34 タクバへ
それから間もなく、荘園の礼拝堂から神父を呼んだ。
フアン・カノは塗油のために神父を呼ぶのを躊躇っていた。彼はイザベルにそれを告げることで、イザベルを傷つけると考えていたからだ。しかし、イザベルがそれに気がついて、切り出すとカノはすぐに呼びに行った。それだけ、残された時間は僅かだった。
ペドロ・ガジェゴ・デ・アンドラーデは三十五歳で亡くなった。
生前から、イザベルに何度となく自分の死を受け入れるように語っていたこともあり、イザベルが取り乱すことはなかった。
そして、ペドロがフアン・カノに準備させていた通り、イザベルたちの住まいをタクバに戻すことになる。
出発の数日前、シウトリがイザベルの元にやって来た。
「ドニャ、私は暫くここに残ります」
「行かないの?」
「ええ。この土地の権利はまだはっきりしていません。誰か残るなら、私が適任でしょう。お困りの時はいつでも呼んでください」
「そう… ありがとう」
シウトリの意思で残るなら、無理は言えない。
イザベルは大男のシウトリの首に手を回し、抱きついた。
「ありがとう。別れではないけれど、寂しくなる… 」
「おやおや、いつでも苦言を呈しに行きますよ。あなたにそれが言えるのは私ぐらいですから」
シウトリは笑った。
後ろに控えていたアロが進み出る。
「イザベル様… 実は私も… 」
「え!」
アロがシウトリの横に立つ。
「もしかして… 」
「はい… シウトリを助けようと思うのですが、お許し頂けますか?」
シウトリはアロの肩を抱いた。
「勿論よ!」
イザベルはアロに抱きついた。
「今までありがとう。あなたの幸せが見つかって良かった… 長く引き止めてしまってごめんなさい」
「いいえ… 私が自分の意思でイザベル様のお側にいたのです」
アロは涙を滲ませた。
イザベルにとってのタクバ出発は想像以上に大きな変化になった。
赤ん坊のフアニート、タキ、シューマ、マルティン、そしてフアン・カノと共に住まいを移した。
タクバに着いてからは大忙しだった。ペドロが通いながらタクバを管理していた間、荘園内の住民らから上がっていた要望が山積みになっていた。フアン・カノは着実にそれらを解消していったが、蓄積された不満までは解消しない。
イザベルをよく思わない白人らに焚き付けられた住民は次々と権利を主張する。また、隣接する荘園主や土地の権利者との交渉が後手になり、農地に汚水が排出されて耕作できなくなった場所さえある。
フアン・カノがペドロに住まいをタクバに戻すべきだと強く勧めた意味を、イザベルは来てみて初めて理解した。
「いつもありがとう… 」
フアン・カノはタクバの近くに小さな屋敷を借り、毎日イザベルの館に通ってくる。
夜遅くまで働くカノに、酒を運ぶのがイザベルの習慣になった。
ペドロは酒を飲まなかった。そのため、プルケと共に出すツマミは何がいいのかわからず、マルティンに教えて貰い、小さな礼のつもりで毎晩作っている。三ヶ月も続けると、マルティンの助けなしに、何種類か用意できるようになった。
「こちらこそ。楽しくやってます」
カノはプルケを飲みながら答える。
「前は… 断られたけれど、やはり報酬を決めましょう」
「… 報酬か… 」
カノが呟く。
「まだ、負債がある。暫くは報酬を支払える状況ではないですよ?」
「… 」
土地と人はいる。目減りはしたが、作物による収入もある。しかし、新たな開墾、治水、軽工業の作業場への投資、古くなった住民の住居の建て直し、様々な出費はペドロがやり繰りし、足りなければ立替え、それでも足りなければ金を借りて回していた。
「今はまだ、お金の心配はしなくていいです。今に好転します。その時にその話をしましょう」
フアン・カノはイザベルに微笑む。
「ああ、今日の当ては、キノコのオイル煮! 懐かしい。マルティンに礼を言ってください。あなたも召し上がりますか? 美味しいですよ」
話題を変えるように、フアン・カノはフォークに刺したキノコをイザベルに渡す。
「ありがとう。私は、作る時に味見したから… 」
「え? あなたが作った?」
カノは驚いた顔を見せる。
「ええ。お口に合ったなら、嬉しいわ」
「… 今までのものも?」
「ええ。タクバに来て以来、マルティンは、夕食の後はもう下がって貰ってるから… 」
「ありがとうございます… あなたが作ったのだと知っていたら、もっと… 」
彼は早口で話し始めたと思ったら、途中で話すのをやめてしまった。
「ごめんなさい。やっぱり… どうしてもわからない。何故、私たちを助けてくれるのです? ペドロとも、元々親しかった訳ではなかったでしょう?」
燭台の灯り越しにカノの顔を見る。
「… あなたもプルケを飲みますか?」
「… ええ」
使用人の数も減らさざるを得ず、以前のアロのように付きっきりで世話をしてくれる人ももういない。
カノは戸棚からグラスを取り出すとイザベルの前に置く。
「どうぞ… 」
プルケを注いだグラスをカチリと合わせるとカノは一気に飲み干した。
イザベルも口をつける。飲むと言ったものの、口にするのは十年ぶりぐらいだ。戦時下とそれに続く幽閉期間は飲む気にならなかったし、ペドロも飲まなかったから、機会がなかった。
「… こんな味だったわね… 」
酸味と苦味が口に広がる。
「果汁で割りますか?」
「それは、また今度に… 」
今から厨房に行く気にはならなかった。
「… 私があなたに恋をしているからだと聞いても、今の生活を続けられますか?」
唐突にフアン・カノが言った。
「… 今、もう聞いてしまったのだけど… それは、あなたを追い出すか、追い出さないか、という質問なの?」
「いえ、仮に、です」
「仮になんて、思えないじゃない?」
プルケが回って来たのか、イザベルの顔が火照る。
「僕は、何年も前、テクと名乗るきみの庭で、恋に落ちた。彼女は、王妃でも、お姫様でもなく、僕にとっては一人の女性だった」
話し続けるカノの顔を見ることが出来ない。
「明日になったら、忘れて下さい。あなたは王妃であり、お姫様だったのだから。私も、彼女のことを忘れようとしています」
カノはプルケを飲み、黙り込むイザベルの隣でキノコを口に含む。
「美味しい。さあ、あなたも… 」
カノがフォークに刺したキノコをイザベルの口の前に差し出す。
フォークを受け取ろうとするイザベルの手をかわすと、カノはイザベルの口にキノコを入れた。
「… もう… 」
抗議するイザベルを見て、カノは笑う。
「僕なら、王妃でも、お姫様でも、きみを幸せにするけどね…」
イザベルは結局、目を合わせることが出来ず、黙々とプルケを飲み続けた。




