31 小さなフアンの誕生
ペドロは人相が変わるほど痩せていったが、赤ん坊に会いたいという気持ちを支えに病と闘った。
「イザベル、名前なんだけど… 」
ペドロの枕元で産着に刺繍をしていると、夫が呟いた。
「フアンか、フアナにしたい」
イザベルが顔を上げると、ペドロは頭を持ち上げ、じっとイザベルを見つめていた。
「… ええ」
使徒ヨハネに因む名であり、反対する理由はない。しかし、フアン・カノと同じ名前であることに、引っかかった。
「大切な女性を任せる… そんな意味を込めて… 」
イエス・キリストが、聖母マリアを使徒ヨハネに託したことを言っている。
「任せないで、私と一緒に居て… まだ、私たちは始まったばかりじゃない… 」
頬を涙が伝う。
「… イザベル、受け入れて… もう、先を見て。この子のために… 」
ペドロは傍らに泣き伏すイザベルの手を握った。
§
そして、イザベルは男の赤ん坊を産んだ。
シウトリとアロに支えられながら、寝台で休むペドロの元に赤ん坊を連れて行く。
「あなた、男の子だった!」
ペドロはゆっくりと目を開く。この日のペドロは、体調が悪かった。数日前までは、生まれたら一番に抱き上げると言っていたのに、歩けないほどになってしまった。
「ありがとう… イザベル… この子の名前はフアンにして。洗礼を、それから、フアン・カノを呼んで… 」
ペドロは枕元に寝かされた赤ん坊の頬を指の背で撫でたり、小さな手のひらに指を絡ませ、涙した。
三日後に、フアン・カノは庇護者と呼ばれるフレイ・フアン・デ・スマラガ司教と共にやって来た。
そして、フアン・デ・アンドラーデ・モクテスマは受洗した。
初めて、赤ん坊に愛情を注いだ。
心の不安のせいか、乳の出は良くなかったが、時間のある時は、ペドロの枕元でフアンを抱いて過ごした。あまりにそこにいる時間が長くなり、ペドロの寝台の隣に長椅子を並べ、眠るフアンを腹に乗せて、ペドロに付き添った。
「ドニャ、フアニートが危ないから、僕に抱っこさせてください」
イザベルが長椅子でうとうとしていると、シューマが傍に立っていた。
「え?」
タキの息子は九歳になった。シューマはイザベルと話すときも、白人の言葉を使う。他の使用人たちに言葉を覚えてもらうためでもあり、ペドロのわからない言葉を使わないようにというシューマの気遣いでもある。
「ドニャが休む時は、僕が預かります」
シューマはそう言うと、フアンを抱き上げる。
「ありがとう。フアニート?」
「フアン、と呼ぶ時にドン・フアンがいると、ドン・フアンが僕を振り返るんです。だから、小さいフアンは、フアニートと勝手に呼んでます。ごめんなさい」
「なるほどね… フアニートがいいわね」
フアン・カノも、シューマの中では、もうこの家の一員なのだ、と気づく。
「シューマ、何か勉強したいことはある?」
テノチティトランの時代には、シューマの歳になれば市民の子どもも学校に行く年だ。何か考えようと思いながら、後回しにしてしまっていた。
「ドン・フアンやシウトリから計算を教わっています。シウトリみたいな仕事ができるように、見たり、やったりして覚えるつもりです」
シューマは、フアニートを抱いてゆらゆらしながら答える。
「いいわね。他に何かあったら言ってね」
苦楽を共にしているシューマを気にかけるのは自分の役目だと思っていたが、周りの大人たちがきちんと助けていて、ほっとするような、置いてけぼりにされたような複雑な気持ちになった。
§
出産から暫く経った頃、突然、メヒコ市から住民貴族の理事であるソチクェンが訪ねてきた。
ソチクェンは、市民階級だがクアウテモクの元で将軍になり、クアウテモクらと共に拷問を受けた一人だった。
「ドニャ、ご出産おめでとうございます」
ペドロには同席して欲しくないというため、庭に面したテラスに通し、シウトリを近くに控えさせた。
「はるばる、ようこそ」
「いえいえ… シウトリ殿もお久しぶりですね」
シウトリが背後で頷く。
「こちらまでお出でになるとは、何か大切なお話?」
「ええ。ドニャは、マルティン・オセロトルをご存知ですか?」
オセロトルは、メヒコ市の南東チナントラ出身の司祭で、改宗し白人の信仰の司祭に鞍替えした人物だ。彼は、司祭として活動をしているが、それは彼の新たな信仰ではなく、伝統的な従来の祭祀を行っていると噂され、白人たちから異端ではないかと疑われている。
「ええ」
嫌な話題だった。スマラガ司教が、オセロトルを疑っているからだ。
「ドン・ペドロの具合が悪いと聞いて、マルティンに祈祷を頼んではどうかと思ったのです」
ソチクェンは探るようにイザベルに言った。
「… まあ、ご配慮ありがとう」
それは、伝統の方法での祈祷を指しているに違いない。そうでなければ、ペドロをこの会話に入れたくない理由を説明できない。
イザベルはシウトリに目配せすると、ソチクェンに見えないようにテーブルの下で手を横に振る。茶は要らぬ、と伝えた。
「マルティンは近くの村に滞在しています。お返事を頂けるなら、すぐにでも」
活動家であるオセロトルとは、距離を置きたい。異端審問に巻き込まれる恐れがある。イザベルが巻き込まれれば、それは民衆の蜂起を扇動したと疑われるに間違いない。むしろ、オセロトルもソチクェンもそのために、イザベルを担ぎ出したいはずだ。
「あなたは、これからトラトアニに推薦される立場でしょう? 軽率な真似はおよしになった方があなたのためよ」
白人の支配する社会で、今もまだトラトアニが存在するのは滑稽だが、共同統治の枠組みはまだ崩れていなかった。クアウテモクの後、何人かがトラトアニに就任した。住民貴族を束ねるための形式的な役割として。
「ドニャ、太陽をお忘れですか?」
ソチクェンから笑顔が消えた。
「自ら隠れたのです。あなたは、彼の言葉をもう忘れたのかしら… 」
イザベルはクアウテモクの最後の演説を噛み締める。
クアウテモクは、今まで大切にしてきたもの良さは忘れるな、ただし、隠れた太陽がまた昇る日まで、それは心の内に秘め、形あるものは壊せ、と言った。
子どもたちには、私たちの定めではなく、彼らの定めを全うするために、自分を高め、力を得よ、と言った。
太陽が戻らない限り、次の世代に遺恨は残すなと言ったのだ。そして、彼は口には出さなかったが、私たちの太陽が戻ることはない、と悟っていたのだろうと思う。
ソチクェンが黙り込んだため、イザベルはフアニートを連れて来させ、眠っているフアニートを胸に抱いた。
「フアニートは、スマラガ司教に洗礼頂いたのです」
ソチクェンは、イザベルの協力は得られないと理解すると、屋敷から去って行った。
ソチクェンが敷地から離れるのをテラスで見届け、部屋に戻ると、フアン・カノがいた。
「… あら、いらしてたの?」
「はい、先ほど」
カノは手にしていた本を閉じる。
彼に酷い言葉を吐いて以来、まともに話しをしていなかった。互いに避け合っていたため、彼がイザベルの傍に来たことにもまごついた。
「良かったのですか?」
カノが訊ねたことに驚いた。イザベルたちは、自分たちの言葉で話していた。会話の内容をカノは理解しているようだった。
「ペドロが良くなるなら、どんな方法でも使いたいわ。でも、あれは… 一度でも関係を持ったら、大変な相手よ… 」
ソチクェンは住民貴族の評議会でも一定の支持がある。カノも彼と彼の周りの噂は知っているだろう。それに、マルティン・オセロトルは話題の人物だ。知らないはずがない。
「そうですね」
「ペドロが良くなるとしたら、奇跡だと思ってる。ペドロはそれに相応しい人だと思うけれど… それを願う私は、きっと相応しくないわ… 」
何万人、何十万人もの犠牲者を出したのだ。父王のことを日和見だと批判的に感じていた時期もあったが、彼は犠牲を出さない方法を選ぼうとしていた。今となっては、どちらが正しかったのかわからない。
イザベルとクアウテモクは、無謀な戦いをしたと言われるのか、それとも諦めずに戦い抜いたと言われるのか。いずれにせよ、今それを受け止めるのはイザベルしかいない。
戦いが終わって八年経っても、まだ火種はあちこちにある。
クアウテモクの遺志を伝えるのもまた、イザベルしかいない。
「あなたも充分相応しい。疲れたでしょう。私が… 」
カノはイザベルの手からフアニートを受け取ると、目を覚ました彼をあやし始める。イザベルのいない時にはよくそうしていたのだろう。慣れた手つきだった。フアニートも泣きもせずカノに抱かれる。
「タキが茶を用意して待っていますよ。行きませんか?」
先導するように奥の部屋に向かうカノとフアニートの後を追った。




