ルサールカ②〜父と精霊の名の元に⑤
助けて。
神様、どうか僕をお助け下さい。
昨日、隣の牢で泣いていたあの子が帰ってきませんでした。
助けて。
神様、どうかお助け下さい。
どうか……。
誰か……。
僕を助けて……。
真っ暗な牢の戸が開く金属音がした。
ビクッと部屋の隅で固まる。
ああ、とうとう僕の番だ。
いつもの投薬や実験じゃない。
この時間に連れて行かれて帰ってきた子はいない……。
僕は怖くて震えていた。
でもどうする事もできないのだと思った。
何かが……誰かが……ゆっくりと僕の前に立った。
そして細い枝みたいな指で僕の頭に触った。
「……父と子と聖霊の御名によって。アーメン」
祈りの言葉。
僕はそれを聞いて救われた。
頬を涙が伝う。
その人の姿を瞼に焼き付け、頭を垂れた。
「父と子と聖霊の御名によって。アーメン」
僕はその人の前に跪き、同じように祈った。
神様はいらっしゃるんだ。
そう、思った。
「……………………。」
またあの夢だ。私は溜息をついた。
かったるい……。
でも今日はまだいい。ドモヴォーイと出会った日の夢だったのだから。
そう思って寝返りをうち、ハッとした。
「……え?!」
知らない場所で寝ていた。ゾッとして勢い良く飛び起きる。
「お?起きたか?」
「……え?」
何が起きたのか、今がいつなのか、混乱して何をどうしたらいいのかわからない。だが、危険はないのだという事はわかった。
「調子はどうだ?」
「……すみません。」
「昨日からお前、それしか言ってねぇぞ??」
そう言われて笑ってしまった。
失態だ……。
私はあの後、気を失ってしまい、仕方なく彼の家にかつぎ込まれたのだろう。そんな雰囲気だった。
起き上がってベッドに腰掛ける。上着と靴だけ脱がせてベッドに放り込んだ、そんな感じだった。
サッと無意識に首元に手をやる。シャツのボタンはいくつか外されていた。それに気づき、はぁ、と溜息をつく。
「……見ましたか?」
「何の事だ?」
彼はそう言った。彼なりの礼儀なのだと思った。
私は何も言わず、投げ捨てられたような靴を拾い、それを履いた。
「コーヒーでいいか……って、水の方がいいか……。」
彼は何事もなかったように私に接した。立ち上がり彼のいるダイニングの方に向かうと、クッション性が失われてそうなソファーに、毛布が無造作に置いているのが見えた。
「……すみません。ベッドを奪ってしまったみたいで……。」
彼がチラリと私を見た。とても不機嫌そうだった。
「それ、もういいから。」
「え?」
「もう聞き飽きた。」
「……あ、あ~。」
そう言われ、彼が不機嫌な理由を知った。それが少しおかしい。
「ありがとうって言え。朝から気分ワリィ。」
「そうですね。ありがとうございます。」
「ん。」
私が言い直すと、彼は少しだけ機嫌が良くなった。
私のジャケットは、きちんとハンガーに下げられて窓辺で風に揺れている。
彼のジャケットを探すと、ソファーに毛布と一緒に丸められていた。それがとても彼らしくて、思わず笑ってしまう。
「んだよ。汚ぇ部屋で悪かったな。」
「違いますよ。ジャケットがなんでいつもヨレヨレなのか理由がわかっただけです。」
「……悪かったな、ヨレヨレで。」
彼はフンッと鼻を鳴らした。そして冷蔵庫を開ける。
「すぐ帰るか?こんな汚ぇところにいても何だし。」
「まだここにいたいと言ったら、いてもいいんですか?」
私がそう言うと、彼は意外な事を言われたとばかりに顔を上げた。虚を突かれるってこういう顔だろうなと思う。面白かったので、私はわざとダイニングの椅子に深く座り、ニッコリ笑って見せた。
「……どういう風の吹き回しだ?!お前?!」
「どういう意味ですか?」
彼は混乱しているのか、狭いキッチンを右に左に移動した後、ストンと椅子に座った。そして物凄く真面目な顔で言った。
「……熱でもあんのか?お前?」
「あったら看病してくれますか?」
「は?はぁ~?!」
完全に訳がわからないと言った感じで彼がボサボサの頭を掻きむしる。その様子がおかしくて、私はとうとう声を上げて笑ってしまった。
「は?!お前、ジンだよな?!小生意気な私立探偵の若造の?!」
「あはは!そんな風に思ってたんですね!あはは!!」
「いや?!どうしたお前?!いつもみたいにインテリぶった他人行儀な話し方しろよ?!」
「あはは!勘弁して下さい!朝から笑い殺す気ですか?!ベルさん!!」
彼はもう何も言い返してこず、ぽかんと口を半開きにして私を見ていた。それがさらにおかしかったが、私は懸命に落ち着くよう努めた。
「……大丈夫か?」
「失礼……。ふふっ。いや、大丈夫です。」
「ええと……うちにゃアスピリンしかねぇけど、いるか?」
「あ~。とりあえず、水もらえますか?水分を取れば落ち着くかもしれないので。」
「わかった。」
笑いが落ち着くと、ピリッとしたいつもの痛みが出た。ちょっとこめかみを押さえ顔をしかめたせいか、彼が気を使ってくれた。
あの夢を見た後はいつも偏頭痛が起こる。実験動物だった頃に色々な薬を飲んでいたし、打たれたし、麻酔をかけられている間に何かされていたし、その後遺症なのかもしれないし、単に忘れたい記憶を思い出したせいなのかもしれない。
でも、今日は幾分楽だ。目覚めた時、一人でなかったのが良かったのだろうか?
けれど、寝ている間に何を口走るかわからないので、恋人ができても一緒に暮らした事はない。
この歳になると誰だって結婚を意識し始めるので恋人も作りにくくなった。自分の過去を相手に晒す覚悟も、相手の人生を背負う覚悟も、今の私にはない。
だから目覚めた時、特にあの頃の夢を見た時、目が覚めて誰かがいるというのははじめての経験だった。
「……あれは何を調べていたのだろう?」
今朝は随分、気持ちに余裕があった。だからふと、あの時、何の実験していたのだろうと、それまで考えた事のなかった疑問を持った。
「なんかわかったのか?」
彼がコップの水を渡してきた。それを受け取り、礼をいう。
「いえ、違う件の話です。そういえば、ルサルカの研究はどこまで進んでますか?」
「ん~。俺は小難しい事はわかんねぇからなぁ~。」
彼と組んで良かったと思うのは、警察側が行っている毒性試験の情報が得られる事だ。
先日のように、売人などから使用した場合どうなるかの話を聞く事はできても、それが生体反応としてどう作用しているかなどはわからない。やはり公的機関で出されたデータほど信憑性のあるものはない。
「まだ始まったばっかだしな。結果が出んのはもう少し先になるだろ。手に入ってるサンプル自体少ねぇし。ただやっぱオピオイド系だろうってのか濃厚みたいだな。」
「そうですか……。確かに売人の話でも鎮静作用が強い薬のようでしたからね……。」
「まぁ、その辺は降りてきたら教えてやるよ。俺んところまで降りてくる話なんざ、大した内容じゃないからな。」
「随分、大盤振る舞いですね?」
「お前が手に入れたサンプルがデカイからな。あの純度のモンを、あの量、手に入れてきたんで大騒ぎだったわ。」
「それは……お手数をかけました。」
「全くだ。どこで手に入れたって、尋問されたわ。」
その時の事を思い出したのか、彼はうんざりとした表情をした。少し笑ってしまったが、その事から彼が私の事を明かしていないのだと理解した。
そこから少しお互いの情報交換と今後について話し合った。彼はやはり、もう売人と接触するのはやめろと言った。
だがこれはチャンスなのだ。売人自体、見つけるのが難しい中、大本に繋がる卸に接触できるのだから。もしも流通元の組織が直接卸しているのなら、ラスボスに一気に近づける。
「……俺は反対だ。」
「ですが。」
「んなこたぁわかってる。だが……。」
彼は言い淀んでいる。
彼の立場は微妙だ。
確かに彼側の介入という手もある。だが同時に「情報屋」という側面から考えれば、私に彼らに接触させ、情報を貰い続ける方が捜査としては進展する。その私がどうなろうと、その方が捜査に有益なのは目に見えている。
おそらく彼は、ルサルカを「情報屋」のようなものから入手したという部分は話しただろう。
そして彼が何のお咎めもなく今まで通りにしているのは、警察側が彼の情報屋、つまり私を、このまま好きにさせた方が自分たちにとって美味しいと思ったからに他ならない。
だが彼の個人的な気持ちとしては、私にこれ以上、深入りさせたくない。それがどんなに危険な事か、長年、仕事をしてきた彼はわかっているからだ。
『お前、息子と同い年だ。』
その言葉を思い出す。
ズキリ、と胸が傷んだ。
朝日のさす窓辺で、私のジャケットが風に揺れている。
ふと、その下にある棚の上に写真が飾ってある事に気づく。無意識に立ち上がり、その小さなフォトフレームを手に取った。
「……これ……っ。」
言葉に詰まる。そこには生まれたばかりであろう赤子とそれを抱く女性が写っていた。
「あ?ああ……。昨日話した、妻と息子だ。」
私はその写真をじっと見つめる。生まれてすぐの頃の写真だ。
周りを見たが、他には結婚式の写真があるだけだった。
子どもの写真は、これしかない。
私の手は震えた。
そして写真をじっと見る。
まだ人間ともいえないふにゃふにゃの赤子の右足には、少し目立つ痣があった。
それを見て少しホッとした。こんな痣のある子は知らない。あの頃、あそこにはいなかった。
その事だけがほんの少しだけ私の心を軽くした。
「……なんか腹減ってきたな?飯食いに行くか?お前も帰るだろ?」
彼はそう言って、落ち着かない様子で立ち上がった。私に写真を見られて動揺しているのだ。
「……パンケーキ。」
「は?」
「パンケーキが食べたいです。」
「……おま……子どもか?」
唐突に言った私の言葉に、彼は呆れた。
私は写真を棚に戻し、彼に振り返って微笑んだ。いや、上手く微笑めていたかはわからない。
「……僕は孤児院で育ちました。だから小さい時、学校の友達がお父さんの作るパンケーキの話をするのがとても羨ましかったんです。」
彼にだけ秘密を話させるのはフェアじゃない。何故かそう私は思った。
彼はその後、パンケーキを作ってくれた。
パンケーキとは言い難い真っ黒なそれは、とても苦みの効いた、ビターな味わいだった。