④
思考が停止した。
(だ、れ……?)
誰とは、どういうことだ。
「何組だっけ? 同じクラスじゃないよね?」
「……冗談ですよね?」言いつつ、白木先輩を見上げる。
白木先輩は頭を掻きながら、私を見ている。ふざけているようには、とても見えない。
急激に身体中の体温が冷えていく心地がした。
「……私のこと、分からないんですか?」
「……えっと」
白木先輩は、私の名前どころか学年すら覚えていないようだった。
状況に困惑した詩織ちゃんが、恐る恐るといった様子で割り入ってくる。
「夏恋ちゃんだよ。家の前で会ったの。お兄ちゃんの知り合いでしょ? お兄ちゃん、よく夏恋ちゃんの話してたじゃない」
「……そうだっけ……?」
変わらず困ったように首を傾げ続ける白木先輩に、私は言葉を失った。
怒ることも、落ち込むこともできない。なにも考えられない。意味が分からなかった。
息が苦しくて、目眩がした。ふらつく足取りで、私は回れ右をした。
「……すみません。私、帰ります。お邪魔しました」
ぼそりと呟くように言って、私は逃げるように螺旋階段を下り、白木家を飛び出した。
「えっ、あっ! ちょっと……!」
「あっ、夏恋ちゃん!?」
上からふたりの声がしたが、止まれない。止まったら涙が零れそうだった。
白木家を飛び出して、しばらく走って息が切れてきた頃、私はようやく足を止めた。
こんな気分になるのは、初めてだった。
まるで、明けない夜の中にひとり閉じ込められてしまったような、長いトンネルの中に取り残されてしまったような感覚だ。
顔を上げると、鉛色の空があった。
視界に映った世界は霞んでいる。花も海もビルも車も。それぞれちゃんと色があるはずなのに、けぶって霞んで、鉛色の空と同化してくすんでいる。
私の視界は、また灰色一色になっていた。
(……こんなふられ方は想像してなかったな)
とぼとぼと辛うじて前に踏み出していた足を止めたら、いよいよ涙が滲んできた。
「夏恋ちゃん」
腕を掴まれた。振り向くと、詩織ちゃんがいた。
急いで追いかけて来てくれたのだろう。息を切らし、肩で息をしていた。
我に返り、私は詩織ちゃんに頭を下げた。
「せっかく白木先輩に会わせてくれたのに、いきなり帰ってごめんなさい。ありがとう」
詩織ちゃんは、ちょっと黙って私を見つめると、
「……あの、お兄ちゃんのことで、お話があるんです。少しいいですか」
詩織ちゃんは姿勢を正し、真剣な顔をして、私にそう言った。
* * *
雨が降りそうで降らない重い曇天。いつもより少し荒い海辺には、人気はほとんどなかった。
詩織ちゃんは波が届かないギリギリのところまで行くと、衣服を着たまま靴を脱いで砂の上にべたっと座った。
口調も視線も随分大人びていると感じていたが、こういうところは小学生らしい。
私は制服だったので、砂で汚れないよう、お尻はつけないようにして隣にしゃがみ込んだ。
詩織ちゃんは海を眺めながら、唐突に言った。
「夏恋ちゃんって、お兄ちゃんの好きな人でしょ?」
ぎょっとする。
あたふたしながら言葉を探していると、
「お兄ちゃん、いつも夏恋ちゃんの話ばっかしてたんだよ。ピアノが上手で、大人びてて、可愛いって」
かっと顔が赤くなる。妹になんて話を聞かせているんだ、と思った。
「でもね、今日確信した。お兄ちゃん、夏恋ちゃんのこと忘れちゃってるの」
息を呑む。
「……どういうこと?」
掠れた声で尋ねた。
「お兄ちゃんね、未来が視えるの。その代わり、未来を視ると大切な思い出を忘れちゃうの」
「未来……?」
そう話す詩織ちゃんの横顔は、今にも泣き出してしまいそうだった。
詩織ちゃんは懸命に涙を堪え、言った。
「初めは、変な夢を見たって言ってたんだ。でも、夢にしては内容がすごくリアルで、出てきた人たちの顔もはっきり覚えてるんだって」
「夢……?」
それは、こんな夢だったという。
白木先輩自身は夢に登場することはなくて、傍観者のような立ち位置にいた。そして、場所は私たちもよく使う駅の構内。
行き交う人の中、ひとりの女性にピントが合うと、ズームされていく。その女性は見知らぬ人だったらしい。
そして、線路の先に電車が見えた。どんどん近付いてくる。同時に、女性の背後から何者かが近付いていく。
顔は見えなかった。近付いて来た人物は黒いスモークのように靄がかかっていて、男か女かすらも分からなかったそうだ。
そして、電車が目前に迫ったと同時に女性の身体がぐらりと傾いた。直後、周囲の人たちの悲鳴と、電車がレールを滑っていく音が激しく耳を打った――。
その翌日、まったく同じ事件が起きたという。
たしかに覚えがある。先月、近くの駅でストーカーによる殺人事件が発生して、私たちの学校でも注意喚起がなされたのだ。
実際にあった事件。それが起きる前に、白木先輩はその事件の夢を見た――。
これは、どういうことだ。私はひどく困惑した。
「お兄ちゃん、過去も視えたことあった。そのときは記憶が失くなったりはしなかったみたいだけど……」
「未来だけじゃなくて、過去も視るの?」
詩織ちゃんは頷く。
白木先輩が過去や未来を視るようになったのは、私にふられた直後のことらしい。
「それって、きっかけとかってあるのかな?」
「わかんない。でもね、必ず起きてるときに視るの」
「起きてるときに」
「そう。それで、過去を視てもなんともないけど、未来を視ると、大切な記憶を忘れちゃう……お兄ちゃん、今までに未来を二回視てる」
「二回目は、なにを忘れたの?」
「トトのこと」
「トト?」
「昔飼ってた犬だよ。お兄ちゃん、すごく大事にしてたから」
話を聞きながら、私は手に汗をかいていた。
普通なら、有り得ない話だ。とても信じられない。信じられないけれど、詩織ちゃんが嘘をついているようには見えない。
「……二回も、記憶を失くしてるってことはやっぱり、偶然じゃないんだよね」
私が言うと、絶対偶然じゃない、と詩織ちゃんは強く否定した。
「事件で死んじゃった人の特徴も状況も、お兄ちゃんが話してくれたとおりだったもん。絶対偶然なんかじゃない」
一度言葉を切って、詩織ちゃんは私を見た。
「でも、怖いのは……べつのこと」
「べつ?」
「お兄ちゃんが視る未来は、二回とも怖い未来なの。誰かが事故に遭うとか、殺されちゃうとか」
もしや、と思う。
「だからお兄ちゃん、未来を視るとそれを変えようとするの」
その瞬間、ざざん、と波の音がひときわ大きくなったような気がした。
* * *
家に着くと、叔母の音羽春子が帰っていた。ケーキを焼いているようで、玄関を開けた瞬間、卵の甘い香りがふわりと香る。
「あら、夏恋ちゃん。おかえりなさい」
私に気付いた春子さんが、振り返ってにっこりと微笑む。
「ただいま、春子さん」と挨拶を返し、私は階段の手すりに手をかけた。
「あ、待って夏恋ちゃん。ちょうどシフォンケーキ焼けたのよ。一緒に食べない?」
春子さんの手には、できたてのケーキがある。
「生クリームとベリーも添えるわよ」
美味しそう、と頬が緩んだが、
「……うん。でも今はいいや」
そう小さく答えると、私はまっすぐ二階にある自分の部屋へ向かった。
「……そう」
と、春子さんは少しだけ残念そうに笑ったあと、
「じゃあ、好きなときに食べるのよ。棚に入れておくからね」
階下から少し大きめに声を張り上げる春子さんに、私も少し大きめな声で返事をする。
「はーい」
「あぁ、それと、制服はちゃんと着替えなさいねー」
「はいはい」
言葉と同時に部屋のドアを閉めた。
春子さんは、私の今の育ての親である。
私の両親は、二年前に交通事故で死んだ。
学校から帰ってきたら、父と母は冷たい石になっていた。呼びかけても叩いても目は固く閉じられたまま、なにも答えてくれなかった。
一夜にして育ての親をふたりとも失った私は、春子さんに拾われた。
春子さんは、両親の葬式のとき、私にこう言った。
『私がいるわ。私と、生きよう』
春子さんも数年前に旦那さんを亡くしていた。両親と同じ、交通事故だった。
この世は残酷だ。人なんて、簡単に死ぬ。
アニメやドラマで見るような奇跡なんてない。
だから強くならないといけない。周りに同情されないよう隙を見せず、自分のことは自分でやり、間違ってもいじめなんかに巻き込まれてはならない。
そうなれば必ず、あの子は親がいないから、と囁かれるから。
制服のまま、私はベッドにうつ伏せにダイブした。
あのあと、詩織ちゃんとは連絡先を交換して別れた。頭の中では、詩織ちゃんの言葉がいつまでも残響している。
『――お願い、お兄ちゃんを助けて。このままじゃ、いつかお兄ちゃんが死んじゃう』