①藤本尚人*いつもの夢とはじまり*
夢を見ていた。
薄暗い海の深くに漂っている。おうとつの激しい岩影に身を潜め、見上げた先に微かに光る海面の景色があった。
頭の片隅では夢を見ていると分かっていた。そして同時に、これが単なる夢ではなく、かつての自分が生きた世界だということも分かっていた。
揺れる海面を見つめながら自らの肉体に意識を向けると、八本の足がうごめくのを感じる。全身を包む白色の皮は、暗い海中で発光するように艶めいているだろう。
海で生まれ、海で育った八本足の軟体動物、イカという生き物。前世の記憶を夢に見るようになったのはいつ頃からだったか。
水面のある方向を見上げている。ゆらゆらと揺れながら待っている。
もうすぐ君がやってくる。
君の持つ橙色のうろこは、光を反射させて無数の色彩を放つ。龍のような形をした大きく豊かな体がやわらかく揺れ動き、群青色をした深い海に吸い込まれていく。
去っていく君の透き通った尾ひれを目で追いかけながら、
(気づいてはくれないだろうか)
と、いつも思っていた。
僕がここにいること。気づいてはくれないだろうか、あの美しい大魚。
唯一で切実な僕の願いだった。
アラームが鳴っている。
紺色のカーテンが引かれた自室に音が響く。10分ほど前からは、尚人はそろそろ時間だな、と思いながらベッドに横たわっていた。
ここのところ深い睡眠がとれていない。まったく眠れないということもないが熟睡できていない。朝が来れば洗面所へ向かうため立ち上がるけれど、うまく日常を始められないのだった。
「ご飯食べていく?」
キッチンで母が言う。頷いて、卵焼きとみそ汁と納豆ご飯という簡単な朝食をとる。
うっすら靄がかったような感覚のまま支度をすまし、外へ出ると青空が広がっていた。駅から徒歩圏内にある住宅街の快晴は健康的で、制服のブレザーを着込んだ尚人が佇む姿は正しく景色に馴染んでいる。
高校へ入学して2か月が過ぎる。自宅の最寄り駅から2駅で乗換え、3路線が乗り入れている混雑した構内を抜けて、下り列車で3駅。
畑が連なる線路沿いの風景はのどかだが、改札を通りロータリーに出ると、それなりに飲食店やショッピングビルが立ち並んでいる。
コンビニエンスストアを通り過ぎたところで肩を叩かれた。
「おはよ」
背中に受けた衝撃で、誰かすぐに分かった。
大沢竜次。入学式で隣の席になって以来親しくしているクラスメイトだ。
竜次は天然パーマの髪を風に揺らせて、かまぼこみたいな垂れ目を眠たそうに瞬かせながら尚人の隣に並んだ。
おい、竜次よ。この野郎。
尚人は悪態づきたい気持ちで彼を見た。
「なに?」
尚人の視線を受けて聞く竜次に、
「別に。おはよ」
答えた尚人は歩調を早め、竜次がついて来ていることを背中で確認する。
「月曜日ってなんだかだるいよな」
横に響く竜次の声。
「通学だけで疲れる」
振り向かずに答える尚人。
骨格から細い尚人と違って、肩幅が広く体格のいい竜次は人の目を惹く。顔のパーツのはっきりした、いわゆるハンサムであり、年齢問わず女性からの視線を集める。
進行方向を見つめる尚人の視線の先に太陽が出ている。柔らかな青空に浮かぶ暖かい光。
後ろから竜次の足音がしている。面倒くさそうに大股で歩いているだろう。通り過ぎる他校の女生徒が竜次を振り返っている。気にも止めず、竜次は歩いているだろう。
睡眠不足というのは体力を消耗しやすい。
教室についた尚人は鞄を放り投げるように置くと、机に突っ伏して目を閉じた。
「今日のホームルームないって。私用で遅刻するらしい」
「珍しいな、うちの担任真面目だから遅刻とかしないじゃん」
言葉を発するクラスメイトに答える竜次の声が頭の後ろからしている。
「大沢君、お菓子食べる?」
「食べる食べる」
「駅前のコンビニの新商品なんだよ。ポッキーに似ているんだけどポッキーじゃなくて……」
それも徐々に遠くなって、やがて聞こえなくなる。
ふと、頭に軽い衝撃を感じて目を開けた。
蛍光灯の光が眩しく眉をひそめて顔を上げると、黒板には数学の問題が並んでいる。三角の眼鏡をかけた教師がめくる問題集のすれる音が耳に届いた。
足元に転がっている消しゴムを拾い、斜め後ろに坐る竜次に手渡す。
「ありがとう」
小声で言うと、竜次は微かに頷く。
授業中に眠っていたら起こして。
頼みを律儀に守ってくれる竜次に感謝しながら、尚人は数式をノートに書き写す。
自分なりに頑張って合格した高校だ。不眠ぎみだからといって、入学早々勉強についていけなくなるのは避けたかった。
こんな調子で午前の授業を乗り切り、昼食後に訪れる激しい睡魔とも戦い終えた。あとは帰宅するだけ。それなのに、なぜか尚人はグローブをはめて、クラスメイト達と野球をして遊んでいる。
もちろんグラウンドは野球部が使っているから、近所の公園に移動する。誰かが用意した簡易的なホームベースまで設置され、人数は足りていないのに試合形式だ。
「次、藤本な」
中学時代野球部だった柿崎の指示を受け、尚人はネクストバッターズサークルへ入る。視線を向けると、竜次の力強いピッチングが目に入り、つい細かく観察する。
竜次の投げる球はスピードこそあるが、軌道は一定だ。見誤らなければ仕留められる。
こうやってピッチャーの力量を見極め作業は懐かしい。尚人も中学時代は野球部だった。厳しい練習が嫌だから帰宅部を選択したという柿崎とは違う理由で尚人も帰宅部を選んだ。野球はもうやらないと決めているのだ。
バッターボックスに入ると、竜次と正面から向き合う格好になる。離れているこの距離の分だけ通じている何かがある。ふと不思議な感覚がして、近頃思い悩んでいるある懸念が色濃く浮かびがってくる。
「絶対打つ」
振りかぶり、竜次の投げたボールは予想通りの軌道で飛んでくる。尚人はポイントを合わせてバットを振るだけでよかった。
気持ちのいい音をたててボールは打ち返されて空に放たれていく。
深く眠ることができない、という問題の他に、尚人の胸に秘められているものがあった。
「ナイス!」
柿崎の高い声が響く。
橙色に染まり始めた夕方の空に白いボールが落ちていく。先ほどまで尚人に向けられていた竜次の真剣な眼差しは、すでに頭上へと移動している。
俺を見ろよ。
尚人は思う。お前の球を打ったのは俺だろ、俺を見ろよ。
自分以外のものに関心をよせている竜次がいるなんて腹が立つ。
俺はどうかしている。
尚人は自分の中から現れてくる感情が理解できなくて混乱している。
目で追わずにいられないのに、流れる風や軽やかな空気みたいに飄々とした彼を、つかめなくて苦しいのだった。