残酷な運命①
スマホの画面を暗くすると、私は息を吐きながら目頭を押さえた。
ふと、窓の向こうを見る。外はもう真っ暗だった。時計を見れば、日付が変わってから随分と経っていた。
そろそろお風呂に入らなくちゃ、と起き上がる。
帰ってきてから、ネット検索で記憶障害について調べてみたものの、これといった収穫はなかった。
当たり前だ。未来を視る代わりに失う記憶を取り戻す方法など、世界中探したってあるわけがない。
窓を開けると、冷たい風が部屋に舞い込んだ。冬を控えた海辺の街の夜は、静まり返っている。
窓枠に手を置いて、しばらく街を眺めた。
私に、どうしろというのだろう。
ぼんやりと思う。
白木先輩は、私のことをひとつも覚えていないのに。私だけ、こんなに苦しい。
遠くから波の音が聴こえた。
* * *
朝、重い体を無理やり引きずって学校へ行く。
教室に入ると、私の顔を見たあいがぎょっとした顔で「どうしたの、その顔」と尋ねてきた。
一目見て引くほど、そんなにひどい顔をしているのだろうか。
「ちょっと寝不足で」
「そう……」
鞄を開け、教科書を取り出す。目が乾いてシパシパした。
「……で、どうだったのよ。行ったんでしょ? 先輩の家」
手が止まる。
「……うん。行った。ふられた」
あいが目を丸くした。
「なんで!? だって、告白されてまだそんな経ってないじゃん」
「……まぁ、いろいろあってね」と、苦笑する。
「ねぇ、あい」
呼ぶと、あいが顔を上げて私を見た。丸々としたガラス玉のような瞳には、よりどころのない顔をした私が写っていた。
「……好きな人にふられても、諦められないとき……あいだったらどうする?」
すると、あいは一瞬驚いた顔をしたものの、ふっと優しく笑って、ただひとこと「頑張る」と言った。
「頑張る……」
いかにも素直なあいらしい。
「夏恋はすごい」
「すごい? なにが?」
「夏恋は自分の想いを伝えるために、先輩に会いに行った。その行動力はすごいと思うよ。私さ、夏恋見てて思ったの。本当に中西のこと好きだったのかなって」
あいは言いながら、ちらりと教室の中央でふざけている中西を見やった。
あれから私は中西に無視され続けているが、まぁこちらもあまりいい態度はとっていなかったので仕方ない。特別不都合もないのでこのままの距離感で行こうと思う。
「私、中西にふられたとき、改めて告白しようなんて思わなかったもん。立ち直りも早かったし。だから、好きにもたくさんあるのかもね」
「好きにも、たくさん……?」
では、私の好きはなんなのだろう。復唱するように呟きながら考える。
「離れて初めてわかる大切さってつまり、そういうことだよね」
眉を寄せる。
「どういうこと?」
「夏恋は、それだけ先輩のことが好きってこと。昨日先輩となにがあったかは知らないけど……もし、まだ吹っ切れてないなら、まだまだ頑張ったらいいと思う。人の気持ちって変わるものだから」
(……気持ち……)
顔を上げる。頬杖をつきながら優しく笑うあいの顔を見て、あぁ、と思った。
「……私、あいと友だちになれて嬉しい」
そうか。友だちというのは、こういうときに……。
私はあいの手を取った。あいは照れたように頬を染めている。
「な、なによ急に……」
私はかまわず、その手を握る。この手は間違いなく、私が迷ったとき、手を引き、導いてくれる手だと思った。
「……あい。私、頑張ってみる」
その手は、思いの外小さくて柔らくて、そして――温かかった。
夕方の校庭を、風が吹き抜けていく。私は三年五組の教室にいた。
白木先輩を探していると、窓際の一番前の席にその姿を見つけた。ちょうど帰るところのようだ。目が合うと白木先輩は一度立ち止まり、私の元へ来た。
「……君、昨日の」
「こんにちは」
軽く会釈する。
「どうしたの?」
開け放たれた教室の扉に手をかける白木先輩を、私はまっすぐに見上げた。
「……あの、単刀直入に言います」
「ん……?」
「白木先輩。私と、お友だちになってもらえませんか」
白木先輩はお得意のきょとん顔で、私を見下ろしていた。
「……ん? んん? 友だち?」
白木先輩の背後で聞いていた他の上級生たちは、なんだよ、告白じゃないのかよ、だのと囁き合っているが、気にしない。
「はい。友だち……ダメですか」
「いや、ダメではないけど……なんで僕?」
白木先輩は首元に手をやり、困ったように笑っている。
「友だちになりたいから」
私はもう、白木先輩には好かれていない。
だからなんなのだ。今は私が白木先輩のことを好きなのだから、見守る理由なんてそれで充分だ。
白木先輩が危険なことに首を突っ込まないように、詩織ちゃんが泣かなくて済むように、私は私のやりたいようにやればいい。
「だから手始めとして、一緒に帰りましょう。白木先輩」
私は、白木先輩の手を取って歩き出した。
「えっ? ちょっ……お、音羽さん?」
手を取ると、白木先輩は顔をほのかに桃色に染めて戸惑っていた。
* * *
「……ねぇ、昨日はなんの用事だったの?」
どんよりとした薄墨色の雲の下を歩きながら、白木先輩が私に尋ねてきた。
「告白」
ぼそりと言うと、白木先輩が驚いた顔をして足を止める。
「……えっと……」
「冗談です」
しどろもどろになる白木先輩をスルーして、私は真顔でそう言うと、先を進んだ。
「じょ、冗談?」
背後で白木先輩がなにやら言っているが、かまわず歩いた。
空を見上げる。重い雲が立ち込めていた。まだ雨は降っていないが、そろそろ冷たい雨粒が落ちてきそうだ。
(……本当に覚えてないんだな)
再び隣に並んだ白木先輩は、頬を掻いていた。
「……もう、いきなり脅かさないでよ。びっくりしたじゃん」
脅かしたつもりはないのだが。
白木先輩の横顔に、少しだけホッとする。記憶を失くしていても、やはり白木先輩は白木先輩だ。
心根のまっすぐさや穏やかな表情は、以前の彼となにも変わりない。
胸がちくりと痛みを覚えた。誰かといるときにこんな気持ちになるのは、初めてだった。
「ねぇ、音羽さん。あのさ、君はなにが好きなの?」
「なに……?」
首を傾げる。
「教えて、君のこと。友だちなら、お互いのこと知っておかないと」
胸が熱くなった。当たり前のようにそんなことを言われたら、困る。
好き、ってこういうことなんだ、と実感した。