4 パンケツァリストリの祭祀
太陽神であり、軍神であるウィツィロポチトリの誕生を祝うパンケツァリストリの祭祀が始まった。
夜明けと共に、走りの神パイナルの装いの男が太陽と共に神殿から駆け降りてくる。球技場まで駆けてくると、四人の供犠を殺し、球技場をその血で染め、神殿を走り去る。
走り出たパイナルが周辺都市で供犠を捧げる間、球技場では槍と矢を投げ合い若者たちが戦いながらパイナルの帰りを待つ。
神殿の周りに焚かれた篝火の数が多い。それは、クィトラワクの後任、クアウテモクへの期待の大きさを示している。一度退却したスペイン人たちが再び攻め入って来るのは目に見えている。それに対抗すべく、若く、強い王を立てるのだ。
クアウテモクとテクイチポが座る雛壇からは、球技場がよく見える。
クアウテモクはあの女が球技場に出ることを知っていたのだろうか。アロの言い方では、彼女はクアウテモクの特別な存在だったに違いない。
ちらりとクアウテモクの横顔を見ると、球技場を無表情で見つめていた。
「何だ?」
テクイチポの視線に気づいたのか、クアウテモクが正面を向いたまま呟いた。
「いえ」
黄金の頭飾りに鷲の羽飾り、肩にはジャガーの毛皮を羽織り、首や腕、耳、指、飾れる部分の全てに黄金を纏ったクアウテモクは歴代の王たちを上回るかのような威厳に満ちていた。
神殿では、四人の供犠が神官の手により、次々と供えられてゆく。供えとして使われなかった部分は、王侯貴族らに振る舞われるため、すぐさま厨房に運ばれる。
神官の祈り、歌と踊りの奉納に続き、球技場に貴族と市民が二手に分かれて入ってくると、人々は熱狂した。
貴族たちは槍を、市民たちは矢を持って投げ合い始める。次第に怪我人が増え、血で染まった球技場が更に血で染められていった。
二人の前に料理が並べられる。
「手をつけないのか?」
身じろぎ一つしないテクイチポにクアウテモクが訊ねる。
この場では、王、王妃の順に手をつけなければ、下位のものたちが食事を始められない。
「遠くて見えまい。それらしくトルティーヤを口に運べ」
クアウテモクが呟いた。
トルティーヤを手に取り、果汁を絞り、巻いたトルティーヤを口に含む。
黙々と柑橘の香りのするトルティーヤをテクイチポは噛み締める。飛び散る血と肉を前に、食欲など出るわけがなかった。
隣に座るクアウテモクを横目で盗み見ると、その瞳から一筋の涙が溢れ落ちる瞬間だった。
あの中にあの女はいないと伝えるべきだったのだろうか。テクイチポには、男装した女がいないことは明らかだった。
選ばれた市民や貴族の若者たちの中には、従軍していた者もいれば、彼の軍に加わっていた者もいたかもしれない。
彼に涙の意味を訊ねることは出来なかった。
祭祀の後、宴が盛り上がる中、テクイチポは寝室に戻ってきた。今晩から、クアウテモクと同室だ。寝台を二つ入れるよう手配しようと考えていたが、月の障りの動転の余り、忘れていた。
クアウテモクがあのように言っていたのだから、毎晩この寝室で寝るとは思えない。もしかすると、一度もこの寝室を使うつもりはないのではないか、とも思う。だとすると、王の寝室を占拠するテクイチポの方が立ち退くべきなのだろうか。
寝支度をしていると、部屋の扉の開く音がする。
「まだ起きていたのか」
クアウテモクだった。
椅子に腰掛けると、使用人に飲み物を用意させる。
「もう、休むところです」
「邪魔をして悪かったな。飲んだら、すぐ出て行く」
クアウテモクはカカオの実をすり潰して水と混ぜた飲み物、ショコラトルを飲み始めた。
部屋でクアウテモクが鎮座する中、寝台に潜るわけにもいかず、テクイチポは彼の向かいに座る。
「飲むか?」
ショコラトルは、大人の男の飲み物だ。勧められたことに驚いた。
「苦いですか?」
「蜂蜜を入れている。唐辛子は入れてない」
クアウテモクが差し出した盃を受け取る。蜂蜜を入れるとは聞いたことがない。テクイチポでも飲めるように香辛料を変えてくれたのだろうか。
舐めるように口をつけるが、思った程苦くない。
ごくりと一口、飲み下す。
舐めた時よりも、苦味が口に広がる。本当に蜂蜜が入っているのだろうか、ともう一口飲み下す。
意外と飲める。さらに、ごくりと飲み進める。蜂蜜のせいか、カカオのせいか、飲むと元気になるような気がする。
「おい… 初めて飲むのだろう、ゆっくり少しずつだ」
クアウテモクは盃を持つテクイチポの手を止める。
「美味しいです」
「戦士の興奮剤でもある。たくさん飲むと眠れなくなるから、そのぐらいにしておけ」
盃はクアウテモクの手に戻される。
「… お疲れですか?」
ショコラトルは宴会の場でも飲める。わざわざ、抜け出して来た理由を訊ねる。
「まあな。深夜まで続くから、一休みも兼ねてだ」
クアウテモクは答えてから、テクイチポに視線を寄越す。
「その問いは… あまり良くない」
「え?」
「寝室にやってきた夫に訊ねる言葉として、適当ではない」
クアウテモクが口角を上げるが、テクイチポには意味がわからない。
「… 仰る意味がよくわかりませんが… 」
「疲れてなければ… まあ、疲れていたとしても私には大した問題じゃないが… するべきことをしよう、と誘っているように聞こえる」
クアウテモクが言う内容を反芻する。
「あ… 」
中途半端な時間の後、意味を理解した。
「朝までは戻らないし、寝台を使うのは入れ違いだ。ゆっくり休め」
クアウテモクは盃を傾ける。
「あの… 私は、ここで眠ってよいのですか? 別の部屋でも… 」
「お前のいいようにしろ。私はここで眠るが… 」
「… 他の女を呼ぶなら、別の部屋に寝ます」
最初の夫は、キノコで幻覚状態になった時、他の妻や妾を連れてテクイチポの部屋にやって来たことがある。その度にテクイチポは慌てて別の部屋に逃げ込んだ。入れ違いだとしても、遭遇はしたくない。
「… ああ、そういう話か… ここには呼ばぬ。そうしたい時は、私が他所へ出向く」
テクイチポは頷く。今後、帰らぬ晩もある、ということだ。きっと帰ることの方が少ないに違いない。
それならそれで、むしろ安心して使える。安堵と鈍い痛みの両方が入り混じった。
「まだ、飲むか?」
ショコラトルの少なくなった盃を受け取った。
口をつけると、先ほどより粘度が高く、濃厚だ。先ほどまでは丁度良かった蜂蜜や他のスパイスが沈殿していたようで、喉を刺激する。
ゴホッ
強い刺激で咽せる。
「下らないことを言うから仕返しだ。沈んだショコラトルは飲み干さないものだ」
ゴホゴホッ
「子どもであれ、妻にした女を傷つけはしない。変な気を回すな」
またも子どもと言われ、腹が立ったが、喉の痛みで反論できない。
咽せるテクイチポの背中をさすりながら、クアウテモクは笑っているようだった。