35 スマラガ司教
それから、何事もなかったようにフアン・カノは毎朝やってきては、遅くまで仕事をし、イザベルとプルケを飲んで帰って行った。タクバに来て半年が経っていた。
「ドニャ・イザベル、話す時間はありますか?」
昼間にフアン・カノが話しに来ることは珍しい。
「ええ」
イザベルはタクバの屋敷の庭にまた、花壇を作り始めていた。手の土をはたくと、立ち上がる
「また、花の都テノチティトランの庭を作ろうと思って… 」
「いいですね」
カノはイザベルの使っていたジョウロを手に取り、ポーチに向かう。
「前の花壇、あなたは一番いい時期を見ていないでしょう? お世話までしてくれたのに」
「ああ… 」
カノは何やら考えこんでいる。
「さて、書斎に行く?」
「ええ… 」
カノの答えの歯切れが悪い。
「ぼうっとしてる?」
「あ、ごめんなさい。客間へ。スマラガ司教を呼んでいます」
息子フアニートの洗礼を施した聖職者だ。司教という高位な立場であり、イザベルたち住民の権利を擁護する活動をしており、まさに庇護者だった。
「ペドロの荘園の話と、タクバの話を相談しています。一緒に聞いて下さい」
司教との話は、ペドロの荘園の話から始まった。荘園はペドロの長子たるフアニートに継承権があるが幼いこと、フアニートはイザベルが養育しているものの女性には資産を管理する権利がないために、荘園は手離さざるを得ないことが説明された。
「例えば、ドニャ・イザベルが再婚して、フアンが成人するまで適切に管理できる白人男性がいれば、話は変わりますが… 」
「… それは、難しいです」
それを理由に結婚することは受け入れ難い。
「司祭、本国では相続や土地の所有を巡って訴訟を起こせるでしょう? ここでも、同じように法を適用できますか?」
カノが話を続ける。
「本国の法と、この地の法は同じものも、違うものもある。それを紐解かねば、何とも… 」
暫く考えた後、司祭は、協力的な弁護士を探すと約束してくれた。
「フアンの土地は諦めて返還するしかないかと。しかし、このタクバは、当初ドニャ・イザベルが受け取った分から目減りしている。近隣の地権者が強引に奪った部分もあるし、市に貸した部分もある。整理して、公聴会で主張しようかと思います。ご意見をお聞かせいただきたい」
カノは、司教とイザベルの顔を見比べる。
「賛成します。教会や本国など、私が主張できるところはお手伝いしましょう。公聴会は状況が好転してからが良いでしょう。それにしても、ドン・フアンが主張するとなると、ドニャ・イザベルとの関係を説明することが難しいのでは? 本題に入る前に、要らぬ詮索が入るかもしれません。私が動きますよ」
司教は快く引き受けてくれた。
「ありがとうございます。ドニャ・イザベルは?」
再び、イザベルに話を振られる。
「私が直接できることではないから、フアン・カノにお任せします。でも、それは大変なことでしょう?」
「何もしなければ、一層、厳しい状況になります」
「… わかりました。よろしくお願いします」
スマラガ司教は、また話し合おうと言って帰って行った。
「いろいろと、面倒を掛けてごめんなさい。どう… お礼をしていいかわからないわ」
ただでさえ、朝から晩までイザベルのために働いている。これから、更に忙しくなるに違いない。
「礼は、気にしないで下さい」
フアンは司教を見送ったポーチから、中へ戻ろうとする。
「そうだ… 今日始まった東南の水路の修繕… あれは、工事費が捻出できないと言って先送りしたと思うのだけれど… 」
「ああ… あれは、直せば収穫量に直結します。すぐに回収できるので… 」
「でも、当面支払いはできないわ」
ペドロには全てを任せてきたが、カノから収支計算を教えてもらい始めた。今の状況では到底無理であるし、貸付の担保になるものもない。
「あなたの資産から支払おうとしてない?」
イザベルの言葉にカノが振り返る。
「… 私からの貸付にしましょう。いずれ元は取れますよ」
イザベルは頷く。イザベルが指摘しなければ、彼の持ち出しとするつもりだったのだろう。
「… 」
イザベルはありがとう、と言いかけて飲み込んだ。彼にありがとうと言うばかりだ。対価を渡せなければ、この不均衡な関係はいずれ破綻する。
しかし、すぐに答えの出る問題ではない。
「ごめんなさい… 」
考えがまとまらない。一旦、庭に戻ろうと、イザベルはカノに背を向けた。
「ドニャ、さっきの花壇の話… 僕のために、花壇を作ってくれていますか?」
階段を降りかけたところで、カノが呼び止める。
「… そうよ」
振り向く勇気がなく、小さな声で返事をした。昔作った花壇を褒めてくれたため、カノならきっと喜ぶだろうと思ったのだ。
「ありがとう! この後、出掛けますが、夜には戻って来ます」
彼の言葉を背中で受け止めた。




