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メシカ最後の王妃の恋  作者: 細波ゆらり
第三章 テノチティトランを離れて
32/41

31 小さなフアンの誕生



 ペドロは人相が変わるほど痩せていったが、赤ん坊に会いたいという気持ちを支えに病と闘った。


「イザベル、名前なんだけど… 」

 ペドロの枕元で産着に刺繍をしていると、夫が呟いた。


「フアンか、フアナにしたい」

 イザベルが顔を上げると、ペドロは頭を持ち上げ、じっとイザベルを見つめていた。

「… ええ」

 使徒ヨハネに因む名であり、反対する理由はない。しかし、フアン・カノと同じ名前であることに、引っかかった。


「大切な女性を任せる… そんな意味を込めて… 」

 イエス・キリストが、聖母マリアを使徒ヨハネに託したことを言っている。


「任せないで、私と一緒に居て… まだ、私たちは始まったばかりじゃない… 」

 頬を涙が伝う。

「… イザベル、受け入れて… もう、先を見て。この子のために… 」

 ペドロは傍らに泣き伏すイザベルの手を握った。




   §




 そして、イザベルは男の赤ん坊を産んだ。

 シウトリとアロに支えられながら、寝台で休むペドロの元に赤ん坊を連れて行く。

「あなた、男の子だった!」


 ペドロはゆっくりと目を開く。この日のペドロは、体調が悪かった。数日前までは、生まれたら一番に抱き上げると言っていたのに、歩けないほどになってしまった。


「ありがとう… イザベル… この子の名前はフアンにして。洗礼を、それから、フアン・カノを呼んで… 」

 ペドロは枕元に寝かされた赤ん坊の頬を指の背で撫でたり、小さな手のひらに指を絡ませ、涙した。






 三日後に、フアン・カノは庇護者と呼ばれるフレイ・フアン・デ・スマラガ司教と共にやって来た。

 そして、フアン・デ・アンドラーデ・モクテスマは受洗した。


 初めて、赤ん坊に愛情を注いだ。

 心の不安のせいか、乳の出は良くなかったが、時間のある時は、ペドロの枕元でフアンを抱いて過ごした。あまりにそこにいる時間が長くなり、ペドロの寝台の隣に長椅子を並べ、眠るフアンを腹に乗せて、ペドロに付き添った。



「ドニャ、フアニートが危ないから、僕に抱っこさせてください」

 イザベルが長椅子でうとうとしていると、シューマが傍に立っていた。


「え?」

 タキの息子は九歳になった。シューマはイザベルと話すときも、白人の言葉を使う。他の使用人たちに言葉を覚えてもらうためでもあり、ペドロのわからない言葉を使わないようにというシューマの気遣いでもある。


「ドニャが休む時は、僕が預かります」

 シューマはそう言うと、フアンを抱き上げる。


「ありがとう。フアニート?」


「フアン、と呼ぶ時にドン・フアンがいると、ドン・フアンが僕を振り返るんです。だから、小さいフアンは、フアニートと勝手に呼んでます。ごめんなさい」


「なるほどね… フアニートがいいわね」

 フアン・カノも、シューマの中では、もうこの家の一員なのだ、と気づく。


「シューマ、何か勉強したいことはある?」

 テノチティトランの時代には、シューマの歳になれば市民の子どもも学校に行く年だ。何か考えようと思いながら、後回しにしてしまっていた。


「ドン・フアンやシウトリから計算を教わっています。シウトリみたいな仕事ができるように、見たり、やったりして覚えるつもりです」

 シューマは、フアニートを抱いてゆらゆらしながら答える。


「いいわね。他に何かあったら言ってね」

 苦楽を共にしているシューマを気にかけるのは自分の役目だと思っていたが、周りの大人たちがきちんと助けていて、ほっとするような、置いてけぼりにされたような複雑な気持ちになった。




   §




 出産から暫く経った頃、突然、メヒコ市から住民貴族の理事であるソチクェンが訪ねてきた。

 ソチクェンは、市民階級だがクアウテモクの元で将軍になり、クアウテモクらと共に拷問を受けた一人だった。


「ドニャ、ご出産おめでとうございます」

 ペドロには同席して欲しくないというため、庭に面したテラスに通し、シウトリを近くに控えさせた。

「はるばる、ようこそ」


「いえいえ… シウトリ殿もお久しぶりですね」

 シウトリが背後で頷く。


「こちらまでお出でになるとは、何か大切なお話?」

「ええ。ドニャは、マルティン・オセロトルをご存知ですか?」


 オセロトルは、メヒコ市の南東チナントラ出身の司祭で、改宗し白人の信仰の司祭に鞍替えした人物だ。彼は、司祭として活動をしているが、それは彼の新たな信仰ではなく、伝統的な(・・・・)従来の祭祀を行っていると噂され、白人たちから異端ではないかと疑われている。


「ええ」

 嫌な話題だった。スマラガ司教が、オセロトルを疑っているからだ。


「ドン・ペドロの具合が悪いと聞いて、マルティンに祈祷を頼んではどうかと思ったのです」

 ソチクェンは探るようにイザベルに言った。

「… まあ、ご配慮ありがとう」


 それは、伝統(・・)の方法での祈祷を指しているに違いない。そうでなければ、ペドロをこの会話に入れたくない理由を説明できない。

 イザベルはシウトリに目配せすると、ソチクェンに見えないようにテーブルの下で手を横に振る。茶は要らぬ、と伝えた。



「マルティンは近くの村に滞在しています。お返事を頂けるなら、すぐにでも」

 活動家であるオセロトルとは、距離を置きたい。異端審問に巻き込まれる恐れがある。イザベルが巻き込まれれば、それは民衆の蜂起を扇動したと疑われるに間違いない。むしろ、オセロトルもソチクェンもそのために、イザベルを担ぎ出したいはずだ。


「あなたは、これからトラトアニに推薦される立場でしょう? 軽率な真似はおよしになった方があなたのためよ」

 白人の支配する社会で、今もまだトラトアニが存在するのは滑稽だが、共同統治の枠組みはまだ崩れていなかった。クアウテモクの後、何人かがトラトアニに就任した。住民貴族を束ねるための形式的な役割として。



「ドニャ、太陽をお忘れですか?」

 ソチクェンから笑顔が消えた。

「自ら隠れたのです。あなたは、彼の言葉をもう忘れたのかしら… 」


 イザベルはクアウテモクの最後の演説を噛み締める。


 クアウテモクは、今まで大切にしてきたもの良さは忘れるな、ただし、隠れた太陽がまた昇る日まで、それは心の内に秘め、形あるものは壊せ、と言った。

 子どもたちには、私たちの(・・・・)定めではなく、彼らの(・・・)定めを全うするために、自分を高め、力を得よ、と言った。

 太陽が戻らない限り、次の世代に遺恨は残すなと言ったのだ。そして、彼は口には出さなかったが、私たちの太陽が戻ることはない、と悟っていたのだろうと思う。



 ソチクェンが黙り込んだため、イザベルはフアニートを連れて来させ、眠っているフアニートを胸に抱いた。


「フアニートは、スマラガ司教に洗礼頂いたのです」

 ソチクェンは、イザベルの協力は得られないと理解すると、屋敷から去って行った。





 ソチクェンが敷地から離れるのをテラスで見届け、部屋に戻ると、フアン・カノがいた。


「… あら、いらしてたの?」

「はい、先ほど」

 カノは手にしていた本を閉じる。

 彼に酷い言葉を吐いて以来、まともに話しをしていなかった。互いに避け合っていたため、彼がイザベルの傍に来たことにもまごついた。



「良かったのですか?」

 カノが訊ねたことに驚いた。イザベルたちは、自分たちの言葉で話していた。会話の内容をカノは理解しているようだった。


「ペドロが良くなるなら、どんな方法でも使いたいわ。でも、あれは… 一度でも関係を持ったら、大変な相手よ… 」

 ソチクェンは住民貴族の評議会でも一定の支持がある。カノも彼と彼の周りの噂は知っているだろう。それに、マルティン・オセロトルは話題の人物だ。知らないはずがない。



「そうですね」

「ペドロが良くなるとしたら、奇跡だと思ってる。ペドロはそれに相応しい人だと思うけれど… それを願う私は、きっと相応しくないわ… 」


 何万人、何十万人もの犠牲者を出したのだ。父王のことを日和見だと批判的に感じていた時期もあったが、彼は犠牲を出さない方法を選ぼうとしていた。今となっては、どちらが正しかったのかわからない。

 イザベルとクアウテモクは、無謀な戦いをしたと言われるのか、それとも諦めずに戦い抜いたと言われるのか。いずれにせよ、今それを受け止めるのはイザベルしかいない。



 戦いが終わって八年経っても、まだ火種はあちこちにある。

 クアウテモクの遺志を伝えるのもまた、イザベルしかいない。



「あなたも充分相応しい。疲れたでしょう。私が… 」

 カノはイザベルの手からフアニートを受け取ると、目を覚ました彼をあやし始める。イザベルのいない時にはよくそうしていたのだろう。慣れた手つきだった。フアニートも泣きもせずカノに抱かれる。


「タキが茶を用意して待っていますよ。行きませんか?」

 先導するように奥の部屋に向かうカノとフアニートの後を追った。





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