えるほどの寒さを覚えて目を覚ます。重い頭を持ち上げて、眉を寄せた。見知らぬ殺風景な場所で、水溜まりの上に寝転がっていた。制服はびちょ濡れだ。
空を見上げると、吹き抜けの先には藍色の空がある。手前にはクレーンから吊り下げられた鉄骨があった。
まるで、建設中のような――ぼんやりと考えて、ハッとする。
そうだ。工事現場だ。
視線を動かすと、白木先輩が倒れているのが見えた。弾かれたように立ち上がり、白木先輩の傍らへ駆け寄る。
声をかけようとしたとき、喉が焼けるように熱くなった。思わずぐっ、と息を詰めた。
(なに……?)
喉に違和感を感じる。声が、出ない。いくら力を入れても、唇からはくぐもった吐息のような音しか漏れない。
(……嘘。声が……出ない)
両手を喉元に添え、困惑した。私は、声を失っているらしかった。
手の甲に、雨粒が落ちた。熱い。燃えているみたいに、喉が熱い。
混乱しながらも、心のどこかでそれを受け入れている自分がいる。
これはきっと、代償だ。白木先輩の体を治した代わりに受けた罰なのだと直感する。
でも、今はそんなことはどうでもいい。